三浦英之/阿部岳『フェンスとバリケード 福島と沖縄 抵抗するジャーナリズムの現場から』の立ち読み
はじめに 沈みかかった船の上から
三浦英之
取材の現場でここ数年、焦燥にも似た危機感を抱く機会が格段に増えた。
十数年前であれば、決して目にしえなかった光景だ。
権力者への忖度(そんたく)が横行し、まるで台本があるかのように予定調和なやりとりが続く首相会見。その会見場で発言者ではなく、パソコンの画面を見つめながら必死にキーボードを叩き続ける取材記者たち。監視対象でもある政治家を「先生」や「親父(おやじ)」と呼んではばからない政治部員。上司の顔色ばかりをうかがって、自己主張をしない社会部員。編集フロアに充満する幹部の保身と事なかれ主義。相次ぐ報道機関による不祥事……。
そんなメディアの低落した姿が伝えられる度に、インターネットやSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)上では当然のように「マスゴミ」「劇団記者クラブ」「台本営発表」といった批判や中傷が吹き荒れる。その暴風の中でメディアは信頼だけでなく、大きく自信さえも失いつつあるように映る。
日本のメディアはどこへ行くのか――。
そんな葛藤の霧雨の中で、1人、気になる同業者がいた。
沖縄タイムスで編集委員を務める阿部岳(たかし)である。
沖縄を守備範囲とする阿部は国土面積の1パーセントに満たない沖縄県内に全国の約7割もの在日米軍施設が押しつけられている不条理を嘆き、沖縄や沖縄で暮らす人々に対する卑劣な差別や偏見と激しく対峙(たいじ)し続けていた。
こと安全保障やエネルギーの問題に関しては、それぞれの立場や考え方、利害関係が複雑に絡み合い、賛否双方の意見が衝突しがちだ。
その中で阿部は日頃から「私は中立ではないかもしれない」と公言し、沖縄という被害を受ける側に立脚して現状を伝えていく姿勢を明確にしていた。その結果、彼は右派論陣を張る作家やジャーナリストから激しくバッシングされ、ネット上では常に「ネトウヨ」と呼ばれる一部の攻撃的なユーザーからの批判や脅迫に晒(さら)され続けていた。
一方で、阿部が伝え続ける沖縄は、読めば読むほど僕が取材をしている福島に似ていた。
安全保障や経済発展という口実のもとに米軍基地や原発を中央政府から一方的に押しつけられている現状や、唯一無二の故郷にフェンスやバリケード――地域を分断するその鉄柵を沖縄ではフェンス、福島ではバリケードと呼んでいる――が張りめぐらされ、いまだに自宅に帰れない住民が多数いる惨状、公共工事の名の下に多額の税金が投入され、住民たちがカネによって分断されている現実など、沖縄が抱える多くの問題が福島のそれとぴったりと重なり合っている。
ふとしたきっかけで知り合った僕らは(阿部と僕は奇しくも同い年だった)SNSを通じて連絡を取り合い、やがてお互いの勤務地を頻繁に行き来するようになった。
沖縄から福島へ。東北から沖縄へ。2つの特殊な地域の往来を繰り返すなかで、福島と沖縄に共通する問題を探ると同時に、いつしか今直面している不健全なジャーナリズムの実態を打開する方法についても深く語り合うようになった。
ある日、僕は阿部に向かって、僕らが日頃取り組んでいる地方記者の仕事を自分たちの筆で可視化してみないか、と提案してみた。
冷たいフェンスやバリケードが立ち並ぶ福島や沖縄の現場で、僕らが今何を感じ、どのように取材し、いかにして記事を書き続けているのか。その過程をつまびらかにすることで、福島や沖縄の現実を――さらには今の日本のジャーナリズムが抱える問題点を――読者に明示することができるのではないだろうか、と。
「やろう」と阿部は笑って言った。「でも本当にそんなにうまくいくのかな?」
この本に収録されている文章は、新型コロナウイルスの感染拡大によって「復興五輪」と謳(うた)われた東京オリンピックの1年延期が決まった2020年春から、その巨大イベントが感染爆発を引き起こして大失敗に終わった後の2022年春までの約2年間に、僕と阿部という、全国紙と地方紙という異なるメディアに所属する地方記者がそれぞれの現場で何を考え、いかに行動したのかを互いに綴(つづ)ったリレーエッセーである。
日本のメディアが「沈みかかった船」と形容されて久しい。これらの文章の断片はその船上から書き綴った読者への――あるいは新たにジャーナリズムの世界に飛び込もうという若い世代への――手紙でもある。
日本のメディアが今置かれている環境は、自然と朝が訪れる「夜」ではない。
それは光の届かない洞窟だ。
ならば、座して夜明けを待つのではなく、出口を求めて――かすかに差し込む光の方へと――自らの足で歩んでいくしかない。
かつて米コロンビア大学の大学院で教えられた。
「ジャーナリズムは語るものではない。それは実践するものである」
僕らはそんな不文律に忠実に従うことにした。
おわりに 心の中に金網はないか
阿部岳
メディア全体が立ちすくんでいた。
2021年6月、国立大学法人・旭川医科大学の学長解任問題を取材していた北海道新聞記者が、大学施設への建造物侵入容疑で逮捕された。「取材の自由」を脅かす大事件だったが、少数のジャーナリスト団体や新聞労連が抗議したほかは何らの動きもなく、業界は不気味に静まりかえっていた。
取材中の記者が逮捕される社会で、ジャーナリズムは機能しない。ひと昔前なら、大学と警察の対応、記者の行動、会社の指示を含め、各社が競って検証し、報道していただろう。今はそうならない。メディアに注がれる視線が格段に厳しくなっていることをみな肌で感じている。身を縮め、嵐が過ぎるのを待っているように映る。
数少ない抗議声明に対しても、ツイッターでは「取材のためなら法を犯してもいいということですね」「何様のつもりなのやら」と冷笑が浴びせられていた。それを見て私は書いた。「記者は『特権階級』だから旭川医大の建物に入ったのではない。そうではなくて、市民の『使いっ走り』だから入った」
スクープを取りたいという欲がどこかにあったとしても、記者が「突撃」するのは根本的には市民のためだ。他のことで忙しい市民の代わりに行って、見て、聞いて、書く。
いまだに、なぜか勘違いして偉そうに振る舞う同業者が一部にいる。「マスゴミ」などと呼ばれる一因は当然、私たちの側にもある。だから、あえて「使いっ走り」という低姿勢の言葉を選んだつもりだった。
この言葉にもネットは激しく反応した。「頼んでねえよ」などという返信は1000件に上った。ネットが世論を代表しているわけではない。特にネトウヨの場合、大勢いるように見えても実数は少ない。だが、これは量ではなく構図がちょっときつい。
私たちが「市民の代わりに体を張って権力を監視しています」と主張しているそばで、その市民の少なくとも一部が権力の背中の後ろに回って「お前らなんかいらない」と声をそろえているのだ。今になって始まったことではなく、それどころかこの構図はもはや固定した感がある。
海に沈み、水圧につぶされかかった難破船のような息苦しい業界の中で、三浦英之は突き抜けた異能の持ち主である。名前を知ったのは、同僚の机の上だった。隣席の彼女は三浦の著書『南三陸日記』を仕事の指針とし、常に本立てに置いていた。
東日本大震災の被災地に住んで綴(つづ)ったルポルタージュ。仕事が終わったある夜、何気なく手に取ったが最後、ページをめくる手と涙が止まらなくなった。失われたものの大きさに打ちのめされ、悲しくて悔しいけれど、温かい。言いようのない不思議な感覚を喚起する文章と写真が、同じ年生まれの記者の手によるものだと知って、ますます興味が湧いた。
会う機会はほどなくやってきた。東京の会合で同席した三浦はその夜、記者仲間と予定していた宴席に私も招き入れてくれた。アフリカ、旧満州、ニューヨーク、そして福島。踏みしめてきた土地のあちこちに、三浦の話題は飛ぶ。忙しい記者業の傍ら、出版の企画をいくつも同時並行で進めているらしい。型破り。こんな新聞記者を見たことがない。
だいたい、自称する肩書からして「新聞記者/ルポライター」である。長年、新聞記者は「私」を出さず客観的に書くものとされてきた。ルポライターは「私」が主観で見た事実を記す。三浦がさらりと並べる2つの仕事は、業界の常識からすれば矛盾をはらんでいる。
でも、時代は変わっていく。「客観中立」の古びた看板は、すでに多くの読者に欺瞞(ぎまん)を見破られている。記事とは、一人一人違う人間である記者が、取材対象を選び、質問を選び、応答の中から文字にする部分を選んだ結果である。各社もそれをゆっくりと認めつつあって、署名記事が増えている。
匿名の陰に隠れることなく、個としての責任を引き受けて書く。ネットで社会で、匿名のデマや中傷が吹き荒れるからこそ、実名で事実を発信することが職責として求められる。私たちはそういう時代に記者をすることになった。幸い、紙面でもSNSでも顔が見えるから、記者同士がつながることも以前よりずっとたやすい。
思えばこの本の構想も、三浦が私に首相会見への出席を促した1通のメールから転がり始めたのだった。一瞬おじけづいた私は、三浦に負けてはいられない、と気を取り直して覚悟を決めた。以来、お互いにあおり合って、励まし合って、この本はできた。
フェンスとバリケード。物理的な分断線が走る地を、三浦と私は這い回っている。でも、きっと私たちだけではない。多くの記者たちが、心の中に障壁を抱え込んでいる。所属組織への帰属心。タブーを忌避する保身。あるいは、権力批判へのためらい。フェンスを、自ら築いてはいないか。バリケードを突破した先に、もっと違う景色が見えるのではないか。タイトルにはそんな思いも込めたつもりだ。
個として立ち、突破を試み、連帯を求める。
どんどんいこう。手を伸ばそう。私たちはもっと、つながり合える。
それこそが、権力者が最も恐れることなのだから。