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「毒親」は“いる”のではなく“なる”もの <おおたわ史絵×中野信子対談>

 母を捨てるということ――。
 この言葉に、ぎょっとする人がいるかもしれない。捨てるという選択肢があったのかとハッとする人もいるかもしれない。どう感じるかは、人によって大きくわかれるだろう。この言葉は、医師であり、テレビコメンテーターとしても活躍するおおたわ史絵さんによる本のタイトルだ。
 麻薬性の鎮痛剤に依存した母。医師である父が薬を与え、本人も元看護師なので自分で注射を打つことができたため、あっという間に深刻化した。腕は注射痕だらけで、注射器が家のあちこちに転がっていた。娘に対しては、成績が伸びないと暴言を浴びせる。体罰を加える。おおたわさんの子ども時代は、それが日常だった。本書は、実母との関係を断ち切りたくとも、断ち切れずにいた、おおたわさんの、長きにわたる葛藤の記録である。
 おおたわさんと、脳科学者の中野信子さん、かねてから親交のあるふたりによる特別対談をお送りする。今回のテーマは「毒親」。(写真撮影/掛祥葉子)

おおたわ史絵『母を捨てるということ』(朝日新聞出版)
おおたわ史絵『母を捨てるということ』(朝日新聞出版)

おおたわ:子の成長に悪影響を及ぼす親を“毒親”と表すようになったのは、ここ数年のことですよね。私が子どものころはそうした言葉はありませんでしたし、そもそも私は自分の親を毒親だとは思っていないんですよ。傍から見たら「とんでもない親だ」「毒親だ」と評価されても、渦中にいる本人は決してそう思ってはいないものです。なぜなら、ほかのお母さんもほかの家庭も知らないから。自分の親しか知らなければ、それが普通になるんですよ。だから私は、いまも母のことを“毒”だったとは思っていないですね。

中野:私もまさに『毒親』(ポプラ社)という本を書きました。毒親という種類の親がいるのではないと思うんです。関係のなかで毒になってしまう。たとえばおおたわさんとお母さまの関係も、母娘でなく医師と患者さんだったら、もっとお互い穏やかにいられたかもしれないですよね。

おおたわ:そう。他人だったら、心から嫌うこともできた。家族だから、傷つけることになってしまったんだと思います。思うに、毒というのは誰のなかにも潜在的にあるんですよ。それがたまたま出てしまうような条件や関係性が成立したときに、はじめて毒親と呼ばれるような現象が起きる。「この人は毒母だから悪い人」「この人はそうじゃないから、いいお母さん」と簡単に線が引けるような話ではないと思っています。私のなかにも毒になるような要素があって、もし子どもを育てていたら、それが表出して毒親になっていた可能性はあるんじゃないかなぁ。

中野:おおたわさんのお母さまは、たいへんな教育ママだったんですね。

おおたわ:現在は、英才教育はなんの効果もないと実証されていますけどね。母は「娘を医師にしなければ」という使命感に駆られていたし、隙間を埋めないと不安でどうしよもなくなる人だったから、娘を放任してのびのびと成長させることができなかったんでしょう。

中野:求める水準が高すぎて、いくらいい成績をとっても娘を褒めることはほとんどなかったというお話でしたね。私が育った家庭は逆で、「女の子は勉強できてもねぇ」と言われ、私が勉強していると親はすごく嫌な顔しました。

おおたわ史絵さん(撮影/掛祥葉子)

おおたわ:女の子は勉強できなくても、かわいくあればいいということ?

中野:そういうことです。それよりもいい人を見つけて、早くお嫁さんになりなさい、と。女性は口答えをせず、控えめに。勉強があんまりできると、かえって婚期が遠のくといわれていました。

おおたわ:中野さんはそれでも勉強してキャリアを積んで、そして現在、すてきなパートナーとご結婚されているんですね。結婚してもしなくても、親と過ごす何十年が人生の最初のほうにあって、その後に親と過ごさない何十年間があって、そっちのほうがよほど長くなることが多いわけです。だから毒親の呪縛にずっとがんじがらめになっていて、「私はこんな苦しかった」と思い続けるより、親と過ごさない何十年のほうに目を向けないと、人生をやっていけない感じがします。

中野:親のほうが取るべき行動もありますよね。私は東京藝大の大学院で陶芸史を履修したのですが、その中で焼き物の製作法も勉強します。鋳込み、という方法があって、これは石膏で“鋳込み型”というものを作り、そこに陶土を流し込んで一緒に焼く。その後、鋳込み型を壊すと器ができる。私はこの鋳込み型が親の教育で、やがて器になる陶土が子どもの脳のように思うんです。鋳込み型を壊してようやく器として完成、のはずなんですが、現代人は親も子どももそれを壊したくないのかもしれない。

おおたわ:鋳込み型がはまったままだと、いつまでもその器は使えない……おもしろい喩えです。親の役割とは、焼き上がったあとに鋳込み型である自分を自分で壊すことだと思います。私の患者さんでも、息子のために朝早く起きて朝食と弁当を作り、夜は帰宅を待って夕食を作ってヘトヘトになっているという女性たちがいます。80代の母親が50代の息子の世話を焼いているケースもめずらしくなくて、医師からすれば、早寝してほしいし、日中は散歩など運動もしてほしい。でも彼女らのなかでは、子を養護することがいまだ自分の人生の主軸となっていて、そこから抜け出すことができないんです。

中野:そうせざるを得ない環境にいらっしゃる人もいれば、ずっと鋳込み型でいることに、自分の存在意義を感じる人もいるんでしょうね。平均寿命が短かった時代においては、鋳込み型としての役目が終わったあとはそれほど時間が残っていなかったですけど、いまは鋳型が終わってからの人生もまた長いんです。

おおたわ:空の巣症候群という言葉もありましたが、そこで人生を終わりだと思うのはもったいないですよね。

中野信子さん(撮影/掛祥葉子)

中野:ところで、毒親や機能不全の話になると必ずといっていいほど「連鎖するのかどうか」ということが気にされます。この話をするうえで外せないのが、遺伝です。私たちはたとえば「愛情深い」とか「浮気をしがち」とか、性格傾向を決める遺伝子を持っていて、それを親から受け継ぐことがあります。そのうえで、育つ環境も大きく影響してきます。有名な「ハリー・ハーロウの実験」というのがあって、サルの赤ちゃんを母親から引き離し、抱きつくことができるよう針金のママを用意した。そこに哺乳瓶も付いているので、赤ちゃんはお腹がすけばそこにいくけど抱きつこうとはしない。いつもは針金のママではなく、毛布に抱きついているんですよ。

おおたわ:やわらかい触覚を求めているのかな?

中野:そうですね、触覚によってオキシトシンが分泌されるようなんです。

おおたわ:「幸せホルモン」とも呼ばれる神経伝達物質ですね。たしかに肌刺激によって分泌されますよね。

中野:この実験では、針金のママではなく毛布に抱きついて育った赤ちゃんは、成長して子どもを産んだとき、うまく育てられなかった……という結果になりました。もしかしたら、これが連鎖ということなのかもしれない、とこの実験を知った多くの人は思ったと思います。子どもが寄ってきても知らないふりをしたり、自分の近くに寄せ付けないというとは、人間でいうならネグレクトや虐待に当たるといえそうです。ただ、人間には救いがあって、自分は母親に抱きしめられたことがなくても、学習によって自分の行動を変えることができるということです。

おおたわ:いわゆる認知行動ですよね。私も、そうすることで母の影響から抜け、自分の人生を切り拓いてきたんだと思います。母親が落ちたような泥沼が自分の行く先に点在しているように見えたので、私は一生懸命、その脇を縫って歩いてきました。母を反面教師にしていたのでしょう。それがあったから、自分自身は社会的に大きな問題を起こすことなく、たまたまここまで生きてこられたんだと思っています。

(構成/三浦ゆえ)


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