毎日が命日
彼岸も過ぎたけれど蒸すので締め切ってエアコンをつけている。ガラスを隔てた外からはギリギリと規則正しい虫の声、断続的に響く電車の駆ける音。
希死念慮をごまかすために観始めた過去のドラマを一気見するのを止められず、私は息子が寝たあとも夜ふかしをしている。
だらだらと動画を見ていることにかすかな罪悪感はあるが、それよりも、動画を見るエネルギーが湧いてきたことを素直に讃えたい。
この半月、寝込み、身の回りのことがままならず、水分もそんなに取らなかったからトイレの回数さえ減った。ゴミをゴミ袋にまとめる、洗濯をして乾燥機に入れる、その程度の家事だけで過ごしてきた。
うつ状態はやる気を搾り取り、焦燥感を染み込ませる。双極性障害を罹患している私は、精神のバランスがいつも危うく、希望があったりなかったり、泥のように横たわっていることしかできなかったりする。
できるときに少しでも巻き返そうとするとすぐだめになる。起き上がれない。
私は正社員で絶え間なく働いて生活をして貯金もしたいというのが理想だが、最近になってようやく、それは自分には不可能ならしいと気づき始めた。
眠れない時期を過ぎてやたらと眠る日々が訪れた。夜眠り、朝起きて、息子を送り出したら、夕方まで眠る。何度か目は覚めるけれど夢うつつで、いつの間にか寝ている。ひたすら寝ている。もうこれはそういう時期だと思うようにした。過眠になって少しして、希死念慮が治まった。何をしていても希死念慮に取り憑かれていたのが治まった。
これは進歩だ。
前の仕事ではかなり無理をしていたのだと思う。身についたことはたくさんあったと思いたいが、それ以上に周りに迷惑をかけていたと思うと未だに後ろめたい。
息絶え絶えだった日々、毎日疲れていて、死にたかった、とても死にたかった。何もできない自分の存在が許せなかった。行きもつらく帰りもつらく、電車が恐ろしく、帰り際につらすぎて頓服を多めにのむと足にきて満員電車で立っていられなくなるので、特急料金を出して、座れる特急に乗ることになる。数えきれないほど繰り返していた。
退職して2ヶ月、すっかり秋めいて、ようやく私は起き上がれるようになった。いつも頭にあった死にたい気持ちが薄らいだ。
義実家に頼りきりだった夕飯づくりと保育園のお迎えを、少しづつ再開しようと思えた。夕飯づくりを20日ほど続け慣れたので、保育園のお迎えも行くことにした。家族以外の他人と接することがとても苦痛だったが、ようやく先生方と挨拶を交わす程度には回復してきた。
私が保育園のお迎えに行くと息子はたいそう喜ぶので張り合いがあった。あまり言葉にはしていなかった「おかあさんが一番すき」という言葉に支えられながら、日々を過ごす。
同時に、障害年金の申請準備を始めた。ごく近くに障害年金に特化した社労士の事務所があり、相談予約を入れても当日になるとどうしても起き上がれずキャンセルを重ねてきた。
やっと行けるようになり、初回面談をみっちり2時間受けて、依頼することに決めた。当初は自力でやろうと思っていた。申立書というこれまでの、18年前からの病歴を事細かに記載する書類がある。これを自分で書き上げたいという気持ちが当初は強かったが、他の提出書類も複雑なのでプロに依頼することにした。
とにかく焦らずに、動きすぎずに、できることから、ゆっくりすぎるぐらいのペースで回復するよう心掛けた。活動しすぎると躁転するかもしれない。活動しなさすぎるとどこまでも衰えうる。程々がわからないので、とりあえずゆっくりと、ゆっくりと生きることにした。
思えばこのようにゆっくりと行動したことはなかった。いつもいきあたりばったりというか、目の前のことに猪突猛進で、動き続けなければ死ぬ、死ぬべき、と思っていた。自分をどんどん削ってすり減らすことが当たり前だった。死にたいのも当たり前、安定剤なしに仕事できないのも当たり前、とにかく働かなければ、価値がないと思い込んでいた。その末に死んでしまうこともまた、やむを得ないことだと思っていた。
毎日が命日になりうる生き方をしていた。
頭の中は常に死にたい気持ちと、仕事が満足にできない無力感で満ちていた。息子を慈しむ余裕はなく、成長を感じる時間もまったくなかった。朝起きて仕事に行き、泣きたい気持ちで夜遅くに帰ってきて酒と眠剤を飲んで眠った。休日は寝たきりで泥のように布団に染み込んでいた。
今なら思う。無理をしすぎていた。自分のできることを把握できないまま、毎日に流されてもがいていた。自分の人生なのに、舵をとれず、できないことに目を向けるばかりだった。どうしたら楽になるか考えるという発想はなかった。
次の仕事を3日で行けなくなり、ようやく自分の生き方に目を向ける時がきた。私には、どう頑張っても、できないことがある。できないことをできるようにするには30を超えた今では難しく、できることの延長に仕事を設定しないといけないということにやっと気付いた。皆きっと考えずとも、もしくは考えて10代20代で知っていることに、34にして気付いた。
働くということ自体ができないことなのだった。
息子を迎えに行き、夕飯を作りみんなで食べる、それをしばらく続けてやっと、次に何かしようと思えた。ほんとうは国家試験の勉強が優先だったが、肩こり腰痛頭痛がひどいので負担の少ないプールに通うことにした。障害者手帳を出せば同伴者1名も無料になることがわかり、義母を誘うと喜んで付き合ってくれた。週2回から始めてみることにした。
プールでウォーキングをした。久々のぬるま湯はとても心地良く、水の抵抗を感じた。いつまでも歩いていられそうだったが控えめに切り上げて、徐々に長くしていきたい。
11月半ば、保育参観があった。もう息子は年長なので最後の機会だった。家族以外の他人に会うことが苦痛でたまらなかったけれど、幾分回復していて、この機会を逃してはいけないと思い切って参加した。
子どもたちはひとりひとり違う。息子の内向的なところ、協調性の低さがまず気になった。自分の保育園の頃とそっくりそのままだった。似てほしくないと思いつつ、マイナス面を指摘してもつらいだけで何も伸びないことは自分がいちばんわかっているので、気になるのは抑えてプラスに捉えることにした。
今まではどこかで、保育園に預けてしまえば別次元というか、他人事に思っているところが私にはあった。
しかし息子は他でもない私のたったひとりの息子で、この先も育てていかねばならないのだ、と唐突に責任感が湧いた。
私も保育園が嫌いで、ひとりで過ごしたい、自分のペースでやりたかったので、集団に馴染めないことのある息子の心境は手に取るようにわかった。私がそうして毎日保育園で過ごしていたことをほめてくれる人は誰もいなかった。だけど、息子を見て、私もかつては自分なりに頑張っていたのだし、それをわかってもらいたい、わかってもらえなくてつらかったのだと知った。
そしてその分息子が毎日頑張っていることをほめたいと思った。生きていることを肯定したい。それをできるのは、他でもなく、親である私と夫だけなのだと、やっと知った。
保育園は行ったり行かなかったりしている。夫が送れる余裕のない日は、私が送るしかないが、朝はそんな余裕がまったくないので、家で見るから…と息子と二人でぐうぐう眠ることになる。気づけば息子は起きて勝手にバナナを食べて音楽を聞いたりタブレットを見たりしている。昼頃私が起きて簡単な昼食をつくって食べる。
今日は調子が悪いなと思ったら外は雨だった。じっとりと脳に張り付くような不快感。意欲を奪われる。おすすめに上がってくる動画を見て過ごす。そんな過ごし方に、息子がかわいそうとか、何か生産的なことをすべきとか、どこか連れて行くべきとか、何か強制されるような批判がどこからか飛んできている気になるが、無視する。無理はしないと自分に言い聞かせる。言われたわけでもない言葉を連想して行動を決めるのは3歳あたりまででもうやめた。苦しくなるだけだからだ。誰も私の育て方を見張ってなんかいないし、息子が外に出たいと乞うこともないし、息子の気が向けば行動すればいい話だ。
動いていないので夜、眠れない。私は睡眠薬を飲みそびれて、息子がやっと寝入ってから飲みに行った。向精神薬を飲んだあとに授乳したら確実に普段と違う眠りの深さになった息子、まだ赤ちゃんだったとき、を思い出す。授乳なんてさっさと切り上げて、母乳神話に振り回されずにミルクに切り替えてお腹いっぱい飲ませてあげればよかった。そうすれば私も不安を抱かずに薬を飲めた。そうすればまだ軽症で済んだかもしれなかった。産後の疲れた心身を打ちのめしたのは被害妄想で、いつも自分のやり方が間違っていると誰かに批判されている気がして、直接何かを吐き出されるのが怖くて生身の人間に相談もできなかった。消化できない知識で頭がいっぱいになって、どうすることが正解かわからなかった。
正解なんて自分で決めればいい、ということは、誰も教えてくれない、自分で気付く他なかった。孤独だった。傷つけない言葉を言わない人などいないと、他人を遠ざけた。
きっと誰かが今も、同じような苦しみを抱えて怯えている。自分の判断が間違っていないのか。このやり方でいいのか。誰かに肯定されたいが、自己開示する気力はない。近くで見守ってくれる人、それは夫がベストだと思うのだが、信頼する相手に、毎日頑張っている、命に別状がなければそのやり方を続けて様子を見よう、大丈夫、何度でもやり直せる、と。果たしてそう言える夫が、仕事に疲れた夫が、余裕があるのかわからないが。
朝、赤ちゃんと残されて、行ってらっしゃいと言うときの心細さ。今日もいきあたりばったりの一日が始まる。休めない。誰にも頼れない。ただ眠りたいのに、一番叶わない願い。
今もまざまざと蘇るあの時の気持ち。
誰かに頼るなんて発想は一滴もなかった。