本屋大賞「そして、バトンは渡された」(瀬尾まいこ)感想 巧みな構成で深く届けること

 瀬尾まいこ「そして、バトンは渡された」を今さらながら読んだ。2018年に刊行され、2019年に本屋大賞を受賞、それから2年以上経っているにもかかわらず、どの書店に行っても売上ランキング上位の棚に飾られ、平積みもされている。

 そんな書店の光景がもはや当たり前のようになってしまっていたが、映画化されたのをきっかけに、あらためて気になって上位ランキングの棚に近づいてみた。

 はじめてこの本を目にした時から不思議だった。表紙とタイトルを見ても、ストーリーがまったく想像できないのだ。いったいこの小説の何が多くの人の胸を打ったのだろう? そんな興味で手に取った。

※以下、ネタバレありです※

 結果、一読し終えたのが通勤の電車のなかだったのだけれど、終盤は人目もはばからず、滝のように涙を流しっぱなしにしていた。そして、この作品が多くの人に読まれる理由も、たいへんよくわかった。

 この小説は、構成がめちゃくちゃ巧いのだ。

 ストーリーで語られている〝主張〟を、説得力のある構成をもって伝えているからこそ、わかりやすく共感性の高い作品になっていると思った。

 どういうことか? 

 本作は大きく二章構成になっている。第一章は、主人公「優子」の高校三年生の一年間が主軸として物語られており、第二章は彼女が社会人になり結婚をするまでの物語となっている。

 まず、第一章の書き出しはこうだ。

 困った。全然不幸ではないのだ。少しでも厄介なことや困難を抱えていればいいのだけど、適当なものは見当たらない。

「そして、バトンは渡された」文庫版P.8

 主人公の優子には、父親が三人、母親が二人いる。家族の形態は第一章(高校三年生の時点)で七回も変わっており、現在は父親である「森宮さん」という三十七歳の会社員と二人暮らしをしている。

 この家族形態だけ一見すれば、親から親へ転々と見放されて「かわいそうな子」と思われてもおかしくない。けれど優子は不幸ではないのだ。

 冒頭の状況説明の時点で、読者に「なぜ家族の形態が七回も変わることになったのだろう?」「なぜ優子は不幸ではないのだろう?」というちいさな謎が提示される。謎は小説を読み進めるうえでひとつの推進力となり、われわれのページを繰る手を早める。

 一章の物語は優子の高校生活を軸に進んでいく。一学期では進路相談、始業式、クラス替え、体育祭があり、ちょっとした恋愛的事象を発端に、友人と仲たがいをしてしまう。二学期では合唱祭でピアノ奏者を担当することになり、他クラスでピアノ奏者を担当する男の子に片思いを募らせる。ピアノの練習の傍ら父の森宮さんと気まずくなるも、合唱祭を成功させる。三学期はいよいよ受験。森宮さんに夜食を作って励ましてもらいながら勉強し、受験当日にはバス停まで見送ってもらう。合格通知が届き、卒業式を迎える。

 この要約だけ読めば、他の小説でも何度も扱われている、ごくありふれた高校生活が時系列に進んでいるだけの、悪くいってしまえばベタな物語とも読めるだろう。けれどこの作品は、こうした「ありふれた高校生活」のふとした出来事に端を発して、先述した「なぜ家族の形態が七回も変わることになったのか」という謎、すなわち優子の過去が思い返される構成をとっている。

 実母との死別や実父の転勤にともなう別れ、二人目の母との貧困生活など、過去はなかなかにヘビーだがしかし淡々と紡がれる。こうした誰もが経験したことのないつらい過去と現在が、まるで照らしあわされるかのように交差して描かれることで、現在のありふれた高校生活が、優子にとってはいかに得がたく貴重なものであるかが、真に迫ってくる

そして、たとえ家族が七回変わっても、ふつうの高校生活を送ることができるという、冒頭の引用「困った。全然不幸ではないのだ。」の説得にもつながっているのだ。

 一章のラスト、高校の卒業式で点呼を取られながら、優子は以下のように独白する。

 森宮さんが腹をくくってくれたのと同じ。私だって覚悟をしている。一つ家族が変わるたびに、誰かと別れるたびに、心は強く淡々としていった。でも、今の私は家族を失うことが平気なんかじゃない。万が一、森宮さんが私の父親でなくなるようなことが起きれば、暴れてでも泣いてでも阻止するだろう。醜くなって自分のどこかが壊れたってかまわない。いつも流れに従うわけにはいかない。この暮らしをこの家を、私はどうしたって守りたい。

同上 P.136

 これまで淡々と物語ってきた優子の語り口と比べ、とても強い独白になっている。しかしこのラストに至るまでの物語の説得力があるからこそ、独白は変に浮いてしまうことなく、読者に迫って来る。

 その後、小説は第二章へ突入する。一章時点で完結してもいいのではないか、というくらいきれいにまとまっているが、二章を読んでみれば、これはなくてはならない章であるとすぐに気づかされる。

 第二章では、短大を卒業し地元の家庭料理店に就職した優子が、結婚を決め、一人一人の両親にパートナーを紹介し、最後に結婚式を迎えるまでの話だ。

 子どものころ、自分の意志で家族を決められず、いつも流れに従い家族が変わるのを受け入れるしかできなかった優子が、自らの意志で一人一人の両親のもとを訪れるのだ。第一章が優子が現在を強く自己肯定できるようになる物語だとすれば、第二章は、いわば一度壊れた家族を自らの手で再生させにいき、未来へつなげる物語なのだ。自己肯定で終わるのではなく、そこから前に進むところまでを、二章でしっかり書ききっているのがすごい。

 また、この章では、各親を訪れると同時に、優子が結婚に猛反対する森宮さんを説得するという出来事も並行して起こる。以下は、はじめてパートナー(早瀬君)を森宮さんに紹介するが、すぐに追い返されてしまう場面のやりとりだ。

「えっと、今日はこれで終わりにしよっか。会えただけでいいってことで。初めてのことで、森宮さんも取り乱してるしさ」
「俺、取り乱してないから」
 森宮さんは台所でガチャガチャ音を立てながら、食器を片付けている。
(中略)
「ああ、そうかな。じゃあ、お父さん、今日は失礼します」
 早瀬君は森宮さんの背中に向かって一礼すると、玄関に向かった。
「なんか、ごめんね」
「いや、お父さんの言うことも、わからないではないしな」
「森宮さんあんな頑固なとこがあるなんて思わなかった」
「はは。優子によく似てるじゃん」
 私たち玄関で話していると「そうだ! 言い忘れた」と森宮さんがどかどかと足音を立ててやってきた。
「なんなの?」
「俺、君にお父さんと言われる筋合いないから」

同上 P.323

「お前にお父さんと呼ばれる筋合いはない!」という、ベタ中のベタな台詞を地でやっているのである。普通にこれをやられたら、食傷気味になるかもしれない。けれどこれも、第一章のありふれた高校生活の場面と同じく、優子たちの「血のつながりがない家族」という関係性があるからこそ、「血がつながっていないけれども、一般的な家庭(でもやらないようなベタなやりとり)を行うことが可能なのだ」ということが示唆的に描かれたシーンとして、ほほえましいとすら思えるのだ。

 冒頭、「いったいこの小説の何が多くの人の胸を打ったのだろう?」とわたしは書いた。

「家族が変わることは決して不幸なことではない」「血が繋がっていなくても家族だ」と、ひとことで主張するのは簡単だ。なんなら手垢にまみれた言葉すぎて、「そりゃ当然だろう」とさらりと受け流されてしまいかねない。

 しかしこの小説ではそう主張することを避けている。かわりに、「なぜ両親が七回も変わったのか?」というひとつの謎を核として読者を惹きつけ解き明かしつつ、誰もが体験したことのあるような共感性の高い出来事(=高校生活や結婚の挨拶など)を淡々と語る。そうすることによって、「家族が変わることは決して不幸なことではない」という主張を、まるで版画のように浮かび上がらせ、しぜんと説得することに成功している。しかもそれを、「複雑なことをやってます」感を露骨に出さず、誰しもに伝わりやすい言葉を選び、やさしく。だからこそ、多くの人に深く届く作品なのだろうと思った。

 個人的な話をすると、わたしも来年の春に挙式をする予定になっている。それもあってか、自分の家族と過ごした過去から、本作と同様結婚式を迎える近い未来までを追体験するように読むことができた。誰かの家族を読むということは、翻って自分の家族を読むことでもある。このタイミング、この年の瀬に読むことができて、とてもよかった。


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