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朝日新書『人事の日本史』の立ち読み

 書店で立ち読みする時に、まずめくるのが「はじめに」と「もくじ」だという人は多いだろう。立ち読み気分で本の冒頭を開放するコーナー「本の入り口」。今回は、2003年からの経済雑誌「エコノミスト」での連載から始まり、毎日新聞社での単行本化、新潮社での文庫化、そして今回の朝日新書化と、非常に息の長い名著『人事の日本史』の「まえがき」と「もくじ」を公開。立ち読み気分でまずは読んでみてください。

新潮文庫版まえがき

 現代日本では、多くの人々が会社を始めとする組織に属し、組織人として生きている。そして、組織人ならば好むと好まざるとにかかわらず、関心を持たざるを得ないのが「人事」だと言える。

 だが、もちろん「人事」は、現代だけのものではなく、古代から「抜擢」「左遷」などの人事処遇や、「派閥」「昇進競争」といった人事に関連する社会や人々の動きが歴史上には多く見られる。

 そこで本書では、「日本史」を古代から近世まで振り返り、「人事」の本質を次の三つの観点から追究している。

  一、歴史上重要な意味を持つ人事はどのように決まったか。
  二、古人は人事をどのように考え、人事に対してどう行動したか。
  三、日本史を貫通する、日本的な人事の論理はあるのか。

 そもそもこの企画は、経済雑誌「エコノミスト」(毎日新聞社発行)の編集部より発案があって始まったもので、本書に収録した論稿のほとんどは、同誌に連載(二〇〇三年十月七日号~翌〇四年九月七日号)されたものである。

「エコノミスト」誌の連載終了後、これを単行本にまとめて毎日新聞社より刊行(〇五年三月)しているが、この度、装いをあらためて文庫版を刊行することとなった。また、この機会を活かし、さらに「藤原緒嗣」「北条早雲」「毛利元就」「武田信玄」の項を新たに加えている。

 読者諸兄には、「人事」というキーワードを手掛かりにして「日本史」に親しんでいただき、また翻って歴史を通して人と組織の関係を見つめ直すきっかけともなれば幸いである。

二〇〇八年二月
遠山美都男
関 幸彦
山本博文

朝日新書版まえがき

 昨今でも人事をめぐる問題で何かと話題にのぼることが多い官僚であるが、あの藤原鎌足が我が国官僚の第一号だったことは御存知だろうか。鎌足と言えば、策士あるいは参謀のイメージをもっている方が多いに違いない。だが、鎌足がまだ中臣氏を名乗っていた頃、彼が官僚になるとの名乗りを最初に挙げたという記述が『日本書紀』(七二〇年完成)に見えるのである。

 時は六四四年、鎌足らによって蘇我蝦夷・入鹿が討たれるおよそ一年半前のこと。鎌足は中臣氏の世襲の職務である神祇祭祀の継承を断わって、中臣氏の本拠地、摂津三嶋(現・大阪府高槻市)に隠遁を決め込んでしまったというのである。『日本書紀』は、鎌足のこの行動を後に彼が蘇我氏打倒のクーデターを起こしたことに結びつけ、「今は呑気に神様を祭っている場合ではない」「蘇我氏を倒さねば、この国に未来はない!」という思いが日増しに強くなった結果の行動だったと描こうとしている。

 ところが、蘇我氏が滅ぼされた政変の直後に始められた改革(これが大化改新)において、中臣氏の世襲の仕事を始めとして朝廷のあらゆる世襲職が廃止されていく(詳細は本書を参照されたい)。世襲の職務から解き放たれた豪族たちはそれぞれ国家運営の専門分野を担う官僚に転身していくことになる。鎌足はこのような動きを先読みして、いち早く朝廷の世襲職に見切りをつけたことになる。

 他方、鎌足は政変を成功させた後、あたかも黒子に徹したかのように表舞台には姿を見せず、その後半生も多くのナゾにつつまれている。だが、人生の最後に長年仕えてきた天智天皇に向かって、「それがしは軍国に全く奉仕が出来なかった。それが悔しい」と口にしたとされている。

 これを信ずれば、鎌足はおのれの人生を国家の軍事政策に捧げた、軍事官僚としての歳月だったと認識していたことになる。鎌足は策士や参謀ではなく、軍事官僚として天皇と朝廷に奉仕してきたと、少なくとも当人はそのように考えていた。ということは、鎌足が軍事官僚への道を突き進んでいく、その起点になったのが中臣氏の世襲の職務を受け継ぐことを固辞した、あの瞬間だったということになろう。

 要するに『日本書紀』は、中臣鎌足改め藤原鎌足が誰よりも早く朝廷の世襲の職務に訣別を告げ、我が国で最初に「これから官僚になります!」という挙手をした人物だととらえていたことになる。少なくとも従来の世襲の職務からの絶縁を、鎌足ほどはっきりと宣言した例は他にないと言ってよい。

 藤原氏と言えば、鎌足の二男不比等も我が国における官僚制の確立に大きな足跡を遺したことは周知のとおりだろう。長男の真人は出家して貞慧(定恵)となるが、文字や文章に習熟した僧侶は当時官僚の予備軍でもあったことを思えば、鎌足はむすこ二人に自分と同じ官僚としての道を歩ませようと考えていたことになる。

 不比等とは史(ふみひと、ふひと)、すなわち朝廷の書記官のことであり、また学者も意味した。彼の場合、中国の律令を中心にした法や制度の専門家たらんとしてこの名を選んだようである。不比等は父とは異なり、同じ官僚でも法務官僚の道を選んだと言えよう。

 不比等は大宝律令さらに養老律令の編纂を文字どおり主宰し、日本における官僚制の枠組み、その服務規程や勤務評定制度の根幹を作り上げた。父子二代にわたって日本における官僚制の創始に関わった鎌足と不比等。我が国における人事にまつわるエピソードを盛り込んだ本書においても、鎌足・不比等の子孫は随所に登場するはずである。

「歴史上重要な人事はどのようにして決められたのか」「日本人は人事をどのようにとらえ、人事に対してどのように行動したのか」「日本の歴史を貫くような、日本的な人事の特質とは何だろうか」というテーマを追究し、毎日新聞社「エコノミスト」の二〇〇三年十月七日号~二〇〇四年九月七日号に連載したものが、連載終了後の二〇〇五年に毎日新聞社から単行本として出版された。鎌倉時代の肥後国御家人・竹崎季長が恩賞を求めて奉行のもとを訪ねる「蒙古襲来絵詞」の一場面が表紙を飾った。

 その後、この本は二〇〇八年に新潮文庫に収められることになった。文庫版の表紙は「織田信長内閣」組閣?のイラストであった(茂利勝彦氏装画)。卑弥呼と推古天皇と思しき女性閣僚が二名も入閣している。これが版を重ねて多くの読者を得た後に、二〇一三年にテーマ別に大幅に改訂を加え、タイトルも『日本史から学ぶ「人事」の教訓』と改めて宝島社より単行本として三度世に出る幸運を得たのである。

 今回の朝日新書版は新潮文庫版にもとづき、明らかな誤字や誤記などを正すことに努めた。類書があるようでないユニークな日本通史として、また新たな読者が得られることを筆者一同期待してやまない。

二〇二一年七月
遠山美都男

もくじ

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