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【試し読み】佐原ひかり最新作『人間みたいに生きている』/「冒頭2頁で心臓鷲掴みされました」「この切り口は衝撃を受けた」「読んだ人と語り合いたくなる小説」……発売前から熱い感想続々!!

 第二回氷室冴子青春文学賞大賞を受賞し、デビュー作『ブラザーズ・ブラジャー』で話題となった佐原ひかりさんの最新長編『人間みたいに生きている』を、2022年9月7日(水)に発売いたしました。「この切り口は衝撃を受けた」「読んだ人と語り合いたくなる小説」など、発売前から熱いご感想を多数頂いた心揺さぶる青春小説の冒頭部分を公開いたします。
 生きたくないんじゃない、食べなくても生きられる体がほしい――。
食べることそのものに嫌悪を覚えている女子高生・三橋ゆい。「食べること」と「人のつながり」はあまりに分かちがたく、孤独に自分を否定するしかなかった唯が、はじめて居場所を見つけたのは、食べ物の臭いが一切しない「吸血鬼の館」だった。
「冒頭2頁で心臓鷲掴みされました」と絶賛の声をいただいた書き出しを、ぜひお読みください!

※期間限定の全文公開は終了しました。読んでくださったみなさま、ありがとうございます。冒頭部分のみ試し読みを続けます。もっと読みたい!という方は、単行本や電子書籍で、ぜひお楽しみください。

佐原ひかり著『人間みたいに生きている』

 口は穴だ。顔に空いた穴。備え付けの歯と舌を駆使し、自分に自分以外の何かを取り入れるための穴。今日も無数の死骸をここに入れ、ねぶり、砕き、噛みちぎり、飲み込んだ。残るは、この鳥の死骸だけだ。羽毛を毟られ、一口大に変形させられた、鳥の死骸。ゆっくりと箸で持ち上げ、穴へと運び入れる。顎を動かすと、歯がやわらかい身にずぶずぶと沈み、にゅるりとした食感が穴全体にいきわたった。噛むたびに脂がねっとりと舌にまとわりつき、汁が穴いっぱいに広がる。刺激臭が鼻の奥に突き刺さり、えずきそうになる。穴の中に溜まった唾液が肉を溶かし、私と死骸との境目がうすれていく。
 違う。
 上がってきた唾を飲み下す。
 違う。
 違う、違う、違う。
 違う、そうじゃない。
 そんなふうに考えてはいけない。
 これは、唐揚げだ。唐揚げ、という名前の食べ物。おいしくて、栄養になる食べ物。死骸ではない。命ではない。元の形などない。そんなものはない。これは食べ物。赤い楕円の箱の隅にある、でこぼことした茶色の固形物。これはただの、おかず。これは「食べる」という行為。よろこびを感じるべき、幸せな行為。余計なことを考えずに、私はただ、食べればいい。
 目と頭に言い聞かせ、残り半分を口に押し込む。息を止め、顎を絶え間なく動かし続ける。にちゃにちゃと、咀嚼音が頭蓋に響く。吐き出しそうになるのを堪えながら、無心で顎を動かし、身をばらしていく。皮、肉、脂、汁が唾液とぐちゃぐちゃに混ざり合う。溶ける。すりつぶされる。形を失う。命が無茶苦茶になっていく。
 口が勝手に開き、う、と声が出た。
 無理だ。
 どう言葉で取りつくろっても自分をごまかしても気持ち悪い。このまま今すぐにでも吐き出したい。それでも、入れてしまった以上、もう戻すわけにはいかない。涙目になりながら、手で口に蓋をする。一秒でも早く、飲み込まなくては。
 水筒を手に取り、肉塊を一気に食道まで流し込む。頬や歯の隙間にへばりついた衣や脂が消えるまで水を送り込み続け、何度も何度も喉を鳴らす。
 口の中の異物感が消えたところで、水筒を置いた。口の端からこぼれた水を拭い、ついでに、汗で頬に張りついた髪を払う。括るには少し長さが足りない後ろ髪を持ち上げ、首元に手で風を送って、息を吐いた。
 ようやく、終わった。これで、夜までは何も食べなくていい。もう何も、取り入れなくていい。
 背を少しだけ椅子に預けて、食べ物の臭いと話し声で充満した教室をぼんやりと見渡す。
 四角い箱の中で、喋り、食べ、歩き、誰もがせわしなく体のどこかを動かしている。半袖のブラウスに赤い棒ネクタイ、紺色のスカートと、揃いの制服を着てはいるが、誰ひとりとして同じ人間はいない。個別の体に個別の命が宿り、後にも先にも同じ人は出てこない。人間だけじゃない。さっきの鳥と、昨日弁当に詰め込まれていた鳥だって、違う鳥だ。後にも先にも同じ鳥はいない。みんな、どう思っているんだろう。均一に加工され同じ形に変えられた命が、みるかげもなく自分に吸収されていくことを。
 ぎゅる、と腸が動く音が体内に響いた。思わず目をつむる。細切れになった肉片、ぐちゃぐちゃに潰れたトマト、ペースト状になった米が唾液まみれの団子になって体を駆け巡っていくイメージがよぎる。
 目を開けて、黒板、掲示物、クリーナー、カーテン、教卓と、とにかく、とにかく他の何か、と視線を走らせていたら、みのりと目が合った。気づくのを待っていた、というように、にこりと笑われてしまえば、逸らすこともできない。
「唯ちゃん、ごちそうさま?」
「……うん」
 それ以外、答えようがない。弁当箱は空だ。私が今、死ぬ思いで空にした。
 みのりが、椅子を引いた。ガタガタと派手な音が鳴る。見た目にはわからないが、どこか一本、脚のゴムキャップがすり減っているのだろう。園ちゃんと睦月が何かを察したように居住まいを正した。
 声の調子や何気ない動作で注目を集め、空気の色や温度を変えるような存在。その一挙一動に目がいく。クラスに何人かは、そういう子がいる。みのりはそのうちの一人だ。甘く高めの声はよく通り、華やかな目鼻立ちにはその時々の感情が出やすい。指揮者が振るタクトを追うように、目が自然と彼女の行動や表情を追い、意に沿うような音楽を奏でてしまう。
「今日はねえ、タルトです」
 みのりが脇にかけていた保冷バッグを机の上に載せた。
「えっ、今日タルトなの? すごっ。何タルト?」
 園ちゃんが、ぱあっ、と顔を輝かせた。小粒の目が、限界まで見開かれている。
「ちょ、園。やめてよ鼻息。もー、ふつうのフルーツタルトだって」
 笑いながら、みのりがラップに巻かれたタルトを取り出し配った。一人に一つずつ、手渡しで。
 受け取った瞬間、冷蔵庫の臭いがかすかに鼻をかすめた。冷たいラップの下には、敷き詰められた色とりどりの果物が見える。
 園ちゃんがいの一番にラップを剥いで口に入れた。おいしー! と絶賛の声を上げ、そのふっくらとした頬を支えるように手を当てた。
「みのり、これマジで手作り? クリームも絶妙な甘さだし、皮のしっとり感も最高なんだけど」
「皮って。言い方」
「ごめんて。いやでもほんと。店出せるレベルよこれ」
「園、大げさ。趣味のレベルだから。タルト生地とかも市販のやつだし、あとはフルーツ適当にのっけただけ」
 照れ隠しなのか、素っ気なくあしらっているが、嬉しそうだ。園ちゃんも、お世辞ではなく本当においしそうに食べている。睦月も、うま、と一言しか言わないものの、眼鏡の奥の目尻はやわらかく下がっている。
 二人がそう言うのだから、これはきっとおいしいのだろう。みのりのお菓子作りの腕前に、問題はない。問題があるのは、私だ。
「唯ちゃん、食べないの?」
 園ちゃんの声に顔を上げると、六つの目が私を見ていた。
 みのりは謙遜しているが、たぶん、力作だ。この場で食べたほうがいい。食べて、感想を言ったほうがいい。でも、午後にはプールの授業がある。簡単には吐きにいけない。光に揺らめく水の中で吐瀉物をまき散らす自分を想像してぞっとする。
「……今、お腹いっぱいで。ごめんね。あとでいただくね」
 一昨日のクッキーは、その場で一枚食べた。大丈夫、二回続けてではない。お腹をさすりながら、それらしく謝る。嘘は何一つついていない。みのりの手作りのお菓子は、きちんと、食べている。ただ、多くの場合吐き出すことになるだけだ。
 みのりが、そっかあ、と少ししょげた声を出した。罪悪感から、みのりは本当にすごいね、と薄っぺらい褒め言葉が口をついて出る。
 唯ちゃんは小食だもんねー、と言いながら、園ちゃんが指についたクリームを舐め取った。
「わたしも食事の量減らそうかなあ。見てこれ。去年の採寸のときとサイズ変わっちゃって、ホック留まんないのよ」
 そう言って、シャツを捲ってお腹を見せた。薄桃色のタンクトップがウエストにのっている。
「げっ。園、ウエスト安全ピンで留めてんの? いくら女子校だからって油断しすぎでしょ」
 信じられない、という顔でみのりが園ちゃんのお腹を指で弾いた。ひぎゃっ、と奇声を上げながら園ちゃんが身をよじる。声ヤバ、と笑い、みのりはさらにお腹をつつこうと、椅子の背に手を置いて身を乗り出した。ゆるく巻いた髪が鼻先をかすめて、ジャスミンの甘い香りが広がる。みのりは椅子に膝を乗せたままお尻を突き出す恰好を取っていて、腿の位置まで上げたスカートから下着が見えてしまうんじゃないかと、それこそ油断しすぎでは、と心配になる。
 みのりはしばらく園ちゃんと攻防を続けていたが、つま先に引っかけていたヒール付きのローファーが落ちたところで、追うのをやめて椅子に腰かけ直した。引きずられた椅子が悲鳴を上げる。
「でもさでもさ、これがけっこう楽なんだって」
 園ちゃんが頬を紅潮させながらもう一度シャツを捲った。どうしても説明したいのだろう。客観的に見ればきわめてだらしないことをしているのに、世紀の発明を誇るような口調に苦笑してしまう。
「食べ過ぎたときもこれなら苦しくないんだって。ほら、こうやって位置ずらしていったら無限に、って、痛っ」
 解説をしていた園ちゃんが小さく叫んだ。ピンで指を刺したようで、顔をしかめて、指に浮かんだ血の玉を見つめている。
「大丈夫? 絆創膏取ってこようか?」
「いいの?」
「うん。何枚かポーチに入れてたはず」
 ついでにこのタルトも置きにいける、と腰を浮かしたが、振り返ると私の席では多田さんたちが手を叩きながら笑い合っていた。スナック菓子の袋を豪快に開けて、手を伸ばし、喋り、を繰り返している。時折足をバタバタさせながら笑う声が、大きく甲高く響いてくる。クラス替えをしてからもう三カ月以上経つが、まだみのりや園ちゃん、睦月以外の子とはろくに話せていない。とくに、多田さんのような子たちとは。
「一緒に行こっか」
 ためらいを見抜いたのか、みのりがすっ、と席を立った。そのまま、颯爽と私の席に向かって歩いていく。慌てて追うと、「多田ァ」とみのりが乱暴に声を張った。
 普段、私たちといるときには出さないような声だ。言い方はよくないが、みのりはこういう「使い分け」が上手い。クラスの誰とでも馴染み、教室のどこへでも、自由に動ける。本来なら、多田さんのような子たちと行動を一緒にしていてもおかしくない。どうして私や園ちゃん、睦月みたいな地味な子たちと同じグループで「満足」しているのだろう、と時折ふしぎになる。
「用事あるから退いてー」
「用事ぃ?」
「そ。ポーチ取りに来た」
「ポーチ? 誰のよ」
「唯ちゃんの」
「うける。みのり超保護者じゃん」
 多田さんがちらっ、とこちらに目をやった。呆れたような半笑いが顔に浮かんでいる。一人で取りに来いよ、と言われている気がして耳が熱くなる。思わず、私より背の低いみのりに隠れるようにして立つ。
「はい、どーぞ」
 多田さんが組んでいた脚を退けた。急いで屈む。鞄にはスナック菓子の屑がついていた。その場ではたき落としたいのをこらえて、ファスナーを開け中に手を入れる。見なくても手だけで探り当てられると思ったが見つからない。鞄の口を広げて隅から隅まで見てみたが、絆創膏やしみ抜き、爪切りや裁縫道具などこまごまとしたものを入れている水色のポーチはどこにもない。あっ、と声を上げそうになる。そういえば昨日、一度外に出した。新しい紙石鹸を補充して、その後、戻したつもりだったのに。
「ないんかい」
 多田さんの突っ込みに、一斉に笑いが起こった。すみません、と謝って立ち上がる。みのりが何か言ったが、笑いの渦から逃げたくて足早に園ちゃんたちのところに帰る。恥ずかしい。絆創膏もなければ、結局タルトも置けなかった。何をしにいったのかわからない。
 遠くから様子を見ていたのか、私が何か言う前に、園ちゃんが、「こんなの舐めちゃえば平気だから」と言って、血の玉をぺろ、と舐めた。ね、と気遣うような上目遣いに、ますます居たたまれなくなる。こんなことなら、調子に乗って、絆創膏を持っているなんて言い出さなければよかった。
 こちらに戻ってきたみのりの顔も見られずうつむいていると、空気を変えるように、園ちゃんが、あ、と声を張り上げた。
「そういえば、あれ聞いたことある? あの話」
「どの話よ」
 睦月が指の関節で眼鏡を押し上げながら言った。
「吸血鬼の館の話」
「吸血鬼ぃ?」
「そう。外れに、すっごく古い洋館があるらしくて。で、そこに吸血鬼が棲んでるって噂になってるんだって。うちの弟――小三のほうね、学校で友達に聞いた、って言ってて。小学生同士ならそんなに信憑性もないんだけど、その友達のおじいちゃんも、あそこは昔からそうだ、って言ってたらしいの。あと、実際に血を飲むところを見た人もいる、って」
「外れって緑地台?」
「ううん、もっと山手。山っていうかほぼ森? なんかあるじゃん、こんもりしたところ。昼間でも薄暗い感じでさ、吸血鬼はいなくても、不審者ぐらいはいそうだし、あんま近寄んな、って注意はしたんだけど」
 園ちゃんが顔を曇らせた。園ちゃんには年の離れた弟が二人いて、日頃からとても可愛がっている。二人ともしょっちゅう傷をこさえてくるそうで、園ちゃんは彼らの遊び方が心配でならないという。
「吸血鬼ねえ。日本にいるか? そもそも。カッパとかのほうがまだいそうだわ」
「えー、でもカッパよりは吸血鬼のほうがロマンあるじゃん」
「ロマンって何」
「少女漫画に出てきそう、って感じ」
 園ちゃんが照れくさそうに笑う。わかんねー、と睦月が短い髪をがしがしと掻いた。
「みのりはわかるよね? この前貸した漫画読んだでしょ?」
 園ちゃんに力強く同意を求められ、みのりは、まあわかるけど、と笑いながら、「でも、実際いたらかわいそうだよね」と付け足した。
「かわいそう? 吸血鬼が?」
「そ。吸血鬼って、要するに血しか飲めないんでしょ? 世の中、おいしいものがたくさんあるのに」
「同情するポイントそこなんだ。みのりらしいけど」
 睦月が呆れたように笑う。みのりは、えー、と髪を耳にかけ直した。保冷バッグを閉めて机に提げる。
「だって、おいしいものが幸せに食べられないって、絶対人生損してるよ。かわいそう」
 ね、とほほえみかけられ、ぎこちなく頷く。親指がラップに沈む。口いっぱいに広がった唾液を、静かに飲み込んだ。
 吸血鬼。
 血しか飲めない、かわいそうな、生き物。
「あの、さ」
 声が裏返りそうになって、咳払いを挟む。
「その、吸血鬼の館、って具体的にどの辺にあるのかな。緑地台より山手ってことは、星ヶ丘のあたり?」
 さりげなく訊いたつもりだったのに、みのりも園ちゃんも口をつぐんで、こちらを見た。
「めずらしー。唯ちゃんが噂話に興味持つなんて」
 みのりが頬杖を外した。同意するように、園ちゃんが首を縦に振り続けている。
「そう、かな」
「そうだよ。唯ちゃん、誰に彼氏ができたとか、他所の高校がどうとか、あんまり興味ないじゃん。どうでもよさそうっていうか」
「そんなこと、ないよ。みのりの、武勇伝とか、楽しく聞いてるし」
「ちょっと、武勇伝て」
 みのりがピンクの唇を尖らせ、形だけ怒ってみせる。
 軽口を叩いてごまかしたが、図星だった。
 どうでもよさそう、なんて。そんな風に見えていたのなら、これからよりいっそう気をつけないといけない。
 誰と誰が何をしたとか、どうなったとか、正直、どうでもいいと思っているのは事実だ。心底興味がない。他人の恋愛話や噂話でどうしてそこまで盛り上がれるのかわからない。でも、それを思うのと顔に出すのは別だ。相槌を打ったり、疑問符を挟んでみたり、友人である以上、友人が持ち出した話題である以上は、相応の対応をしなくてはいけない。それが友人としての最低限のマナーで、役割だ。自分ではきちんと対応していたつもりだったのに。
「あ、てか昼休みもう終わりじゃん。トイレトイレ」
 みのりが立ち上がり、ほんとだ、と園ちゃんと睦月が続く。気づけば昼休みは残りあと十分ほどだった。急いでマウスウォッシュと歯磨きセットを手に取る。そのまま話が流れてしまった。
 放課後、あらためて訊いてみようか悩んでいると、六時間目が始まってすぐ、教室の前の方に座る園ちゃんからメモが回ってきた。最寄りのバス停の名前や、目撃談、洋館への道順まで、噂の内容が事細かにまとめられていて、余白には吸血鬼と思わしき男性キャラクターが描かれていた。プールのあとなのにめずらしく起きていると思ったら、これを作ってくれていたのか。席の並び的に、もうすぐ当てられてしまうはずだが。
 大丈夫だろうか、と心配していたら、案の定、何も答えられず怒られていた。

 車窓が見慣れないものに変わって二十分ほど経ったころ、ようやく目的の地名が聞こえ、バスを降りた。
 ガードレールの向こうには、通り抜けてきた町並みが小さく見える。バスが発つ音に振り返ると、白い石畳が敷かれた、長い登り坂が目に飛び込んできた。幅広の坂の片側には民家が建ち並び、反対側には木々とガードレールが壁を成している。人気はなく、蝉の声だけが響き渡っている。
 上り始めると、すぐに汗が噴き出してきた。日差しは真昼間ほど厳しくないものの、こめかみから首にかけて汗がつたい、シャツの襟が湿る。腋や胸、腹もぐっしょりと濡れていて気持ち悪い。背中にも肩胛骨に沿った汗じみができているかもしれない。襟ぐりに人さし指を引っかけて、肌にはりついた布を引きはがす。何度か繰り返して風を起こすと、気分はいくらかよくなった。
 噂が本当だとすれば、この坂の途中、あるいは先に、例の洋館があることになる。
 下ってきた車を避けるため、脇に寄って立ち止まる。排ガスが顔にあたり、忘れようと努めていた吐き気がまた喉元まで上がってくる。油断するとすぐにでも戻してしまいそうだ。バス酔いも手伝って、途中、何度もこみ上げてくる胃液を必死で飲み込んだ。
 水筒を取り出し、残りを一気に飲み干す。冷たい水が喉から胃にすべり落ちていくのが感じられる。
 おいしい、という感覚は、こういうことなんだろうか。
 食べることへの気持ち悪さを覚えたのは、中学生の頃だ。でも、それ以前も、食べ物のおいしさというものはとくに感じなかったように思う。唯一、水だけは、今も昔も何の嫌悪もなく飲める。
 突如、横手から突風に体を包まれた。民家の軒先に吊られた風鈴が、ちりんと軽やかに鳴る。
 よく見れば、ガードレールの隙間に、金網と木立に挟まれた小道がある。坂のほつれのような、細く長い道だ。風はどうやら、そこから吹いてきたようだ。
 ガードレールの切れ目に体をねじ入れる。人ひとり通れるかどうか、という狭さだ。木々の影にすっぽりとおおわれた小道は涼しく、汗が一気に引いていく。金網に引っかからないよう、体を斜めにして進む。
 しばらく歩くと金網が消えて、道がやや広くなった。両脇を木立に固められた、平らな道が続く。木漏れ日が遠慮がちに降りそそいでいて、山というよりは森を歩いているような気持ちになる。
 風がひときわ強く吹いて、木々がなぶられる。鳥たちが一斉に飛び立った。腕で顔を庇い、地面を見ながら歩く。渦のような風がやみ、顔を上げる。髪を払う手が止まった。
 あった。
 道の終点に、青銅色の門扉がある。その少し先に、白い洋館がそびえ立っていた。夏の光を受けて淡く輝き、木々の影が模様をつけている。もっと禍々しい、あるいはぞっとするような冷たさを持つ館を想像していたが、森の奥にひっそりと佇むそれは、そのどちらにもあてはまらない。かといって、別荘のような優雅な雰囲気というわけでもなく、どちらかというと、遺跡のような静けさを纏っている。長らく人に忘れられていたような。
 ごくり、と喉が鳴るのがわかった。
 正直、半信半疑だった。
 吸血鬼がどう、というより、そもそも洋館の存在自体、疑っていた。だから、ない、ということを確かめて帰ろうと思っていた。
 でも、洋館は今目の前にある。ここからどうすればいいのか。洋館の存在は確かめてしまった。帰るには、吸血鬼がいない、ということも確かめなくてはいけない。
 どうしたらいいのか、わからなかった。進むべきなのか、引き返すべきなのか。
 動悸に呼応するようにまた吐き気がこみ上げてきた。ひとまず、門扉を掴んでみる。青銅のひやりとした硬さに気持ちがいくらか落ち着く。力を入れたつもりはなかったが、キイ、と錆びた音が鳴って扉が開いた。

 門から正面の館までは少し距離があり、そこに続く砂地の道の上には一定の間隔で木板が敷かれている。それほど厚みのあるものではないから、無視して歩くこともできたが、なんとなく木板だけを踏んで歩いてみる。道の左右は丈の短い芝草で埋め尽くされていて、白や黄色の小さい花がまばらに咲いている。左手には白石に囲まれた小さな池が見えた。何枚か木の葉が浮いていて、風が吹くたび水紋が広がっている。
 最後の木板を踏んで、立ち止まった。
 見上げると、洋館は二階建てで、外観は左右対称に見える。突き出した玄関ポーチはアーチ状の庇と柱に囲まれていて、さらにその手前には三段ほどの石段がある。近くで見ると、かなり年季が入った建物だということがわかる。
 石段を上り、ポーチを進む。重厚な木の扉につけられた金色の細長い把手を握る。
 開いた。
 開いてしまった。
 扉の隙間から奥をうかがってみるが、暗くてよく見えない。
 どうしよう。
 この先、どうすれば。
 いや、と把手を握り直す。わかっている。取るべき行動は最初からわかっている。ここに来る前から。
 馬鹿なことをしている。引き返すべきだ。所詮、小学生の噂だ。普通に人が暮らしている可能性のほうが高い。木立に囲われた薄暗い雰囲気だけで、吸血鬼がいる、と言ったのかも。
 でも。
 でも、実際に血を飲んでいるところを見た人がいる、と園ちゃんは言っていた。その小学生も、大人から聞いた、と言っていた。
 そっと足を踏み入れると、床がぎしり、と音を立てた。古い木とニスの匂いが鼻をつく。閉め切っているわりには、そこまで蒸し暑さは感じない。むしろひんやりとした空気が流れている。館内の照明は落とされていて、窓から射す自然光を頼りに館内を見渡す。
 入り口の扉から続く深紅の絨毯は、正面に位置する階段の十段ほど先の踊り場にまで及んでいた。そこから階段は二股に分かれ、それぞれ二階へと続いている。吹き抜けになっているせいか、外から見るより天井が高く見える。耳をすませてみたが、物音一つ聞こえない。今のところ、生き物の気配は感じられない。
 絨毯沿いに、二階まで上がってみる。どこも閉まっているように見えたが、東側の部屋だけ扉が開いている。吹き抜けを囲むロの字の廊下を、忍び足で歩いて回る。
 首だけ突き出して部屋を覗いてみると、圧倒的な量の本が目に飛び込んできた。
 暗い室内には黒い本棚が所狭しと立ち並んでいて、ともすると床が抜けてしまいそうなほどぎっしりと本が詰まっている。部屋の奥には木製のテーブルがあって、そこにも本の柱ができていた。
「すごい……」
 思わず本棚に手を伸ばす。学校の図書館でも地域の図書館でも見かけないような、時の重みを秘めた本たちが、和洋を問わず並んでいる。小説、実用書、詩集、旅行記、実験の手引き書、地図、手記と、ありとあらゆるジャンルの本が、これといった規則性もなく乱雑に詰め込まれている。背を撫で、目を凝らしながら気になったものを抜き、ためつすがめつを繰り返す。最近本屋で見かけたものもあるが、字体や装丁からしてかなり昔に出たような本がほとんどで、中には、一度は読んでみたかった憧れの本もあり、実物を前に胸が高鳴る。
 どこかで座って読めないか、と一冊抜き取って、棚横の通路に出たその瞬間、何かが動く音がした。
 さっ、と室内を見渡す。
 見えるところには、何もいない。本を胸に抱き、息を詰めたまま、様子をうかがう。
「誰?」
 くぐもった声が窓際から聞こえた。目を凝らしたが、姿はない。でも、確実に、奥に誰かがいる。
 逃げるなら今だ、と頭ではわかっているが、靴の裏が床に張りついたみたいに動けない。心臓が痛いほど鳴る。硬直していると、誰かがのそのそと動く気配がした。唾を飲み、音の出所を凝視する。
 遮光カーテンの隙間から射す光に、金髪が光った。
 人が、本棚の奥から出てきた。
 右手に本を抱え、左手で何か赤いものを握っている。それ以外のところはぼんやりとしか見えないが、背恰好からいって男性のようだ。目が少し慣れてきたのか、細部が徐々に見えてくる。
 もう少し、と身を乗り出そうとした瞬間、鉄の匂いが鼻をかすめた。この部屋にそぐわないような、それでいてどこかなつかしく、嗅ぎ覚えがあるような。
 思い出すより早く、左手のそれに気づき、息を呑んだ。

(つづく)

※期間限定の全文公開は終了しました。読んでくださったみなさま、ありがとうございます。この続きは単行本や電子書籍で、ぜひお楽しみください。


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