見出し画像

旅で出会った奇跡の猫よりも大切なものを持っている友人ミンヘイ君が思い出させてくれた「人生に必要なもの」【映画監督・石井裕也連載】

第10回「ミンヘイ」

 初めて行ったベルリン国際映画祭でミンヘイ君という香港人の青年に出会った。当時僕は20代の半ばで、彼は少し年上だった。

 雪に包まれたベルリンの街でたくさんの映画人たちと交流したのだが、ミンヘイ君は確か映画祭ボランティアの友達の友達、みたいなほとんど無関係の人だった。どうやって彼と知り合ったのかもよく覚えていないが、かっこいい欧州風の自転車に乗っていつもニコニコしていたのは覚えている。彼とはなぜか馬が合い、なぜか今でも友達なのだ。

 彼はその後、自転車での世界一周を果たし、アメリカ人の伴侶を得て、彼女と共に今でも世界中を旅しながらドキュメンタリー映像などを撮っている。たまにメールをすると「今はバルセロナにいる」とか「シベリアにいる」とか、まるでどこにいるのか分からない神出鬼没の人なのだ。それでいて彼は、とてつもなく優しい。

 昨年の春に香港国際映画祭に参加したのだが、たまたまミンヘイ君が母国である香港にいるというので会いに行った。彼の仮住まいの家は坪洲(ペンチャウ)という小さな離島にあった。

 自動車が一台も走っていないのどかな島。彼の家は石造りのアパートの一室で、びっくりするほど物がなかった。「どうせまた旅に出るから」だという。「子どもを作って定住しないのか」と問うと「世界には人間が多すぎるから、作らないほうがいい」と本当かどうか分からない返答をした。彼は、愛する人とビデオカメラとWi-Fi さえあれば人生はすこぶる楽しいのだと言う。

10ミンヘイ

 猫が1匹ふらふらと部屋に入ってきた。ミンヘイ君が自転車で世界一周している時、中国のどこかで拾ってきた猫らしい。「いくつもの国境を猫と共に通過するのは難儀ではなかったのか」と問うと、返事の代わりにミンヘイ君が1枚の写真を見せてくれた。中央アジアの乾いた山岳地帯で、自転車を漕ぐミンヘイ君の頭の上に小さな猫が座っている写真だった。世界一周は猫の意志によってなされている、と誤解してしまうほど、堂々とミンヘイ君の頭上に鎮座している猫。奇跡のような1枚だった。

「猫も次の旅に連れて行くのか」と問うと、「猫は親戚に預ける」とのことだった。

愛する人とビデオカメラとWi-Fi より、旅で出会った奇跡の猫は重要ではないらしい。「ミンヘイ、君の自由な生き方が羨ましいよ」

 僕の本心を最も適切な言葉に換えて彼に伝えた。するとミンヘイ君は、真顔でこう言い返した。

「それならお前も自由に生きろよ」

 ドキリとした。これまで自分の人生を瑣末なものに成り下げてきたくだらない言い訳の数々が全てフラッシュバックしたような気分になり、もはや言葉が出なくなった。

 そして僕は、かつてはきちんと信じていた当たり前の原則をようやく思い出したのだ。本来、人生は何でもアリだ、というその原則。

 ほとんどの場合、自分で勝手に人生を制限し、好んで息苦しくさせているだけだ。

 Wi-Fi が必要かどうかは分からないが、ミンヘイ君のような底抜けの明るさと勇気はきっと人生に必要だと、僕は一応ちゃんと知っている。

(連載第22回 AERA 2018年10月8日号)

第9回「約束」 / はじめに

↓↓↓記事一覧はこちら↓↓↓


みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!