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私のお気に入りの孤独(5)

 雨はあがっていた。
 アナウンスが、代行列車があと30分ほどでやって来ることを報せ、笑子とひばりの周りにはいつの間にか人だかりができていた。
 長い身の上話を終えた笑子のスマートフォンのバイブ音が鳴った。機種を変えただけで、メールアドレスや電話番号は変わっていない。でも、笑子の連絡先を知っている人間はかなり限られている。両親なら、笑子が来るのを知らないはずはないし、列車の運休のニュースも見ているだろうから、わざわざ連絡は寄越さないような気がする。だったら誰だろうか?
 ワンピースの右ポケットからスマートフォンを取り出して画面を見ると、知らないメールアドレスが表示されていた。一瞬、不安になるも、笑子にはひとつだけ、思い当たる節があって、「こんにちは」というタイトルの、その受信メールを開いた。
(まさか、ね)
 そう思っていたら、そのまさかだった。
 メールを読む笑子の表情の変化を、ひばりはじっと見つめていた。

「円山笑子さん、お久しぶりです。急にすみません。
僕はいつもスーパーでレジを打っている、平岡旭という者です。
覚えておられるでしょうか?
最近、めっきり店で会わなくなってしまいましたね。
どうしたんですか? 何かあったんですか? 
余計なお世話かもしれないけれど、心配しています。
何か困ったことがあったら、いや、何もなくても、
いつでもメールや電話をください。
僕が何かしら助けになれたら嬉しいです。」

 文面の最後に、メールアドレスと電話番号が添えられていた。
(嘘みたいだ。でも、今更どうしたんだろう? わたしは、一体どうすればいいんだろう・・・・・・?)
 顔を赤らめながら、しかし明らかに戸惑いを隠せない様子で、笑子は文面をしばし凝視していた。
 業を煮やしたひばりがすかさず声をかけた。
「彼でしょう? 行ってあげたら? 列車は今日しか出ないわけでもないでしょう?」
 今、どうすればいいのか、笑子はしばし悩んだ。
予定通り代行列車に乗って隣町の実家に帰るか、映画やドラマの主人公のように駅に背を向けて一目散に駆け出すか。
「隣町」という言葉に閃いて、笑子はメールの返信を打った。タイトルは「こんにちは」だ。

「ご無沙汰しています。円山笑子です。
 ご心配おかけしてすみません。
 わたしは身体を壊して、隣町の実家に帰ることになりました。
 これからは、もうスーパーでお会いすることはないと思います。
 でも、隣町です。元気になったら、いつでも遊びに行けます。
 それまで待っていてくれますか?
 そして今は、メル友になっていただけますか?
 いつかわたしと、ふたりきりで、会ってくれると嬉しいです。」

 スマートフォン特有のフリック入力にまだ慣れず、文章を打つのは長い時間がかかった。
 笑子はやっとのことで入力を終え、メールを送信した。
「ふう」
 思わず溜息が口をついて出てきた。
「ふふふ」
 ひばりがそれを見て笑った。笑子がむっとしてひばりを軽く睨んだので、ひばりは肩をすくめ、声を引っ込めた。
「今度は、ひばりさんの番ですよ」
 むすっとした表情のまま笑子がひばりに言った。ベージュ地に茶色いチェックのワンピースの裾が、風に揺られ、そよいでいた。
「何かしら」
 笑子は少し間を置いて訊ねた。
「お会いしたときから気になっていたんですけど・・・・・・ひばりさん、真冬のような格好ですけど、暑くないんですか?」
 ひばりの笑顔が消えた。自分でそれに気付いたらしく、また笑顔を作り直したが、目元が笑っていない。
 頭をすっぽり覆っている丸い帽子を脱いで、ひばりは、笑子に向けて頭頂部を見せた。生えている髪の毛はまばらだった。笑子は息を呑んだ。
「がんなのよ。末期の。もう長くないの。帽子の周りから髪の毛がちょっと出てるでしょう? あれは付け毛。ほっぺたや首回りにも、お肉がついているかのような、特別なメイクをしてもらったわ。多分、今日が、最後のお出かけになるって、病院のスタッフの皆も、よくわかっているみたいね。出かける前に、注射に点滴にお薬、いっぱいしてもらったんだけど、悪寒がひどくてね、どうにも寒くって困るわ」
 笑子は言葉を返せない。混乱し、そして困惑していた。聞かないほうが良かったのではないかと思った。でも聞いてしまったものは取り返せない。
「そんな顔しないで」
 笑子の心中など手に取るように見通しているのだろう。ひばりは、困った顔と笑顔とが半々の表情で言った。
「今日、花をあの子に手向けたら、明日明後日には病院に逆戻りか、娘の友だちが働いているホスピスに入ることになると思うわ。だから、やり残しのないようにしたかったのよ」
 しばらく俯いていた笑子は、顔を上げてひばりの瞳を見た。黒目がきらきら輝いていた。もうすぐ死んでしまう人のようには、どうしても見えない。でも、そういうものなのかもしれない。ひばりの「やり残しのないようにしたい」という気持ちの強さが表れているのだ。そう笑子は受け取った。
「あなたは、どうしたいの」
 力強いひばりの口調に気圧されて、笑子は思わずびくんと身体を震わせた。 
「笑子ちゃん、人生は一度きり。後悔のないように生きて。でもね、人はひとりじゃ生きられないの。それも忘れないで」
 ひばりは大きく目をあけて、笑子の瞳をじっと見据えながら、言った。
 JR駅に着いてからずっと抱えていた、胸のもやもや、心の引っかかりが再び顔を出した。笑子は自分の決断が正しいのか自信を持ちきれないのだった。自分の分身のようでありながら、自分とは真逆の生き方を選んだエミリーのことを考えていた。エミリーの選んだ道は、ひばりの孫娘とそっくりだった。彼女たちの決断と、自分の決断の、どちらが正しいのだろう。生きたから自分が正しくて、死んだからエミリーが間違っていると、単純に言い切れないと思った。エミリーは女主人を傷つけたから間違っていて、笑子は両親の期待に応えたから正しいとか、そんな問題ではない気がした。これは自分の問題なのだ。エミリーは少なくとも自分を貫き通した。自分はまた妥協したのではないか? 代行列車を待ちながら、そう己に問うていたのだった。
 ややあって、笑子は答えた。
「わかりました」
 鋭い眼差しを感じた。ひばりには、笑子の胸のもやもやの内訳が、全部透けて見えているかのようだ。
「ああもう、ほら、そんな硬い感じじゃなくて。『笑う』に『子ども』って書いて『笑子』ちゃんなんでしょう? それなら笑いなさい。もっと、もっと、笑いなさい。子どもみたいに心の底から笑って。微笑んで。お父さんやお母さんが何よりも喜んでくれるのは、そして笑子ちゃん自身が幸せになるのは、笑うことなのよ。そういうふうに、あなたは生まれてきたのよ」
 ひばりは笑子の頬を軽くパンパンと叩いた。頬に触れた指先が極端に細く骨張っているのを笑子は感じた。ひばりが、もうすぐ死んでしまう人であることは、もはや自明だった。でも、こんなに気持ちを強く持って、他人を励ましてさえいる。
「もっと強くならなくちゃ」
 胸のなかで呟いたはずの言葉が、つい口から出ていってしまった。
「ならなくちゃ、じゃ、まるで誰かの期待に応えるために無理矢理言ってるみたい。そうじゃない。自分自身のために、思ったり、願ったりしてもいいのよ」
 ひばりの視線は、まるで射抜くように強い。笑子はそれを打ち返すつもりで、力を込めて言い直した。
「もっと強くなりたい」
「そう。その意気よ。そういう意気込みがあるなら大丈夫」
 ひばりのすぐ隣で、エミリーがひょいと顔を出したような気がした。「あなたは正しいわ。何を悩むの?」と言いたげな表情で。
 笑子は思わずコクンと頷いた。
「あたしの代わりに、ちゃんと生きてよね」
 満面の笑顔でそう言い残して、イメージのなかのエミリーは消えた。その瞬間、笑子は、胸にかかっていたもやもやがスッと晴れていくのを感じた。
(いま、わたしが思うとおりにすればいい。どんなふうにでも、生きていけるんだ――)

 代行列車の到着を知らせるアナウンスがホームに鳴り響いた。笑子の全身に、それは、ひばりとの永遠の別れを伝えているようにこだました。
 涙がこぼれないように、少し上を向いて、群衆の賑やかな足音や話し声にかき消されないように、少し声を張って笑子は言った。
「ひばりさん」
「なあに」
 ひばりの返事は温かい。
「いつか、薬を飲まなくなって、クルマの免許を取って、街中でも海でも山でも、どこでも好きなところへドライブする。それがわたしの今の夢です。笑いますか?」
「笑わないわ。素晴らしい夢じゃないの」
 ひばりの笑顔は、若い娘のように透き通って、美しかった。
 人の波が、笑子とひばりの間をくぐり抜け、やがてふたりを飲み込み、笑子からは、ひばりの姿がもう見えなくなった。
 轟音と強い風を連れて、1番ホームに代行列車がやって来た。
 笑子は唇を噛みしめ、自分自身の行き先をしっかりと定めた。
 トランクケース片手に、笑子は歩き出し、列車に乗り込んだ。
 思い切り笑顔をつくってみた。口の端をあげて、グッと笑った。車内は人でごった返していて、笑子が笑っていようが泣いていようが、誰も気にも留めない。
(さよなら、ひばりさん)
(さよなら、私のお気に入りの孤独)
(ありがとう)
 動き出した列車の強い振動に負けないように、笑子はしっかり足を踏ん張って、今度は心のなかから、誇らしい気持ちがこみあげてくるのを感じた。
 人混みの隙間から、窓の外の空に、大きな虹がかかっているのが見えた。
 列車が来る前に、あの虹を見つけて、買ったばかりのスマートフォンで空の写真を撮れたらよかった。そう思ったら笑顔がこぼれていた。後から後から笑顔がこぼれて、笑子はこれからどんなことが起きても、この笑顔さえあればどうにでもなると思えて、釣り革を握りしめる手に力を込めた。

(了)

いつの日か小説や文章で食べていくことを夢見て毎日頑張っています。いただいたサポートを執筆に活かします。