見出し画像

空を抱える

 水面に映る街並み、浮かぶ船、古い建物に囲まれた路地、石畳の道。とうとうやってきたのだ、と歩く足取りに意識を向けます。一歩が軽くて重かった。軽い体は、ふわふわ浮かぶように簡単に動けるはずなのに、必死に足をまわしても少しも進みません。
 通り過ぎる人々は私にちっとも目を向けないで、ブーツの高いヒールを鳴らしています。わたしは、道のまんなかで空を見上げました。高い建物の向こう側、もっと高い空は薄い水色です。
 ほうきにまたがった少女が低く飛行していて、ぶつかりそうになりました。彼女がぶら下げていた赤いラジオから流れている音がよく知った音楽であったことに不思議に思ったけれど、そのことはすぐに忘れました。
 どれだけ動かしても空回ってしまう足にそろそろ焦り始めたとき、わたしは、ついに振り返ってしまいました。
 電信柱、ちいさな畑、自転車に乗った少年。わたしの足もとには、履き慣れたローファーと白い靴下。それと、膝までの紺のスカート。顔を上げると、細い道の先、奥の方で手を振る父と母。
 ほっとして小さく肩で息を吸った、その瞬間。

 夢を見ていました。
 雲の中を通り過ぎたとき、窓の向こうはまっしろに輝いていて、前が見えない現実に不安になりました。見ているから怖いのだ、と目をつむった数秒後には、きっと、まどろみに落ちていたのだと思います。
 次に目を開けたときには、飛行機の座席に戻ってきていました。窓の外、下を覗くと海。夢の景色は、何度も見たストックホルムの写真の中でした。膝の上には、これから出会う家族から送られてきた手紙と写真。
 全然寂しくない。真新しい心が、狭かった世界から飛び出して、踊り出しそう。
 一粒だけこぼれた水滴に見慣れた記憶を全部詰め込んだので、わたしの中に過去は一欠片も残っていません。
 そう、全然、寂しくなんてないのです。後ろに広がっている景色に別れを告げて、わたしは、もう振り返らないと決めました。




四月に書いた800字短編。
「さよならの風景」がテーマでした。

敬体ってそれだけでやわらかく見えていいよね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?