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社会人一年目の、死にたかった私へ

社会人一年目の頃、私は人生ではじめて自分が死ぬんじゃないかと思ったし、人生終わったと思っていた。

なぜそんなに思い詰めていたかと言うと、入社して半年も経たない会社を辞めることになったからだ。

今の自分、そして今の時代から考えれば転職というのは大事ではあるものの、そんなこともあるわな、と思えるが、当時の私はもう自分の人生お先真っ暗だと思い詰めていた。

私は、小さい頃から何かを作ることが好きで、高校はデザインを学べる高校に進学し、大学はもちろん芸大に進学した。
将来は母の様にものづくりに携わる仕事をしたいと、ずっと思って生きてきた。
就活は難航したけれど、なんとかものづくりに携わる仕事で内定をもらった。

どんな困難があったとしても絶対に折れない。歯を食いしばって頑張るんだと心に強く誓っていた。
せっかく好きな世界で仕事をできるというのもあったが、私が新卒だった頃は入社して3年以内で辞めたら次の就職先はないとさんざん言われていたことも大きい。
3年以内で辞めたら再就職先を見つけるのは困難を極める。だから3年はなんとしても耐えろと言われていた。

でも、結果として入社した年の11月に、新卒で入社した職場を退職した。

私の仕事は会社が考えた新しい職種で、仕事を教えてくれるのは社長のお母さん。
新しい職種の為仕事の範囲もしっかり決まっておらず、中小企業のため常に人手不足。社長や社長のお母さんの思いつきで基本的な仕事を覚える前にあれやこれやと仕事を振られた。
昨日言った事が翌日にはコロリと変わる事など日常茶飯事。極め付けは社長と社長の奥さんの意見に挟まれ、あなたはどっちがいい? と聞かれる究極の板挟みもあった。

突発的な仕事に加えて日々の通常の仕事もあり、右も左も分からない状態で仕事のマニュアルまで作らされた。
一生懸命考えながらやっても間違ったらなんでこうなったのかとネチネチと怒られ、明日はあれを言われるのかな、こう言われるのかな、と寝る前に考え始めると止まらなくなってしまった。

精神的に追い込まれ、更に自分で自分を追い込み、ごはんが食べられなくなって、眠れなくなって、月曜日が、明日が来るのがひたすら怖かった。
親も自分の生活で精一杯で、私が帰る場所はない。
自分を守れるのは親でも職場の上司でもなく、自分だけだとやっと気付いた。

このままでは死んでしまう。
そう思ってなりふり構わず退職届を提出した。
ちなみにこの時次の仕事は決まっていない。
それこそ当時は半年で仕事を辞める人間にまともな仕事などない。
なんとか退職日までに内定をもらった次の仕事は医療職で、手取りは13万円。今から思うとよく生き延びてこれたなと思う。

ちなみにこの時に本腰を入れたのが執筆活動だった。
元々絵を描くのが好きだったが、物語の展開を考えることの方が好きだという事に気付いた。
お金もないので、休みの日は日がな一日ネット小説を読んで書いていた。

冷静に考えると前職より厳しい職務内容だったが、不思議と頑張れた。
いや、毎日神経をすり減らしてはいたけれど、求められる絶対的な正解があるというのと、職場にやべぇ奴が多過ぎて怒りの方に方向転換したと言う方が正しい。
怒りは時としてパワーになるし、落ち込むよりも怒ることにシフトする事で精神的には健康に、強くなった。
この時に自分がなぜこんなにも怒っているのか、正確に人に伝える為に飛躍的に語彙力が上がった気がする。
怒った時にものすごい勢いで捲し立てるので、母には「あんた口悪くなったなぁ……」としみじみと言われ、友人には「スラム街出身か?」とも言われた。

2つめの職場で揉まれること3年。
ブラック企業なので3年もいれば古参で、それに伴って給料も上げてもらえたが、このままでは将来詰むと考えて転職を決意した。
3つめの職場が今の職場で、2つめの仕事が採用の大きな決め手となった。
3年勤めたということも大きかったが、そこで生き残る為に必死で覚えたノウハウが大いに役立っている。
2つめの職場は、環境こそ凄まじかったが、いい人もいた。
教えて下さいと言えば、仕事を教えてもらえたのが本当に大きかったと今でも思う。

ちなみに1つめの職場でもいい人はいたけれど、私の仕事の答えは社長と社長のお母さんにしか分からず、他の人が手出ししようものなら特に社長のお母さんの方が機嫌を損ねる。答えが日々変わっていくし、質問しても「自分で考えてみて」と言われた。
「お前の欲しい答えなんぞ知らんっちゅーねん」と今なら言える。

今現在も3つめの職場で働いている。
今の仕事は自分に合っていると思っているし、再びものづくりの仕事に就きたいとは思っていない。

でも、人生の半分以上憧れていた職業に就けていない事に、過去の自分に対して引け目を感じるし、高い学費を払って大学に通わせてくれた親にも申し訳ないと思っている。

祖父母には、芸大に行ったのだからそういう仕事に就かないと勿体無いと普通に言われた。
そんな考えに洗脳されたこともあり、今でも学生時代の7年間は一体なんだったんだろう……という気持ちにも時々なる。

卒業してからはライブに行く時に応援うちわを作ったりなんかはしたけれど、学生時代ほどガッツリ何かを作ったりはしなかったし、したいとも思わなかった。
作りたいという思いがないということは、私はただ母に憧れていただけで、自分の中に本当に何かを作りたいという思いはないんじゃないか、と思うようになった。
自分がやりたいと思っていたことは、自分が本当にやりたいと思いたかったことなのかもしれないと思った。

美術の道からは遠く離れてしまい、少しの申し訳なさは感じるものの、それでも面白おかしく毎日を過ごしていた。

そんなある時、好きなディップアートの作家さんがワークショップを開かれるということを知り、思い切って参加することを決めた。
ワークショップははじめましての方と一緒でとても緊張したけれど、たくさんお話ししながら作業できて本当に楽しかった。
初めて挑戦することだったので、なかなかうまくできなかったけれど、不思議と楽しくて、特に色を考える時が楽しかった。

上手い下手は置いておいて、学生時代も色を選ぶことが好きだった。
ちょうど今「ウマ娘 プリティダービー ROAD TO THE TOP」にどハマりしていて、OP最後のカットの色遣いが本当に好きで、この瞬間を表現したいと強く思って色を乗せた。

その日だけで終わると思っていたけれど、一週間後にはまたディップアートがしたくなって、自分が思い描く理想の色で表現したいと思って、ディップアートの材料を一式揃えてしまった。
全然うまくいかなくて試行錯誤の連続だけれど、すごく楽しい。

母に憧れていただけかもしれないと思っていた何かを作りたい、表現したいという感情がちゃんと自分の中にあるのだと気付いて、とても嬉しかった。
誰のものでもない、私だけの、神様が与えてくれた本能なのだ。

本格的に美術を勉強していた学生の頃と今とでは、やはり色々な勘は鈍くなっているし、絵を描く技術も落ちている。

でも、学生の頃よりも安定した精神でものづくりに取り組めている事に気付いた。

学生の頃はお金がなかったので失敗が怖かったし、先生からの講評が怖くて仕方なくて、締め切りに間に合うのか常に不安だった。

でも、今はそれらに一切縛られていない。
社会人なので学生時代ほどお金がないということはないし、趣味でやっていることなので先生の講評もない。この日までに作りたいという目標はあるけれど、明確な締め切りはない。

ああ、私はこれがしたかったのだと思った。
自分のために、自由に、思うがままに、何かを表現したかった。

仕事にすることはできないけれど、ずっと何かを表現しながら、生きていきたい。
その為に、自分の為に、学生時代の7年間があったのだと思った。
ものづくりの基礎を学び、ひたすら作業をすることを訓練した。
自分が気付いていなかっただけで、回り道をしたように見えて、ずっと、歩みたい道を歩んでいた。

どんな道を選んだとしても、諦めなければ道は続く。
こうでなければならないというものなど、この世に一つとしてない。
在り方や考え方は自分で変えられる。
過去に選んだものは変わらないけれど、未来は変えられるし、諦めさえしなければ道は続く。
変えるのは自分の考え方と視点だけだ。

文字での表現も、色での表現も、苦しみながら出会った私自身を表す技術だ。
私は、過去の自分を救う為に物語を綴り、未来の自分の為に花を彩る。

社会人一年目の、死にたかった私へ。
あなたが頑張ってくれたから、今の私はこんなにも毎日が楽しい。
頑張ってくれて、生きていてくれて、本当にありがとう。

#創作大賞2024 #エッセイ部門

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