スタンフォードで学んだ東京電力社員が、保守的な大企業で社内ベンチャーを成功させるまで
※第3回よりつづく
■社内ベンチャーへの挑戦:MW2MHプロジェクトとアジャイルエナジーX
福島第一原子力発電所(1F=イチエフ)事故に関する事実関係と教訓について英語で発信するため、2011年9月から4年間務めた米国駐在を終え2015年に日本に帰国。本社で1Fの廃炉を安全に進めるためのフレームワークを構築する責任者となった。世界でもっとも過酷な現場ともいわれる1Fで、安全性や環境への影響等を考慮しながら、速やかに、かつ低コストで廃炉を進めるという、きわめて難解な多元方程式を解くことが求められた。
たとえば、燃料が溶け落ちた原子炉の状態に関する情報が不十分な状況下で、高額なロボット等の調査機器開発に関する意思決定が求められる。このようなとき、スタンフォード大学GSB(経営大学院)のData & Decisionsの授業で学んだ、decision treeおよびvalue of informationの手法が役立った。その他にも、この授業で学んだNPV(Net Present Value、正味現在価値)、IRR(Internal Rate of Return、内部収益率)、重回帰分析、AHP(Analytic Hierarchy Process、階層分析法)、等の各種意思決定手法の知見を踏まえ、1F廃炉の各種難題に対する意思決定を合理的に行うために、MCDA(Multi Criteria Decision Analysis、多基準意思決定分析)手法の応用形を考案した。
MCDAは、さまざまな評価軸が存在する複雑な社会課題に対して意思決定を行う際に用いられる手法で、英国の公共事業等で適用された事例がある。筆者は、これを1Fに適用するにあたり、(1)公衆安全、(2)作業員安全、(3)リスク低減効果、(4)廃棄物発生量、(5)コスト、(6)実現の不確実性、という評価軸を設定し、それぞれの評価軸の重みづけをAHP手法で決定。そして、たとえば放射線量が高くてアクセスが困難な2号機の原子炉建屋から使用済燃料を取り出すための構築物の最適な設計を、複数の候補のなかから、総合的な視点に基づき選択するための判断材料とすることを提案した。
1F廃炉業務をしばらく務めた後、日本原子力発電株式会社に3年間出向し、日立製作所が推進していた英国の原子力発電所新規建設プロジェクト(ホライズンプロジェクト)に参画した。米国でのSTPプロジェクトを主導した経験が買われてのことだった。ここでも、Touchy Feelyのテクニックを駆使して、ホライズンプロジェクトの英国人CEOダンカン・ホーソーン氏の懐に飛び込むなど、GSBのスキルが大いに役に立った。
このようななか、2018年、東京電力社内で次世代経営リーダー研修の公募があった。公募条件の一つが、「安定した事業環境下よりも変革の時代に求められる資質を強くもつ者であること」。迷わず申し込み、受講メンバーに選抜された。
選抜面接で、「経営層が椅子からずり落ちるような、革新的な事業を提案してもらいたい」と面接官からいわれた際、「いわれるまでもなく、そのつもりである」と即答したことが奏功した(と思われる)。今こそ、GSBで学んだ起業家精神を最大限発揮し、東京電力が福島の責任を貫徹するためにも、きちんと稼げる会社に生まれ変わるためのチャンスだ、と闘志を燃やした。
研修の最終発表で提案したのは、2点。1点目は、「アンチ・フラジャイル(=逆境で強くなる)」な経営戦略の構築。2点目は、「MegaWatt To MegaHash(MW2MH)プロジェクト」の実行である。アンチ・フラジャイルとは、ニューヨーク大学のナシム・タレブ教授が著書『Antifragile』で提唱した概念。タレブ教授は、“Fragile(脆弱)”の対義語は、一般にいわれている“Robust(強健)”や“Resilient(強靭)”ではなく、不確実性や外乱により一層強くなる“Antifragile”であるべき、と主張。
筆者は、“VUCA”(Volatility=変動性、Uncertainty=不確実性、Complexity=複雑性、Ambiguity=曖昧性)の時代においては、これらVUCAをむしろ糧として企業価値を高められるような、「アンチ・フラジャイル」な戦略の構築が必要であると確信した。そして、このアンチ・フラジャイル性を、「ヘッジ性」と「リアルオプション性」の二つのパラメータの掛け算で定義し、アンチ・フラジャイル性の高い事業を東京電力の経営戦略に組み込むことを提唱した。
そして、アンチ・フラジャイル性の高い事業の一例として、MW2MHプロジェクトを提案。これは、変動性再生可能エネルギーの余剰分(MegaWatt:MW)を、分散コンピューティング技術により、デジタル価値(MegaHash:MH)に直接変換するというコンセプトである。
2018年当時、再エネの導入増大により、九州地方では出力抑制という事象が発生しはじめていた。出力抑制とは、春秋のように電力需要が低い季節の晴れた日中に、太陽光発電による供給が増大し、需要を上回ると、電力系統が不安定になり停電するリスクがあるため、太陽光発電を止めざるを得ない事象を指す。せっかくの太陽エネルギーが有効活用されずに捨てられるのだ。
同じころ、ビットコインをはじめとする仮想通貨の取引が日本でも活発になり、ビットコイン価格が急騰・急落するという展開を見せるとともに、仮想通貨マイニングという仕組みが、大量の電力を「浪費する」というネガティブな報道が増えていた。
そこで筆者は、仮想通貨マイニング(一種の分散コンピューティング技術)が電力を大量に消費するという特性を逆手に取り、変動する再エネの発電量に合わせて柔軟な電力需要を創出することで、再エネを余すところなく有効活用するソリューションを考案した。電力業界では、変動再エネの課題は大量の蓄電池を導入して調整するしかない、という固定観念が主流であったが、筆者は、GSBで常々意識していた“Think outside the box”のアプローチで、これまでにない発想に至ることができた。
MW2MHプロジェクト構想は、東京電力経営層の関心を引くことができたものの、筆者の本業は原子力だったため、研修期間終了後は課外活動として構想を練る必要があった。ここでも、Paths to Powerの教訓を生かし、社内キーパーソンおよび関連組織の利害関係を理解し、2020年夏にようやく原子力部門から、送配電事業を行う東京電力パワーグリッド(東京電力PG)への異動を勝ち取り、正式な業務としてプロジェクトを推進できるポジションを得た。そこに至る道のりでは、自腹でシンガポールに2往復し、ブロックチェーン業界のキープレーヤーと意見交換したり、自宅で仮想通貨マイニング装置の実験をして、経営層にプレゼンするためのデータ採取をしたりした。
東京電力PGでプロジェクト・マネージャーとして、MW2MHプロジェクトの概念実証(PoC)を進めていくなかで、当ソリューションに対する注目と期待度が高まっていった。経営層からは、新たな事業の柱として、第一線職場の社員からは、日々の業務上の課題解決策として。そこで、段階的に進めてきたPoCがまだ完了していない状況であったにもかかわらず、事業化を加速するために新会社を設立することを、2022年はじめに東京電力PGの経営層に提案した。
当初は、PoCを完了させ、収益見通しが立ってから会社設立の判断をすべき、という意見が多かった。しかし筆者は、MW2MHプロジェクトの事業化は、東京電力グループが、GSBのチャールズ・オライリー教授が提唱する「両利きの経営(既存事業の「深化」と、新規事業の「探索」を高い次元で両立)」を実現するための試金石になると確信していた。このため、速やかに会社を設立し、走りながらアジャイルに事業化の見通しをつけるアプローチを採用しない限り、東京電力からイノベーションを起こすことはできない、と主張した。
この主張は、侃々諤々の議論を重ねながら、徐々に東京電力PGおよび東京電力ホールディングスの経営層にも浸透していった。そして、新会社設立の機関決定を経て、2022年8月に株式会社アジャイルエナジーXが、東京電力PGの100%子会社として設立され、筆者が代表取締役社長に就任した。研修で構想を提案してから4年経っていた。
アジャイルエナジーXの事業内容は、「分散コンピューティング(仮想通貨マイニング含む)を用いた、電力のデジタル価値への直接変換による、再エネ導入最大化と電力系統最適化」である。大量に電力を消費するデジタル装置の特性を逆手に取り、時間と空間を選ばず柔軟に電力需要を創出可能なソリューションとして、電力の安定供給とカーボンニュートラルを両立させる、逆転の発想に基づく事業である。
世界にも類を見ないビジネスモデルのため、事業が軌道に乗るまで、アジャイルに試行錯誤を繰り返しながら、大きなアップサイドを狙っていくこととなる。なお、現時点でもっとも柔軟に電力需要を創出可能なソリューションは、Proof of Workというメカニズムに基づき、ビットコイン・ネットワークの健全性を確保するためのインフラ機能を果たす、ビットコイン・マイニング装置と考えており、この実装からはじめる。
MW2MH事業の推進により、遠隔地の再エネや原子力を含むクリーンエネルギーの地産地消と地方創生が促進されるとともに、発電事業の収益性が確保され、ひいては日本のエネルギー基盤の「アンチ・フラジャイル性」の向上に資するものと確信している。
なお2023年はじめに、オライリー教授宛に恒例の近況報告メールを送り、アジャイルエナジーXの設立について報告した。すぐに返信が届き、2022年発行の著書『Corporate Explorer』(邦題:『コーポレート・エクスプローラー 新規事業の探索と組織変革をリードし、「両利きの経営」を実現する4つの原則』、英治出版・2022年)のテーマそのものであり、是非詳しく話が聞きたい、と喜んでくれた。
■今後の展望:アンチ・フラジャイルなエネルギー基盤の構築と人材育成
先進国のなかでもエネルギー自給率がきわめて低い日本は、元々エネルギー基盤が脆弱である。それに追い打ちをかけるように、世界的なエネルギー危機が発生している。日本のエネルギー基盤を支えるうえで重要な役割を担っている東京電力グループに、GSBの起業家精神を注入し、内側から変革すべく、筆者はGSB卒業後18年以上にわたり各種取り組みを推進してきた。この度、アジャイルエナジーXという新たなプラットフォームを用いて、これまで以上に大胆に戦略を立案し、実行に移せる状況となった。会社設立にあたり、陰に陽に協力していただいた社内外の関係者に、この場を借りてお礼申し上げたい。
再エネや原子力を含むクリーンエネルギー源と、分散コンピューティングをはじめとする柔軟な電力需要を組み合わせることで、GX(Green Transformation)とDX(Digital Transformation)を融合させる。さらには、分散コンピューティングに国内半導体技術を採用することで、日の丸半導体産業の復活にもつなげるとともに、金融をも取り込んだ、日本発のイノベーションの潮流を生み出す所存である。VUCAの時代にこそ一層強靭となるような、アンチ・フラジャイルなエネルギー基盤の構築は、国家百年の計という発想で長期的視座に基づき、取り組むことが必要である。そして、それを可能とするのは人材である。
筆者は、東京電力社内で「熱く語る会」と称する、課外活動としての勉強会をGSB卒業以来継続的に開催してきたほか、社外では、産官学連携の原子力人材育成ネットワークや宇宙太陽発電学会等のセミナーやさまざまな大学での講演を頻繁に引き受けてきた。たとえば、原子力人材育成ネットワークでは、日本の原子力産業を復活させるべく、『日の丸原子力「捲土重来」戦略』と称して、以下の大胆な提案を行った。
本提案について、原子力業界の若手・中堅受講者から、「前向きでワクワクする話が聞けてモチベーションが向上した」という声を多くもらった。
また、2004年からGSBの日本同窓会幹事として、GSBアドミッションオフィスと連携して、東京での説明会を毎年主催してきたほか、コロナ禍以降は、“Online Chat with an Alum”というZoomイベントを毎週開催している。2020年からの2年半で130回以上、世界中のGSB受験生1200名以上に対して、イノベーション教育の最高峰であるGSBの魅力を、自らの“Transforming the dinosaur TEPCO with GSB entrepreneurship”という具体例で解説し、好評を博している。
これら人材育成に資する取り組みを生涯実践し続け、“Change lives. Change organizations. Change the world.”というGSBのスローガンを体現し、多くの人に夢と希望を与えることができたならば、わが人生に悔いはない。