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歴史好きほど驚く! 伊東潤さんが『天下大乱』で覆したかつてない“関ヶ原”/末國善己さんによる書評を特別公開

 伊東潤さんの『天下大乱』が10月7日に刊行されました。「週刊朝日」2022年12月2日号(11月22日発売)に掲載された、末國善己さんの書評を掲載します。

伊東潤著『天下大乱』(朝日新聞出版)

 徳川家康が勝利し、天下人としての地位を決定的にした関ヶ原の戦いは、司馬遼太郎『関ヶ原』など何人もの作家が取り上げてきた。その多くは、家康が率いる東軍と石田三成を中心にした西軍の戦いだったとするが、常に最新の歴史研究を使って斬新な物語を作っている伊東潤の新作は、家康と毛利輝元の対立を軸にしている。

 大軍がぶつかる合戦は通常、終結まで数カ月以上かかっていたが、関ヶ原の戦いは、家康の巧みな戦略でわずか半日で決着したとされる。ただ家康の勝利は薄氷を踏むようなものだったともいわれ、東軍の主力を預けた徳川秀忠が、真田昌幸・信繁父子が守る上田城の攻略に手間取り遅参した、寝返りを実行しない小早川秀秋に怒った家康が鉄砲を撃ちかけた(問鉄砲)、西軍の島津軍が東軍の本陣を突っ切る形で撤退した(島津の退き口)などの逸話が残されている。

 また西軍主力の毛利家は、輝元が大坂城を出ず、関ヶ原で有利な南宮山に布陣した秀元も、前方にいた同族の吉川広家が動かず参戦できなかった(戦闘参加を要請する使者に、秀元が食事中と弁明したことから「宰相殿の空弁当」と呼ばれた)。毛利家が、不可解な動きをした理由には諸説ある。

 著者は関ヶ原の合戦の定説を覆したり、有名なエピソードをかつてない形に読み替えたりしているので、歴史が好きな読者ほど驚きも大きいのではないか。

 家康は、豊臣秀吉が死んだ直後から天下取りに向けて布石を打っていたとされる。だが本書では、同盟者の織田信長、関東の雄・北条家など、絶大な権力を握った武将が滅ぼされる現実を目にした家康は、幼い豊臣秀頼を補佐する形で天下に号令し、その役割を徳川家が受け継ぐ体制を目指していたとする。そのため家康は、同役の五大老を弱体化させる謀略をめぐらせ、豊臣政権の重鎮・前田利家の死を好機として前田家を屈服させ、次の狙いを東北の上杉景勝に定める。

 五大老の一人・輝元は、いずれ家康の刃が毛利家に向けられるとして、対処法を考えていた。五奉行の座を追われた三成は、家康を排除して奉行衆が豊臣政権を運営する体制に戻すため、家康派の福島正則、加藤清正らさえも豊臣に弓引くことができない秘策を作り上げた。三成の家臣・島左近から三成の計画を聞いた輝元は、理屈が先走っている弱点はあるが有効性は高いと判断し、具体的な実行プロセスに落とし込んでいく。

 関ヶ原の戦いは、正則、清正ら武断派と三成ら官僚集団の対立が遠因とされるが、著者は、有力大名の家臣や国衆に目をかけて家内の分断を煽り、政権の安定化を目論んだ秀吉の手法が各所で軋轢を生み、それも豊臣離れの一因になったとする。その結果、豊臣政権には幾つもの派閥が生まれ、家康と輝元が派閥の力学を読みながら謀略戦を繰り広げ多数派工作を進める展開には、合併で巨大になった企業の派閥抗争を見ているような生々しさと現代性があった。

 家康と輝元が、相手に勝利するため着実に布石を打っていくところがリアルなだけに、実際に関ヶ原の戦いに向かう時期にこのような動きがあったのではと思えるほどである。だが輝元が、この人物は自分の思う通りに動いてくれるはずだとの楽観論をベースに戦略を立てたのに対し、叩き上げで人心のうつろいやすさを知る家康は、悲観論的な傾向が強く、常に最悪を想定して次の手を考え、計算が狂った時の二の矢、三の矢も用意するくらい慎重だが、乾坤一擲の局面では迷いを捨て決断した。

 苦労と失敗から学び、細心の注意を払い勝利を掴んだ本書の家康は、日本型の組織とリーダーが抱える問題点と、それを打開する方法に気付かせてくれるのである。

※週刊朝日 2022年12月2日号


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