【絶景旅】黒部に怪我はない。黒部ダム建設の物語【長野・黒部ダム】
終戦から11年。
復興に向けてすさまじい発展を続ける日本は、大量の電力を必要としていました。
当時の発電設備ではもはやそれは賄えず、ついに大阪は電力不足に陥ろうとしていました。
そこで、日本と関西電力が「国策」として世紀の大工事をしたのが「黒部川第四発電所」(通称:黒部ダム)の建設です。
「黒部に怪我は無い」という言葉があります。
これは、黒部は安全だから怪我をしないという意味ではなく、「黒部でミスをしたら怪我では済まない(=死んでしまう)」という意味です。
そんな直絶過酷な環境で、急ピッチで進められた黒部ダムの建設。
頭上からはトラック並みの大きさのコンクリートブロックが数十秒おきに降り注ぎました。
171人の殉職者を出し、7年の歳月をかけて完成したこの黒部ダムは、現在も関西に大量の電力を送り続けています。
心洗われる絶景「黒部ダム」
私が黒部ダムに行ったのは、冬の入り口11月のころでした。
トンネルを抜け、展望台に上がった時の感触をいまだに覚えています。
空気はひんやりと冷たく、空は澄み切っていて、遠くには立山連峰の峰々が雪化粧をしていました。
目の前に広がっていたのは、黒部湖とそれを堰き止める大きなダム。
これを人間が作ったのかと感動しました。
黒部ダムに訪れた後もたくさんの場所を旅しましたが、
ここを超える絶景に出会えたことは1度しかありません。
溢れ出る地下水との闘い「関電トンネル」
黒部川が流れる黒部峡谷は、「めちゃくちゃ厳しい地形」でした。
周囲を北アルプスや立山に囲まれ、ダムを作る前にどうやってそこに資材を持っていくかが問題でした。
当時の関西電力は、近くの扇沢からトンネルを掘って黒部川への道を作る計画を立てます。
実はこれが、黒部ダムそのものを建設すること以上の難工事になるとも知らずに…
昭和31年10月からはじまったトンネル掘削工事。半年ほどは順調に進んでいましたが、突然大量の土砂と水が噴き出してきました。
その量は水深40mの水圧にも匹敵する壮絶さで、掘削作業どころではなくなりました。
これは「破砕帯」という地下の岩盤が細かく割れ、大量の地下水と割れた岩が飛び出てくる場所にあたったことが原因でした。
現在も、トンネルの中に破砕帯があり、水が漏れている場所をバスが通過していきます。
しかし、現場作業員は決して諦めませんでした。持てる全ての知識と知恵・経験を結集し、距離わずか80メートルの破砕帯に対し、7ヶ月の苦闘の末に突破したのです。
1か月で約11m。1日で40㎝も進んでいません。
当時どれだけ過酷な環境だったかがよくわかります。
黒部ダムへのアクセス
現在、長野方面から黒部ダムに行くには、これまで説明した関電トンネルを使う必要があります。
扇沢ー関電トンネルー黒部ダム
のようになっており、途中の扇沢までは車や公共交通機関で行けます。
関電トンネルは、関西電力が運航する電気バスを使うしか通行手段がないので注意してください。
参考までに、私が黒部ダムに行った時のルートを載せます。
東京駅=(電車)=信濃大町駅=(バス)=扇沢=(電気バス)=黒部ダム
黒部ダムに行くなら「界アルプス」を拠点に
信州の贅沢な田舎を体感する
界 アルプス
過去記事で詳しく解説しています。
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