話すことは放すこと

兄が言った。
「話すことは放すことだって聞いたよ」と。

一つ、放してみるか。

高校生のとき私は進学校にいた。学区内トップの女子高だった。私は高校にいく理由も明確に持っていた。「中学の勉強では物足りないと感じた」「他の人が簡単に行けないところにいきたい」「もっと思慮を深めたい」「大学に行きたい」からだった。

この中には家族環境からフレーミングされたものが一つある。「大学に行きたい」である。大学が何たるかを微塵も知らずに、当然いくものだと思い込んでいた。なんせ父は旧帝大卒、身近な兄も旧帝大を目指し猛勉強中。母は就職を選んだが(当時は大卒女子は就職できない風潮だったから)、進路相談では大学進学を勧められたほどの実力の持ち主。自然と私の中には「難関大学に合格するんだ」という意識ができていた。しかも母の口癖は「初志貫徹」。そう、一つだけ、自分の心からの意思ではないものが含まれていたのである。

それが高校でこじれた。

一年目。自分をうまく出せず友達ができない。勉強時間はとっているのに予習が間に合わない。昼休みも寸暇を惜しんで単語帳で勉強してるのに覚えられない。成績は上の下から中の下まで下がった。各中学のトップが集まっているんだから僅差であることは間違いない、でもその事実に気づけず落ちた成績に悲観するばかりだった。

文系は一年生でほぼ全科目学び、二年生からの専攻を決める。化学と生物、日本史は捨てた。赤点も取った。それらの授業中は他の科目の予習をしていた。それでも予習が間に合わない。焦りは募るばかり。家での口数も減った。学校のことはほとんど喋らなくなった。
唯一実力を誇りに思えたのはダンスの授業。ダンス経験者とならんで「うまかった人」に何度も挙げられた。とても嬉しかったのを覚えている。

二年目。相変わらず昼休みも勉強を続けた。周りからは尊敬されていた。「あさひ野ちゃんって絶対成績トップだよね」「昼休みも頑張ってる」「東大とかいく人ってあさひ野ちゃんみたいな人だよね」そう噂されていた。クラスには出会ったことのない苦手な人種が4人ほどいたが、それ以外は馴染みやすく学校にいくのが少し楽になった。

しかし成績は上がらない、努力はしているのに。虚しさから宿題に手をつけなくなった。というか予習に精一杯で、宿題なんてやっていられなかったのである。先生には皆の前で圧をかけられた。「この課題も成績に反映されるってわかっているよね!?」「わかっています…」「ならなにも言わないけど」。

努力しても点数に結び付かないこと、授業内容が理解できなくなってきたこと、先生にも見放されたこと、相談できる友達がいないこと、エリート家族には弱音を吐けないこと。吐いてもよかったとは思うがそのときの私にはできなかった。両親や兄と比べると「情けない」という思いが強く、とてもできなかった。と同時に、大学にいく意味も見出だせなくなってきた。大学じゃなくてもよくないか?オープンキャンパス行ったけどいまいち大学ってなにするところかわからない。専門学校は?なんでダメなの?「先に大学にいって、どうしてもいきたかったら働いてから専門学校に通えばいいじゃない」と母に反対された。当時美容師になりたかった私の夢はそこで打ち砕かれた。

二年生後半、奇跡が訪れる。文系の私が選んだ専攻は、世界史と地学。どちらも楽しかった。親友ができたからだ。ずっと遠くから気になっていた子に、思いきって話しかけたのである。そしたら好きなアニメが同じだった上に、波長が合う。即日親友になった。選択のクラスがある度に、授業前に話し込んだ。体育祭を抜け出して、書道室でカードゲームをやった。親友のお陰で一気に心が華やいだ。

ちょうど成績が伸びない気晴らしに、帰宅後週一でテレビを見るようになっていた私は、親友と話した昔のアニメが懐かしくなって、ビデオテープを漁って毎日見るようになった。帰宅後のアニメが日課になったのである。
それに気づいた母はカンカンである。「二年生後半の大事な時期に、一体なにやってるの!?」「テレビ見たあとは脳が働かなくなるってしってるよね」「勉強から逃げてどうするの?」「初志貫徹が大事なんだよ」。

「…わかってるよ」そう答えるのが精一杯だった。努力家で成績も付いてきた母にはわかってもらえるわけない、なんで大学がそんなに大事なんだ、旧帝大じゃないとダメなのか、そもそもアニメを見ているのは単にはまっているからではない、好きなものからパワーをもらってまた頑張ろうとしているからなのに、うまく行かなくて孤独で仕方ないのに……。本当は泣き叫びたかった。心の内を家族にわかってもらいたかった、でもできなかった。丸二年で家族と私の周りには溝ができていたから。埋めようにも埋められない、理解してもらえない溝。私は家に居場所がなかった。

三年生目前。週一のテレビは欠かさずに、勉強ともう一度向き合ってみることにした。そこで3.11が起こる。海の近くだったが、幸い津波は来なかった。学校は新幹線が復旧するまで、1ヶ月半休校となった。

被災した別の高校の友達は、支援物資を少しでも集めるために友人にメールを送って奔走していた。実家には九州の人がガスの復旧にきてくれた。新聞には同じ高校の子が避難所で活躍しており、記事になっていた。自転車で20分のところでは瓦礫で町がめちゃくちゃになっているのに、私は動かないで何しているんだろう。受験生だからって勉強していていいのだろうか。津波の被害をこの目で見て、瓦礫の処理を一緒にやって、少しでも復興の力になるべきではないだろうか。人生には目下の受験よりも大切なことだってあるんじゃないのか。授業再開後は窓から瓦礫を運ぶトラックが常に見える。心のなかはぐしゃぐしゃだった。

三年生の前半の記憶はあまりない。心の整理が付かなかったのだろう。選択でテニスをやったことは覚えている。放課後は夕飯の時間まで学校に残って勉強していた。夏休みにあった地学部の合宿(岩石採集等)は母に反対されて行けなかった。行けば勉強の意欲も上がっただろうに、うまく説明できなかったのだ。

最後の悪あがきをしながら臨んだ受験。センター試験も筆記試験も旧帝大には届かず不合格。泣いた。自分なりに悩んで苦しんで頑張ったから。

一浪してもう一度目指すことを決めた私は、予備校に通った。予備校でも家族へのプチ(大?)反抗は止まらなかった。長いので割愛するが、要は旧帝大にいく意味がわからなかったのである。ずっと迷いがあって、担当の先生にも話せずに二度目のセンターは失敗。D判定だったかE判定だったかも覚えていない。二浪するか迷ったとき、私を理解して背中を押してくれたのは担当の先生だった。今までの葛藤を全部打ち明けた私に、「あさひ野ちゃんには早く大学の勉強を楽しんでほしい」と。

予備校の授業のなかで、一番楽しかったのがとある英語の授業だった。ある先生が大学で習うコア理論を元に重要単語の意味を考えさせてくれて、それが大学の授業そのものだったのだ。私は号泣した。やっと理解してくれる人に会えた、悩みから解き放たれたと。担当の先生は私が泣き止むまで付き合ってくれて、帰りは23:00だった気がする。

結果、二浪はせずに受験校のランクを下げ、筆記試験は好きな英語と数学で受けることにした。二次試験までの1ヶ月、勉強が楽しくてたまらなかった。しかもその大学は専攻決めが二年生の終わりで、ギリギリまでいろんな授業をとって進路を悩むことができる。元々目指していた旧帝大では一年生の終わりに研究室配属まで決定しなければならなかった。やってみたい分野が多岐にわたる私にとっては、旧帝大より断然合っていたのである。「旧帝大一択」だった私はそれ以外の大学のパンフを取り寄せたこともなく知らなかったのだ。視野が狭くなっていたのだ。

無事合格したが家族の態度は冷たく感じた。私は納得してここに決めて受かったのに、なんで冷たいんだろう、歓迎されていないんだろう。結局は旧帝大がすべてなのだろうか。孤独のまま県外の大学へ飛び立った。高校当時の葛藤を母に打ち明けたのは、鬱と適応障害でブラック企業を辞めてから。10年の月日を経て話し合えたというのに、スッキリしない。それは未だに母や家の呪縛に囚われてるからだ。自分を一番に考えられていないからだ。あとはカウンセラー、任せた。

心を閉ざしている人に言いたい。
どうか誰かに打ち明けてみてほしい。理解されずに落ち込むかもしれない、でも受け止めてくれるかもしれない。誤解されたまま月日を消費するより、わかってくれる「誰か」を探してほしい。「なにか」でもいい。芸術、音楽、ゲーム…自分が素直に自分であれる時間を作ってみてほしい。きっと心が救われるから。


過去も今も悩みだらけな あさひ野

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