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医師・おおたわ史絵が、執筆やコメンテーターを必死で続けた理由と家族の崩壊

 医師・コメンテーターとして活躍するおおたわ史絵さん。快活な印象のあるおおたわさんは、実は幼い頃から母の機嫌に振り回され、常に顔色をうかがいながら育ってきたといいます。母が薬物依存症の末に孤独死したことをテレビで公表し、大変な話題を呼びました。
 幼少期からの過酷な体験、親との別れ、そして母の呪縛からどうやって逃れたのかを克明につづった『母を捨てるということ』(2020年、朝日新聞出版)から抜粋して掲載します。(写真撮影/野口博)

 わたしは、実家を離れてからは生活の基盤を夫との暮らしに移し、医療のほかにも連載エッセイを書いたりラジオ番組をやったりと、なかなか盛りだくさんな日々を送っていた。

 そもそもなぜ医師としての生きかただけに飽き足らず、メディアなどに足を踏み入れてしまったのか?

 これもよく訊かれる質問なのだが、これについては自分のなかで明確な答えが出ている。

 ただひとつ、「誰かに認めてほしかったから」。

 幼少期から母親に褒められることがなく、認められた感覚のないわたしは、自己評価がすこぶる低い。それを埋めるために、誰かに見てほしい、認めてほしい、そしてできれば褒めてほしい……という願望がひと一倍強いのである。

 おそらくこれはわたしに限ったことじゃなく、テレビに出ているひとの多くはこの傾向がある気がする。

 生まれ育ちの事情はそれぞれだが、もとから幸せで満ち足りた人生であれば、なにも大衆に顔と恥を晒してまでリスクの高い生活を選ぶ必要などないのだから。アイドルもタレントもミュージシャンも、たぶん欠けているなにかを埋めるために一生懸命にもがいているのだと思う。

 わたしの場合、コネも才能も美貌もないところからのメディア業のスタートは、それは困難極まるものだった。星のかけらを掴むような現実離れした計画で、誰もが、「メディアで成功するなんて、そんなの無理だよ。おとなしく医者だけやってたほうが賢明さ」 と苦言を呈した。おっしゃるとおり、医者になることの何倍も苦労した。でもそのぶん挑戦のし甲斐があった。

 一本の連載に歓喜し、初めてのレギュラー番組には胸を躍らせた。どれもが人生で初めて経験するような充実感で、毎日を必死で駆けていた。

 その一方で、日に日に実家とは疎遠になっていった。なぜって、そのほうが平和だったからに決まっている。

 こちらが距離を置いているのを察知すると、母は逆ギレするみたいにわたしに敵意をむき出しにした。

 大好きな父とは話したかったので、たまの休みには実家に寄ることもあったが、そんなときでも母はわたしの顔を見るなり、

「おまえ、なにしに来たんだよ? 早く帰れっ」

 と露骨に眉をしかめて乱暴な言葉を投げかけた。極端にわたしを毛嫌いしていた。

「せっかく来たひとり娘にそんなことを言うもんじゃないよ」

 父が悲しげな顔でたしなめると、よけいに反発して、

「おまえの顔なんか見たくない! 早く死ねっ」

 とひどいセリフを吐き、私を寄せつけまいとした。

 家じゅうに持病の痛み止めの注射器が転がり、母の服の袖が血で汚れている状況は、昔となにひとつ変わっていなかった。

 世間には、実の母から何度も“死ね”と言われた経験のあるひとはそうそういないだろう。

 我が家のこの関係性はにわかに理解し難いと思う。わたし自身もこのときには、母の心境がまったくわからなかった。

(なぜ自分がそこまで嫌われるんだろう? 言われるままに勉強し、望みどおり医者にもなった。それでもまだなにか足りなかったんだろうか? それともなにか悪いことをした? 薬の使用をとがめたのがそんなにいけないことだったのか?)

 いくら考えても答えが見つからずにいた。

おおたわ史絵著『母を捨てるということ』(朝日新聞出版)
おおたわ史絵著『母を捨てるということ』(朝日新聞出版)

 これに関しては、その後何十年も経ってから依存症専門の精神科ドクターと話をした際に言われたことが心に残っている。

「あのね、母親にとって娘は最愛の対象なんだよ。それと正面から向き合いながら間違った薬物を使い続けるときに感じるのは、背徳感以外のなにものでもない。とうてい正常な精神状態ではやっていられないほど苦しいものなんだ。だからこそ、あなたを遠ざけようとそんな汚い言葉が口に出たんだと思うよ」

 こう諭されたことで、あの頃の母のどうしようもない苛立ちの源が、ほんの少しだけわかったような気がした。

 携帯電話が鳴ったのは、わたしが結婚して数年が過ぎた頃だった。

 電話の主は父だった。

「史絵か? ママがね……もう限界だ」

 いつもと違う元気のなさが電話の声から伝わってきた。

 わたしの知る父はライオンのお父さんのようにいつも強く、家族を守ってくれるようなひとだった。少々のことでは動じない落ち着きもあった。

 こんなエピソードがある。いつだったか、母が習い事の書道で知り合った年下の男性との間に不貞の噂が立ったことがあった。

 それが相手の奥さんにバレて、烈火のごとく我が家に電話がかかってきたのだが、そんなときも父は取り乱すことなく、

「僕は自分の妻を信じていますよ。あなたがどんなに騒ごうとね。あなたは自分のご主人を信じられないのですか?」

 と静かに、しかし確固とした信念を持って応対をした。このひと言でその女性はぐうの音も出なくなり、引き下がるしかなくなった。それほど父の言葉には重みがあった。

 おかげで母は騒動から解放されることができた。

 わたしはまだ小学生で子供だったので、このときの真相は知らされていない。でもおそらく火のないところに煙は立たず。きっと事実だったのだろう。

 まぁ、いまとなってはどうでもいいような話だ。

 そんな父の弱った声を聞くのは正直ショックだった。

 聞けば薬がどんどん増えてしまって、日に4回も5回も打っているという。もうシラフの時間はないに等しいと。

 彼らふたりの日常に円満な笑いなどはすでになく、たまに交わされるのは、「注射なくなるよ、ちょうだい」という会話だけになっていた。

 父の手元に予備のアンプルがないと知ると、夜中でも少し離れた場所にある医療用倉庫に取りに行けと執拗にせがむそうだ。それを拒むと大騒ぎをし、しまいには父を突き飛ばし手を上げるようにまでなっていた。

 父もこのときには七十歳を過ぎていたから、男とはいえ体力も落ちてきていた。十歳下の母の手加減なしの腕力には悲しくも負けてしまうようになっていた。

 その訴えを聞いて、わたしは自らを強く反省した。わたしは我が家の問題のすべてを見ぬふりをして、年老いた父に押しつけたんだ。

 自分勝手にやりたい仕事に没頭し、一生懸命にやっている気分に酔っていただけで、その裏側では父がたったひとりで地獄の苦悩と闘ってくれていたんだ。

 その結果がこれだ。

 いつかこうなると予期していたはずなのに、わたしはずるさから知らんぷりを決め込んでいたんだ。

 わたしは自分を責める言葉がもう見つからなかった。


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