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5歳の子どもは知っているのに大人になると一笑に付されてしまう「約束」が世界を救う【映画監督・石井裕也連載】

第9回「約束」

 子どもの頃、向かいの家に知的障害のある女の子が住んでいた。僕より2つぐらい年上だったのだが、体は小さかったし、真っ白な手足はとても細かった。彼女はたどたどしい足取りで歩き、いつもお菓子の入った大きな袋を持っていて、それを近所の子どもたちに配っていた。

 僕の記憶の限りでは、たぶん彼女と会話はできなかったと思う。お菓子を貰う度にありがとうと言ったが、返事はなかった。彼女はいつも笑っているような、怒っているような表情をしていて、5歳の僕にとっては正直得体の知れない存在だった。

 それでも母は、幼い僕にいつも「彼女を守りなさい」と言った。守るって何だ、と思った。どうすればいいのか分からなかった。

 母は「常に弱い人の味方でいなさい」とも言った。

 どうすれば味方でいることになるのかは分からなかった。今でも完璧には分からない。それでも、なぜそうしなければいけないのか、そこに関する疑いを持ったことは一度もない。母に理由を尋ねたこともない。愚問だ。そもそも理由などあろうはずがない。

 弱い人、あるいは弱い立場にいる人の味方でいること。

 それは、きっと法律ができる以前から存在していた人間同士の約束のようなものだ。

 たぶん、それが果たせない時はあると思う。いろいろな事情で弱い人の味方になれない場面が。もしかしたら、自分が弱者の立場に追い込まれる場合もあるだろう。

 それでもこの「約束」は、何があっても守るべきもの、少なくとも守ろうとするべきものだと思う。

09約束

 この世界にはさまざまな問題があって、のっぴきならない状況になってはいるが、まずはこの約束を前提にして、解決に臨まなくてはいけないと思うのだ。前提。というか、それだけでいい。

 辺野古の基地建設。北方領土。シリア内戦。働き方改革。改正入管法。北朝鮮の核開発。温暖化。セクハラ。海洋プラスチックごみ。貧困。少子高齢化。テロ。アスベスト。冤罪。その他あらゆる問題。

 とにかく、問題に向き合う時にあの約束を忘れてはいないか。頭でっかちになって反故にしていないか。知らぬ間に、声の大きな者や力の強い者におもねっていないか。近くに困っている人がいないか。苦しんだり悲しんだりしている人がいないか。たったそれだけの、書いていて恥ずかしくなるぐらい当たり前の正義感すら持ち続けることは不可能なのか。

 現代社会を勝ち抜く上でまるで不必要で、むしろ邪魔で、カネにならないし、なんなら損をするし、青臭いね綺麗事だねと一笑に付されるに決まっていて、それでも5歳の子どもはちゃんと分かっているという、とても面白い、約束。

(連載第38回 AERA 2019年2月4日号)

第8回「責任を取る人」 / はじめに / 第10回「ミンヘイ」

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