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【第1章特別公開!】「私はあとどれくらい生きられるのか」を知る方法/スティーブン・ジョンソン最新作『EXTRA LIFE』

 人類はたった100年で寿命を2倍に延ばし、子どもの死亡確率を10分の1未満に減らした。この驚くべき“進化”は、世界各地で起きた一見“地味”なイノベーションの連鎖が起こしたものだ。歴史上に名を残す著名な研究者らの偉業と呼ばれるものは、その一部にすぎない。人類の歴史において、この数百年のなかで最も重要な発展であることは間違いないが、しかし、単純に勝利の物語ととらえてはいけない。人類全体の寿命を延ばすことによって、これからの人類の寿命を脅かしかねない弊害も生じている。

 世界中が不意打ちのようにパンデミックに見舞われ、日々戦禍で奪われていく子どもたちの命を救えないでいる今こそ、私たちの祖先が歴史の中で命を失わないために何をしてきたのかを知るべきではないだろうか。

 歴史を新たな視点でとらえ直した著作で定評のあるスティーブン・ジョンソン氏の最新作『EXTRA LIFE――なぜ100年で寿命が54年も延びたのか』(大田直子訳、原題:EXTRA LIFE――A SHORT HISTORY OF LIVING LONGER)は、それを、私たちに教えてくれる。本書の第1章「『私はあとどれくらい生きられるのか』を知る方法――平均寿命の測定」を特別に公開する。

スティーブン・ジョンソン著『EXTRA LIFE――なぜ100年で寿命が54年も延びたのか』(大田直子訳)
スティーブン・ジョンソン著/大田直子訳
『EXTRA LIFE――なぜ100年で寿命が54年も延びたのか』

■年齢が存在しない民族

 1967年春、ナンシー・ハウエルというハーバード大学で社会学を学ぶ大学院生が、新婚の夫で人類学者のリチャード・リーと、ボストンからローマへ飛んだ。イタリアで数日過ごしたあとナイロビに飛び、そこでリーの研究者仲間と落ちあって、このあたりに住む先住民族であるハヅァ族を訪ねた。二人はそこからヨハネスブルクに飛んで、必需品を買い込み、現地の研究者数人と交流した(※1)。さらにトラックを購入し、独立したばかりのボツワナ共和国まで北上し、新しい首都で食料などを調達したあと、オカバンゴ・デルタに向かって北西に移動。オカバンゴは砂漠に出現する湿地で、雨季の川の氾濫で水が満ちたところだった。彼らはマウンの町で私書箱を借りた。マウンはコンビニやガソリンスタンドのような近代的で便利な施設がある最後の基地だ。そこから未舗装の道路を約240キロ西に行き、カラハリ砂漠の西端にあるノカネンという小さな村に着いた。

 旅のこの時点で6月だったが、オカバンゴ・デルタを水浸しにした南半球の冬の洪水は、カラハリ砂漠の端ではどこにも見当たらない。新婚夫婦はノカネンに拠点をつくり、今後の移動のために十分なガソリンを残して、ナミビア国境に向かって砂漠を真西へと出発。結局、乾燥地帯を100キロほど行くのに八時間かかった(※2)。

 それは過酷な旅であり、ある意味、時間をさかのぼる旅でもあった。8時間の長旅の先にあったのは、カラハリ砂漠には希少な、人間の小さな集落を支えるのに十分な水のある土地だ。広さ26万平方キロほどの不毛で平らな風景に点在する、9個の泉のおかげである。カラハリ砂漠にしてはわりと快適なこの土地は、その泉のひとつの名前にちなんで、ドベ地区と呼ばれることもある。ハウエルとリーが苦難の旅をしたのは、ドベ地区にクン人が住んでいるからである。そこは、現代生活の慣習とテクノロジーすべてから奇跡的にほぼ切り離されてきた、狩猟採集社会である。クン人はそれまでの血なまぐさい数世紀を、ほかのアフリカ社会やヨーロッパ人入植者とほとんど接触することなく、生き延びることができた。ハウエルがのちに述べているように、彼らは「南アフリカのもっと勢力の強い民族が、領地を取り上げることはおろか共有することさえ望まなかったという単純な事実によって(※3)」守られた。

 世界中の現存する狩猟採集社会の多くがそうであるように、クン人も欧米の人類学者に、およそ1万年前に初めて起こった農耕革命より前、ホモサピエンス進化史の大半を決定づけた祖先の環境について、刺激的な手がかりを教えてくれる。リーは1967年より前にすでに数回クン社会を訪ねて、彼らの社会組織、食料生産技術、そしてコミュニティ内で資源を管理し共有する方法を研究していた。リーの研究は、狩猟採集社会についての新しい考え方を提案するのに役立っていた。それは、「自然状態」は「孤独で、貧しく、不快で、野蛮で、短い」という有名なトマス・ホッブズの表現に代表される、昔ながらの見方を揺るがす考え方だ。間近で観察したクン人は、ホッブズが憶測したように、飢餓寸前のつらい生活を何とか生き抜こうと奮闘しているようには見えなかった。周囲の天然資源はわずかなのに、彼らの生活水準は驚くほど高いようだ。必要な栄養を得るための労働時間は週20時間にもおよばない。人類学者のマーシャル・サーリンズは、太平洋上の狩猟採集文化に関する同様の研究にもとづいて、最近、この初期の人間社会組織について再考されたモデルを表わす用語を提案した。「原初の豊かな社会」である。クン人のような部族は、不幸にもあらゆる現代テクノロジーの進歩を享受できず、貧困にあえいでいた人類の過去の姿を象徴してはいない。そうではなく、サーリンズによれば「世界で最も『原始的な』人びとは、所有物はわずかでも貧しくはない」。西洋文明の一般的慣習からすると、クン人はたしかに原始的に見える。トランジスターラジオも洗濯機も多国籍企業もない。しかしもっと基本的な基準─食べ物、家族、人間関係、娯楽─で判断すると、当時の一般通念よりはるかに先進工業国と対等に思われた。

 ナンシー・ハウエルが地球を半周してドベ地区までやって来たのは、生活水準とはちがう種類の測定をするためでもあった。それは人間の生活にとって最も基本的な測定かもしれない。クン人は、初期人類の生活がほんとうに「孤独で、貧しく、不快で、野蛮で、短い」かどうかを判断するのに役立つ有意義な証拠を、少なくともいくつか示していた。しかし人口統計学者としてのハウエルは、とくにホッブズが並べた形容詞のうち、最後のひとつに関心を抱いた。テクノロジーが進んだ社会で生きている人間とくらべて、彼らの人生は正確にどれくらい短いのだろう? 孫の顔を見られるほど長く生きられる可能性はどれくらいなのか? 子どもを失う苦しみを味わったり、出産中に死亡したりする確率はどれくらいなのか? 突き詰めれば、豊かさは余暇、摂取カロリー、個人の自由で測ることができる。しかし、豊かだとされる社会の最も重要な尺度のひとつは、その社会の一員がどれだけ多くの生を─そしてどれだけ少ない死を─経験するか、であることはまちがいない。

 3年の滞在中、ハウエルとリーは果てしなくデータを集めた。親族関係、妊娠、消費カロリーを追いかけたのだ。しかしハウエルにとって最も興味をそそられる─そしてとらえにくい─数字は、科学としての人口統計学の存在を支えるもの、すなわち出生時平均余命だった。

 この数字がとらえにくい理由はいくつかある。クン人は過去の人口について文書記録をつけていなかった。ハウエルに見せられる人口調査データも生命表もない。ハウエルとリーがクン人と過ごしたのはわずか2、3年であり、長期的な人口調査を行って、数十年間の出生と死亡を観察できる時間にはほど遠い。しかし最もやっかいなハードルは、彼らの使う数は大きくても3までであり、それもあって、クン人自身が自分は何歳なのかを知らないという単純な事実だった。クン社会の誰かに何歳かと尋ねても、ぽかんとした顔をされるだけだ。数の概念としての年齢は彼らにとって存在しなかったのだ。

 これはナンシー・ハウエルが夫とともに1967年7月末、ドベにキャンプを設営したときに直面した難題だった。わざわざ歳を数えることなどしない文化で、どうやって平均寿命を計算する?

■世界で初めて平均余命を計算した男

 特定の文化領域で全住民の年齢を記録する慣習は、文字そのものと同じくらい古い。はるか昔の紀元前4000年紀に、バビロニア人が定期的に国勢調査を─おそらく課税目的で─行い、全人口の規模と住民個人の年齢の両方を登録して、データを粘土板に記していたことは、考古学的に証明されている。しかし平均余命という概念は、比較的新しく考案されたものだ。国勢調査のデータは事実の問題である。「この男性は40歳」「この女性は55歳」。それに対して平均余命はまったく別物だ。魔術や逸話や当てずっぽうではなく、しっかりした統計の基礎にもとづいた将来の出来事の予測である。

 初めて平均余命の計算が行われたきっかけは、思いがけないところにあった。1660年代初め、ジョン・グラントという名のイギリス人小間物商がまったくの趣味で、ロンドンの死亡報告を入念に調べて、その結果を『死亡表に関する自然的および政治的諸観察』(『統計学古典選集』所収、栗田書店)というタイトルの小冊子として、1662年に発表した。グラントが人口統計学の正式な教育を受けていなかったことは、けっして意外ではない。人口統計学も保険数理も、当時は正式な学問分野として存在しなかった。それどころかグラントの小冊子こそが両分野を創始する文書だと、広く考えられている。この時代、統計学と確率そのものが揺籃期にあった(事実、「statistics(統計学)」という言葉が考え出されたのは1世紀以上あとのことで、グラントの時代には「政治算術」と呼ばれていた)。しかし、なぜグラント自身が平均余命を計算するという問題に取り組むことにしたのかは、いまだにちょっとした謎である。ひとつの動機は世のため人のためだ。市の死亡報告を詳しく分析すれば、当局にペストの大流行を警告し、隔離所などの公衆衛生面での介入を、たとえ不完全であっても当局が確立できるかもしれない、とグラントは考えたのだ。そう考えたことから、グラントは疫学の父のひとりともいわれている。ただし、サミュエル・ピープスの日記やダニエル・デフォーの史実にもとづく小説『ペスト』での描写で有名な、3年後の1665年に起こった悲惨な大疫病を防ぐのに、彼のこの小冊子はほとんど役に立たなかった。

 グラントは小間物商が本業だったが、素人なりに人口統計学に興味を抱いたころには、実業家として成功して人脈も広げ、ドレーパーズ・カンパニーという国際貿易会社の役員になっていた。いくつかの市の評議会のメンバーとなり、ピープスだけでなく、博識な外科医で音楽家でもあったウィリアム・ペティとも交流した。ペティは『政治算術』(岩波書店)を含め、数多くの政治経済および統計学に関する名著を上梓している(この時期の学者のごく一部は、『死亡表に関する自然的および政治的諸観察』を書いたのはグラントでなくペティだと信じている)。前書きによると、グラントがこのプロジェクトを最初に思いついたのは、ロンドン市民の「死亡表」の読み方を長年にわたって観察した結果だったという。死亡表は1600年代初め以降、教会書記組合によってきちんと集められ、週に一度発表されていた、市全域の死亡者に関する目録だ。グラントによると、読者は「『埋葬式』がどれだけ増えたか、または減ったか、そしてその週の『犠牲者』にはどんな珍しいことや異常なことが起こったかなど、最終結果を見る以外はほとんど利用していなかった。次の集まりで話のネタにする聖書の一節と同じ扱いなのだろう(※5)」。ロンドン市民は死亡表の大見出しを走り読みする(今週は何人死んだ? 興味深い新しい病気が広がっている?)。何か目にとまるような情報を見つけたならば、それを気軽にビールを飲みながら友人に伝えるかもしれない。しかしわざわざ死亡表を、各週の死亡者数のランダムな変動だけでなく、もっと広い真実を示唆できるデータとして、体系的に調べる人はいなかった。

 グラントの作業は、このように死亡表が軽んじられてきた過去から根本的に脱却することを意図していた。彼はデータを浅はかなゴシップのネタとしてではなく、ロンドン住民全体の健康にまつわる仮説を検証する方法として、さらには、そのコミュニティにおける長期的な傾向を理解する方法として、利用していたのだ。彼の調査は、いくつかの死亡表を自分なりに熟読することから始まった。そうすることで市民の健康について、グラントがのちに「思いつき、私見、憶測」呼んだものがいくつか生まれた。最初に感じた一連の疑問に触発され、彼は何カ月ものあいだ、サザック橋の北のブロード・レーンにあった教会書記会館を訪れ、調査のためにできるかぎりたくさんの死亡表を手に入れた。表計算ソフトはおろか計算器さえ発明されていない時代に、骨の折れるデータ集計を行って、グラントは小冊子の核となる10あまりの表を作成している。手始めは現代医学の中心となる疑問のひとつ、母集団内の死因の分布はどうなっているのか? この疑問に答えるために、彼は二つの表を作成した。ひとつは「悪名高い病気」、もうひとつは「犠牲者」。どちらの表も、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの有名な「中国の百科事典」に似ていて、現代人にはこっけいに思われる多様な分類が混在している。「悪名高い病気」のリストは図表1のとおり(※6)。「犠牲者」の表には、現代の人口統計学者におなじみのさまざまな原因─たとえば86人の殺人─も見られるが、驚くような死因もある。グラントの報告では、調査した279人が「悲嘆」でなくなり、26人が「恐怖」で死亡したという。

図表1 悪名高い病気(DESIGN WORKSHOP JIN 遠藤陽一制作)

 とはいえ、最も重要な表に組み込まれているのは、グラントが「急性の伝染病」と呼ぶもの、すなわち天然痘、ペスト、はしか、結核である。一定期間の総死者数を計算し、その総数を病気ごとに分けることで、グラントは─初めて─特定の原因で死ぬがどれくらいなのか、という疑問への答えを提案することができた。死亡表は単純に死亡の目録であり、命が失われるという個人の悲劇以上の意味をもたない事実だった。グラントの表はその事実を取り上げ、それを確率に変えて、公衆衛生にとっての大きな脅威は何であるかについて、当局に実際に役立つ概要を示し、彼らがそうした脅威と闘い、より効果的に優先順位をつけることを可能にする見識を与えたのである。

 しかしグラントが導入した最も画期的な統計学的手法は、「住民の数」というタイトルの章に見られる。グラントはその章でまず、「当市の優秀な先輩たち」と交わした多様な会話に言及している。彼らは市の全人口は数百万にちがいないと言った。グラントは自分の死亡報告の研究から、その数字はかなり誇張されているはずだと、正しく認識していた(人口200万人の都市なら、死亡表に記録されているよりはるかにたくさんの死者がいただろう)。あれこれ回りくどい計算をした結果、グラントが提示したのは、はるかに低い数字、38万4000人だった。グラント自身、その数字の出し方は「おそらくあまりに適当」だったと考えたが、彼が最初に発表して以降、その計算は説得力を失っていない。現代の歴史学者もこの時代のロンドンの人口を40万前後だったと推定している(※7)。

 この総人口というきわめて重要な分母を武器に、グラントはそのあと、死亡表の別の主要素を新しい角度から検討することができた。それは死亡時の年齢である。彼は記録された死亡のデータ全体を、9つに区分した。6歳の誕生日の前に死亡した者、6歳から16歳の誕生日のあいだに死亡した者、16歳と26歳の誕生日のあいだ、という具合で86歳までの区分だ。このやり方で死亡を区分することで、人口における年齢別の死亡者分布を計算できる。そしてグラントの報告によると、ロンドンで生まれた100人当たり36人が6歳の誕生日の前に死亡している。現代の用語を使えば、子どもの死亡率は36パーセントだったのだ。

 グラントの「生命表」全体は厳しい現実を突きつけた。ロンドンの人口のうち生き延びて青年期を過ぎるのは半分以下、60歳台まで生き残るのは6パーセントに満たない。グラントは次の段階に進んで、生命表をひとつの数字にまとめることまではできなかった。その数字とは、私たちが現在、おそらく最も根本的な公衆衛生の評価基準として使っている数字、出生時平均余命だ。しかし、グラントが表に集めたデータにもとづいて計算することができる。グラントの報告をもとにすると、1660年代半ばにロンドンで生まれた赤ん坊の平均寿命は、たった17年半だった。

■クン人の年齢を割り出す

 ナンシー・ハウエルが1967年半ばにドベ地区に到着し、クン人の健康と寿命についての調査を始めたとき、そのような研究を試みるのに、ジョン・グラントとくらべていくつか決定的な強みがあった。300年にわたる統計学と人口学の進歩を意のままに利用できたのだ。グラントの時代以降、人口統計学者が出生時平均余命だけでなく、きわめて重要なほかの年齢の平均余命も計算するために、さまざまなツールが開発された。一方、ハウエルが利用できたのはたんなる概念的ツールだけではない。数字を高速処理するデータ入力システムと計算機があり、クン人を撮影するためのカメラもあった。これは記録のために彼らを識別し、1960年代前半に完了していた研究と結びつけるのに役立った。クン人へのインタビューを記録するテープレコーダーもあった。最終的には、クン人の経時的な人口変動をシミュレーションするためのソフトウェアプログラム─AMBUSH─まで開発するつもりだった。 こうした強みはあっても、実際的な人口調査を行うにあたって、ハウエルは面倒な難題に直面していた。クン人には、年数で測定される数字カテゴリーとしての年齢の概念がないという、どうしようもない事実だ。見た目にもとづいて年齢のおおよその測定をすることさえ難しかった。結果的に60代だとわかったクン人の多くは、西洋人の目にははるかに若く見えた。活動的なライフスタイルと、狩猟採集社会に特有の食事のおかげだ。おまけに、頼りになる死亡表はなく、それどころか文書記録はいっさいない。ハウエルは、3より大きい数字を使う必要を見いだしていない文化で、どうにかして教会書記の仕事をやらなくてはならなかった。

 1967年9月にハウエルがその課題を前もって検討したとき、見通しは悲観的だったうえに、その季節のカラハリ砂漠の気候のせいで、さらに状況は悪化した。雨は数カ月前にやみ、日中の気温はつねに43度を超え、ほとんどの一時的水源は干上がっていた。

 しかしハウエルは、そうしたカラハリ砂漠の乾期の厳しい条件を、逆手にとることができた。年末近くに再び雨が降り始めるまで一時的水源が使えないので、クン人たちは地区の特徴である重要な泉の周囲に集まる。ハウエルと夫は、それぞれの泉を中心とする小さな村を頻繁に訪れた。体重用の秤と身長用の物差しと一袋のタバコを携えて到着する。2人の学者はタバコを少しずつ配って、村人の体重と身長を記録する非公式の測定会を催したのだ。ハウエルはのちに、クン人はその訪問を心待ちにしていたと書いている。「タバコをもらえるし、日課を休んで、木陰に2、3時間すわり、冗談を言ったりほかの人が測定されるのを見物したりして過ごすことができるからだ。さらにその訪問は、集落についての何気ない情報やニュースをたくさん集める、いい機会にもなった(※8)」

 測定会は体重と身長の計算には成功したが、ハウエルが最も興味を抱いていた測定の単位─年齢─は、それほどうまくつかめなかった。最終的にハウエルがクン人一人ひとりの年齢の、そこそこ正確な査定値を計算できたのは、数字ではなく文法を用いた作戦の成果だ。クン人は年齢を数えていなかったが、きめ細かな年齢の観念はあった。どの村人が自分より年上で、どの村人が年下かを十分に認識していたのだ(※9)。その年齢差は、彼らの話し言葉に反映された。フランス語やスペイン語のようなインドヨーロッパ言語の多くが、直接呼びかける言葉でフォーマルとインフォーマルな関係を区別する(フランス語では「vous」と「tu」の差異)のと同じように、クン人の言語にもそれに相当する、年長者と若年者を区別する文法的な差がある。実際、クン人が「食事の準備を手伝ってくれませんか?」というふうに言うとき、若年者に対する文法では、その疑問文の実際の意味は「若い人、食事の準備を手伝ってくれ」になる。

 結局、その小さな構文の区別が、クン人の平均余命事件を解決する十分な手がかりになった。リーは1963年にその地区を訪問しており、その記録にもとづいて、すでにドベの人口についておおよその調査をしていた。以前の訪問期間中に誕生を自分で観察したことから、彼は幼い子どもたちの年齢をかなり正確に確定できた。たとえば、1963年によちよち歩きの幼児だとリーが把握していた子どもは、1967年には6歳か7歳と確実に判定できる。そのおかげでハウエルにとって調査を構築するための土台ができた。彼女はその6歳児が友だちと何気なく会話をするのを聞いて、その友だちのうち、どの子が年下として呼びかけられ、どの子が年上として呼びかけられるのかを認識できる。彼女はクン人の出産適齢期以上の女性165人に直接インタビューすることによって、そのデータを補完した。インタビューでは妊娠についての細かい経歴を記録した。妊娠、流産、中絶、死産、無事な出産、という具合だ。たいてい1年か2年間隔で起こる出来事なので、年表にすることもできる。ある母親が2年前に流産し、その2年前に娘が生まれたと報告するなら、娘は4歳ということになる。この家族と社会の入り組んだつながりを追いかけることによって、ハウエルは一種のヒエラルキーを構築することができた。年齢で整理された全住民のランク一覧だ。年齢が極端に高くなると人数が少なくなるので、正確な年齢ははっきりしなくなる。70代が2人しかいなければ、一方が他方より年上だとわかるだけで、どちらかが何歳かを正確に知ることは難しい。しかし、クン人の平均余命の全体像にだいぶ近づいた。

 分析するうちに、クン人の出生時平均余命は、この数百年で向上したことがはっきりわかった。狩猟採集文化に浸透しつつある近代的な医療制度の影響だろう。ハウエルは最終的に、もっと上の世代の平均寿命は30年だったが、1960年代末にクン社会に生まれる子どもは平均で35年生きると期待できる、と主張するにいたった。現代の基準では短く思えるが、実際にはクン人の多くが、1960年代末の先進国でも長いと考えられる寿命を享受していた。著書の一冊でハウエルは、カセ・ツィソイという年長者について記述している。1968年にハウエルがインタビューして写真を撮影したとき、82歳だった(※10)。いまだにとてもたくましく、自分の食べるものを採集したり、長い距離を徒歩で移動したりすることができる。ハウエルが初めて彼と出会ったとき、彼は新しい開拓地に自分の小屋を建てているところだった。

 クン人の平均寿命を引き下げている最大の要因は、赤ん坊と子どもの死亡率が相対的に高いことだった。300年前にグラントがロンドンで観察した死亡率と、それほど変わらない。10人に2人の子どもが、生まれてから数カ月を生き延びることができず、さらに10パーセントが10歳の誕生日を迎える前に死亡する。それでも、平均寿命が35年の社会にしては予想外に、大勢の祖父母や曾祖父母がいる。クン文化では、青年期を乗り切れば60年以上生きるチャンスは十分にある。問題は、60代まで生き延びるということは、そのあいだに複数の子どもや孫の死を経験する可能性が高いということだ。クン人にとって、子ども時代の試練を乗り切れば、年をとるのはそれほど難しくなかった。

■兄の寿命を予測した理由

 死亡表を分析したジョン・グラントの小冊子は大成功だった。小間物商が名誉ある王立協会に加わるよう誘われ、彼の小論のコピーは、数学志向のヨーロッパ人や設立まもない公衆衛生当局に広く配布された(グラントの統計分析に触発されて、パリは1697年に独自の死亡表を導入している)。確率論は17世紀半ばには始まったばかりで、特定の出来事が起こる可能性を確かめるのに数学を使うという考えは、グラントが初めて教会書記のデータセットを調査し始めたときには、まさに斬新な概念だった。皮肉なことに、グラントは生と死という存在にかかわる疑問に取り組んでいたが、その時点まで確率について行われた重要な研究の目的はほぼすべて、はるかに軽薄な疑問の解決に向けられていた。さいころやトランプのようなゲームでの勝ち方である。グラントの表は、この新たな数学的ツールの新しい使い道を提案したわけだ。さいころゲームのリスクとチャンスを正確に評価できれば、こうしたツールを使って、人生というゲームについても同じことができるのでは?

 正真正銘の平均寿命の算定値が初めて登場したのは、1669年、オランダ人博学者のクリスティアーン・ホイヘンスと弟のローデウェイクが交わした一連の書簡だった。クリスティアーンは当時最も有力で聡明な科学者のひとりだった。天文学者として土星の輪を研究し、土星の衛星タイタンを初めて観測。光の波動説を提唱し、振り子時計も発明し、さらには確率論について16ページにわたる画期的な論文を発表した。「運で決まるゲームの計算について」というタイトルで、きわめて重要な「期待利得」の概念をこの分野に導入した。いまや世界中のあらゆるカジノビジネスの礎となっている原理だ。この研究を知って、王立協会の会長は発表されたばかりのグラントの論文をクリスティアーンに送ったが、平均余命計算を最初に提案したのは、この優れた科学者の弟、ローデウェイクだった。

 この問題にローデウェイクが関心をもった理由は金融学にあった。数学を用いて平均余命を確実に算定できれば、黎明期にある保険業が、終身年金保険の保険料をもっと効果的にはじき出せると気づいていた。恩給とよく似た終身年金は、典型的な生命保険と逆である。年金はあなたが生きているかぎり、定期分割払いで支払われる。保険会社の純粋に欲得ずくの観点からすると、若くして亡くなる顧客のほうが、予想より長く生きる顧客より利益になる(ふつうの生命保険では誘因が逆である)。しかし、どちらの保険の保険料設定も、予想寿命を測定できるかどうかにかかっていた。平均的な人が60歳まで生きる社会では、35歳や17歳までしか生きられない社会にくらべて、終身年金の保険料をかなり高く設定する必要があるだろう。そして、全体の出生時平均余命を計算するだけでなく、個々人の年齢からその人の予想余命をはじき出すことが、とくに有益である。保険会社は終身年金保険に入ろうとしている人が20歳の場合は、40歳の場合より、いくら多く請求するべきなのか?

 1669年8月22日付けの手紙で、ローデウェイクは数週間前から始めた妙な趣味について、兄にこう書いている。「年齢といえば、最近、あらゆる年齢の人があとどれくらい生きるかを表にした」。彼の表の基礎は、グラントが小冊子でまとめた元のデータセットだった。この成果に対するローデウェイクの自負が、手紙にはっきり表われている。「それによって生じる価値はとても喜ばしく……終身年金保険の組み立てに役立つだろう」。そして兄の注意を確実に引く発見にも触れている。「私の計算によると、兄さんはだいたい56歳まで生きる。私は55歳までだ(※11)」

 クリスティアーンは返事で弟の計算に対する修正を提案し、グラントのデータを示す独創的なグラフまでスケッチした。現在、生存関数と呼ばれているもので算出されたデータの、知られているかぎり最初の例である。いま読むと、そのやり取りに兄弟間の対抗意識を感じずにはいられない。ローデウェイクはまちがいなく、自分より成功している兄を感心させようとがんばっているし、クリスティアーンは自分が訂正することで、それとなく弟の成果をけなしている(この種の活動をホイヘンス兄弟が余暇で楽しんでいるように見えることにも、驚きを禁じえない)。1669年の晩夏に兄弟間で交わされた手紙は、当初、王立協会のような権威ある組織から絶賛されることはなかった。しかし現在その手紙は、大昔から問われてきた疑問が解明されようとする転機として高く評価されている。その疑問とは「私はあとどれくらい生きられるのか?」ということだ。

■35年という天井

 ローデウェイク・ホイヘンスの予測は悲観的すぎたことが判明している。クリスティアーンはローデウェイクの計算が予測したより10年長く生き、ローデウェイク自身は68歳まで生きた。しかしそれは確率であって、予言ではない。ローデウェイクの計算─そしてそこから出現した平均余命の概念─は、大勢の個人の命がひしめく無秩序な集合を、安定した平均値にまとめ上げたのだ。その分析から、あなたが実際にどれくらい長く生きるかはわからないが、あなたを取り囲むコミュニティの出生と死亡のパターンを考慮すると、あなたがどれくらい長く生きると合理的に期待できるかはわかる。二つの社会の健康記録全体をくらべたり、一つのコミュニティの経時的変化を追いかけたりすることが、初めて可能になったのだ。

 ジョン・グラントの表もまた、それなりに悲観的すぎた。1970年代、アンソニー・リグリーという歴史人口学者が、16世紀半ばまでさかのぼって、イギリスの教会記録の膨大なデータベースを整理した。その古文書からリグリーと共同研究者は、ルネッサンス期の末から産業革命半ばまでのイギリス人の平均余命を計算し、17世紀のロンドンの出生時平均余命が35年弱だったことを明らかにした(※12)(とりわけ死亡率の高かった1665~66年の「大疫病」のようなペストの大流行中、平均寿命はグラントの表が示唆した17年という数字近くまで一時的に落ちたかもしれない)。その一方、ナンシー・ハウエルによる狩猟採集民の寿命の分析は、おおむね後続調査によって裏づけられている。大勢の学者が、農耕以前の人間の集落から出た化石を分析し、15歳前に死亡した人間の骨格にある歯の抜けた跡と永久歯から年齢を推定し、骨の衰えなどの手がかりを分析して、村の年長者の死亡年齢を算定した。ハウエルのように現存する狩猟採集民族を調べた研究や、古代の人間の化石を調べる考古学的科学調査から、狩猟採集民だった祖先はだいたい平均寿命が30年から35年のどこかで、子どもの死亡率は30パーセントを超えていたと考えられている。

 グラントとホイヘンスは当時知るよしもなかったが、彼らの最初の平均余命推定値は、啓蒙運動が始まりかけたヨーロッパ文化における重大事を明らかにしただけではない。1万年にわたる人間の文明全体にかかわる重要なことも明らかにしている。ただしそれは、ナンシー・ハウエルのような研究者が20世紀後半に狩猟採集社会の平均寿命を計算するようになってようやく、きちんと理解されるようになった。旧石器時代の祖先は、ジョン・グラントが生まれた時代の文明の成果に、とまどったり、うっとりしたりするだろう。40万人が住む都市は、印刷機によってニュースと情報を共有し、死亡率と金融取引を英数字コードで計算し、宮殿や橋や大聖堂を設計している─すべて農耕以降の人間による華々しい勝利だ。しかしこうした勝利とは対照的に、存在にかかわる疑問─「私はあとどれくらい生きられるのか?」─に対する答えは、グラントの時代のロンドンに瞬間移動させられた狩猟採集民にとって、驚くほどなじみ深いだろう。平均すると人が生存できるのは30代初めまでだったが、人口のかなりの割合がそれよりはるかに長く生きた(グラント自身は53歳で死亡している)。そして人口の約3分の1は、狩猟採集社会でも17世紀のロンドンでも、大人になる前に死亡していた。

 トマス・ホッブズが自然状態を「不快で、野蛮で、短い」と切り捨てたのは、グラントが死亡表を調べ始めるほんの2、3年前だった。しかしグラントが誘発した人口学と統計学の革命─最終的に1960年代後半にナンシー・ハウエルをクン人との数年間の生活に導いたもの─によって、やがて、ホッブズによるこの有名な3つの形容詞のうち少なくとも1つは誤りであることがわかった。農耕以前の人間の生活が不快で野蛮だったかどうかはさておき、彼らの人生がホッブズの時代の基準でも、けっして短くないことはたしかなのだ。

 ときとともにホモサピエンスの健康に対する視野が広がったおかげで、厳しい現実が突きつけられた。ホモサピエンスはさまざまな功績をなしとげたにもかかわらず、子どもの3分の1が大人にならずに死亡しており、平均寿命35年という長く続く「天井」の下に閉じ込められたままだったのだ。人間は1万年のあいだに農業、火薬、複式簿記、絵画の遠近法を発明した─が、こうした人間の集合知のまぎれもない進歩をもってしても、ある重要な分野では目立った変化を起こせなかった。これほどの発明をやってのけたにもかかわらず、死を避けることについてはいっこうに進歩がなかったのだ。

■英国貴族の驚くべき平均寿命

 グラントの小冊子発行から1世紀のあいだ、ヨーロッパ人口の健康状態は、数千年紀にわたって続いていたパターンをたどり続け、平均寿命は異例の豊作によって押し上げられたり、天然痘の大流行や厳しい冬によって引き下げられたりしながらも、35年あたりをうろうろしていた。地球規模で見ると、奴隷貿易の増大と、ヨーロッパで発生してアメリカ大陸に持ち込まれた病気による悲惨な影響のせいで、平均寿命はほぼ確実に縮小した。しかし当のヨーロッパでは、データに一定の傾向はなく、ただ旧石器時代から定位置にある「天井」あたりを、見たところ不規則に変動するだけだった。

 イギリスでこの天井が崩れるかもしれない最初のきざしが現われたのは、18世紀半ば、啓蒙運動と産業化という双子のエンジンがパワーを増し始めたのと同じ時期だった。変化は当初微妙で、同時代の観察者だけでなく、変化そのものを経験している人でさえも、気づくことはほぼ不可能だった。それどころか、この変化が正しく記録されたのは1960年代に入ってからのことだ。人口動態史学者のT・H・ホリングスワースが、紋章院【訳注:紋章と系譜を管理するイギリスの機関】および出版社のバーク社とデブレット社に保管されていた、出生と死亡の正確な記録を分析し始めたのだ。この記録は人口の測定としてはグラントのものよりはるかに範囲が狭く、イギリスの人口のうち、とりわけ興味深いがきわめて小さな集団だけを追いかけている。すなわち、イギリスの貴族階級だ。ホリングスワースは、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵─とその子どもたち─について、1500年代末から1930年代までのデータを明らかにした。そしてそのデータすべてを平均寿命の動向のグラフにまとめると、驚きのパターンが浮かび上がった(※13)(図表2)。横ばい状態が2世紀続いたあと、1750年ごろ、イギリス貴族の平均寿命は毎年安定した割合で延び始め、上流階級とその他の人びとのあいだに大きな差が生まれたのだ。1770年代には、イギリスの貴族は平均で40代まで生きていた。さらに19世紀の幕開けには55年の境を越え、ビクトリア朝時代半ばまでに平均寿命は60年に近づいていたのだ。

図表2 イギリス人の出生時平均余命(1550~1840年)(朝日新聞メディアプロダクション制作)

 世界人口が数億人を数えていた時代に、イギリス貴族が人類に占める割合は無視できるほど小さかった。しかし彼らが経験した人口動態の変化は、結果的には将来起こりうることの片鱗だったのである。このとき私たちの知るかぎり史上初めて、人間の有意な母集団で、平均寿命が着実かつ持続的に延び始めた。それまで1万年間続いていた果てしない小刻みな上下の波線が、新しい形に、すなわち右肩上がりの直線になったのだ(※14)。

 イギリス貴族の平均寿命が上昇していった現象は、別の理由でも注目に値した。そのあと数世紀で、世界の大半にとって避けられない現実となったパターンの始まりだったのだ。それは、異なる社会間、あるいは同じ社会内の異なる社会経済集団間の、重大な健康格差である。ジョン・グラントの時代には、男爵、小間物商、狩猟採集民のどれに生まれるかは問題ではなかった。いずれにせよ出生時平均余命は35年程度だ。主要大都市の中心で上流家庭に生まれれば、芸術品や快適な住まいや豊富な食べ物といった、文明の象徴をたくさん楽しむチャンスに恵まれるだろう。しかしそうした富のすべてをもってしても、自身と家族の寿命を延ばすという初歩的課題においては、同時代に生きるそれほど裕福でない人びとより優位に立つことはできなかった(妙なことだが、実際には少し不利だったかもしれない─この矛盾についてはあとで探る)。健康状態は人によって大きな差があった。大勢が生後8日で死亡するが、8歳まで生きる者もいる。しかし大枠の社会集団間で、寿命の格差─勾配と呼ばれることもある─が生じることはなかった。それが18世紀後半までに変化することになる。健康の格差が富の格差と並行して現われ始めたのだ。イギリス貴族で初めて目立つようになった傾向である。貴族の出生時平均余命は1世紀で30年も延びたが、労働者階級は1662年に書かれたグラントの表にあるような状況のままだった。

 19世紀後半までに、どちらのパターンも、イギリス諸島のその小さな前衛部隊から広がり、世界中に進んでいった。右肩上がりの直線は、貴族階級だけでなく、一般のヨーロッパ人と北アメリカ人の平均寿命も表わすようになった。1910年までに、イギリスとアメリカの全体的な平均寿命は50年を超えた。先進工業国の何千万という人びとの健康の動向が、これまでなかった好循環に入り、ホモサピエンスの寿命を抑えてきた天井をとうとう打ち破ったのだ。しかし同時に、歴史学者でノーベル賞経済学者のアンガス・ディートンが「大脱出」と呼ぶその出来事は、先進工業国とその他の国々のあいだに、悲劇的な勾配を生み出すことになった。発展途上世界の社会は、西洋の帝国主義に食いものにされ、ヨーロッパの病気によって壊滅させられ、ヨーロッパと北アメリカで形になりつつあった初期の公衆衛生制度に助けられることもなく、先進国の右肩上がりに加わることができなかっただけではない─ほとんどが後退したのだ。アフリカ、インド、南アメリカ各地の平均寿命は30年を下回った。「世紀半ばごろに生まれたインド人の幼少期の死は、歴史上、新石器革命やその前の狩猟採集民までさかのぼって、どんな集団にも負けない深刻さだった」とディートンは書いている(※15)。どこで生まれたか、どの社会経済集団に生まれたかという人生の巡り合わせが、幼児期の危険な数年を生き延びるかどうか、孫に会えるくらいまで長く生きられるかどうかに、大きく影響するようになった。20世紀初め、世界の富裕国では健康状態のまぎれもない向上が実現していた。しかしその向上は持続可能だったのか? そしてその向上という実りを世界のほかの地域と共有できたのか?

 こうした疑問に答えるには、天井を破った大脱出において、平均余命の最初の上昇を促したものが何かを理解する必要があった。なぜ西洋人は長生きしていたのか? なぜ彼らの子どもたちはそれほど悲惨な割合で死ななくなったのだろう? この疑問には、歴史的意味と実際的な意味の両方があった。ヨーロッパとアメリカの健康状態を改善させていたものを突き止められれば、おそらく、そうした介入を世界のほかの地域に広められるだろう。しかし、平均寿命が初めて持続的に延びたことは、結局、予想されるほど明快に説明できることではないとわかった。社会全体の健康改善を医師、病院、薬といった当時の医療のおかげだとするのは一見、論理的だ。しかしその想定は、自明のようで、実は誤りだった。薬がこの時期に何らかの働きをしていたとしたら、命を延ばすことではなく、縮めることだったのだ。

■『英国万歳!』の真相

 1988年の晩夏、イギリス国王ジョージ3世とお供の者たちが、ロンドン郊外のキュー地区にある王室領地にもどった。それまで2カ月間、チェルテナムで「鉱泉につかって」過ごしていた。国王にとって30年ぶりの純粋な休暇だ。ジョージ3世は痛みをともなうけいれんが8時間も続いていると訴え、そのあとのこの田園生活は治療と考えられていた。田舎暮らしはたしかに王の体調に好影響を与えたようだが、ロンドンにもどってすぐ、彼はさらなる痛みに襲われ始めた。医師のジョージ・ベイカー卿は、日誌にこう書いている。「王がベッドのなかで起き上がり、前かがみになっているのを見つけた。彼はみぞおちに激しい痛みがあって、それが背中と脇腹にまで走り、呼吸が苦しいと訴えた」(※16)。ベイカーは2種類の一般的な通じ薬、ヒマシ油とセンナを処方したが、その後、その服用は極端すぎだったかと心配になり、アヘンを混ぜたチンキを少し注入して、効力を弱めようとした。だが投薬はほとんど効果がなかった。数日のうちに、計画されていたウインザー城への帰還は延期され、国王の通常のお出ましスケジュールはキャンセルされた。

 1788年10月に起きたジョージ3世のけいれんは、歴史上とくに有名な病気の第一波だと判明することになる。身体的症状より精神的症状がよく知られている病気だ。現代のすばらしい法医学的調査のおかげで、「狂王」ジョージの物語は、大脱出の胎動期の医療がいかに無能だったかをはっきり立証している。数カ月にわたって、国王は全面的な錯乱状態におちいった。口から泡を吹き、発作的に激怒し、論理も一貫性もない言葉を際限なくまくし立てる。この出来事は憲政の危機を引き起こし、のちに戯曲化されて舞台や長編映画の『英国万歳!』になった。興味深いことに、ジョージ三世が最初に示した真の精神障害の症状は、ベイカーに向けられた処方薬についての不満の爆発として顕れた。日誌にベイカーは国王の振る舞いに対するショックを綴っている。「彼の目つき、声音、あらゆる仕草、立ち居振る舞いすべてが、怒りの絶頂にいる人そのものだ。王いわく、ひとつの薬は強すぎたし、別の薬は気分が悪くなるだけで効果はなかった。センナの輸入は禁じられるべきで、将来的に王族にはけっして服用させてはならないという命令を発することになるだろう」。非難の演説は3時間続いた。それがついに終わったとき、ベイカーは首相のウィリアム・ピットに手紙を書き、国王は「譫せん妄もうにきわめて近い精神的興奮」の状態にあると報告した(※17)。

 医学史学者は、ジョージ王の病気の原因についてずっと議論してきた。1960年代末以降、ジョージ3世は異型ポルフィリン症と呼ばれる遺伝性疾患をわずらっていたということで、ほぼ意見が一致していた。不安と幻覚だけでなく腹痛も引き起こす可能性のある病気だ(この遺伝病は実際ヨーロッパの王族に広まっていることで知られており、これもまた、近親者との結婚を忌避する論拠である)。1788年冬の国王の異常な行動は、双極性障害の結果だと主張する学者もいる。しかし最近の法医学的研究は、医師の治療に対するジョージ3世の怒りには、ある程度正当な理由があったことを示唆している。2000年代初め、ティモシー・コックスというケンブリッジ大学の代謝内科医が率いる研究チームが、1世紀近くウェルカム・トラストの保管所に保管されていたジョージ3世の一房の髪を分析した。以前、PPOXと呼ばれる遺伝子の存在を検証するために、髪のサンプルからDNAを抽出しようとした試みが失敗したことを、コックスらは知っていた(ポルフィリン症はPPOX遺伝子の機能不全によって引き起こされる)。そこで彼らは、王の病気を悪化させた可能性のある重金属の存在を探して、DNAらせん構造を分析した。その結果は驚きだ。髪のヒ素濃度がヒ素中毒の標準的な閾値いきち17倍だったのだ。コックスらは、問題の期間に書かれた侍医の公的記録を分析して、ジョージ3世に投与された主要な合成物は、吐酒石としゅせきと呼ばれる当時一般的な治療薬で、2から5パーセントのヒ素が含まれていたことを明らかにした。侍医の報告に記録されている用量が正しいとしたら、ジョージ3世の譫妄と腹痛に対する「治療」は、慢性のヒ素中毒を起こさせることだったようだ(※18)。

 一族に伝わるポルフィリン症の遺伝的問題を考えると、ジョージ3世が統治時代に心の健康上の問題を経験したことは意外ではないはずだ。それよりはるかに意外なのは、彼がこの治療の試みを乗り越えて生き続けたことだ。

■やぶ医者の「英雄的医療」

 1960年代初め、人口動態史学者のT・H・ホリングスワースがイギリス貴族の平均寿命の分析を公表したとき、彼は芽生えたばかりの大脱出の片鱗を初めて示していた。乳幼児期を生き延び、60歳以上まで生きている公爵や男爵は、2世紀後に全世界を巻き込むことになる健康動向の前触れだった。しかしホリングスワースの研究には妙な補足説明がある。初の大脱出を表わす元のグラフを見てほしい(図表3)。これにはその前の2世紀も含まれている(※19)。

図表3 イギリス人の出生時平均余命(1720~1840年)(朝日新聞メディアプロダクション制作) 

 上流階級が庶民より長生きし始める前の1世紀は、平均的な貴族の寿命は平均的な庶民よりもわずかに短いのだ。その差は、1700年代後半に急速に開いた差ほど目立たず、2つの集団の差はほんの2、3年だが、一貫していて統計的に有意である。これは不可解な発見だった。豊かさ、社会的地位、教育のメリットすべてが、平均寿命に関するかぎりは、最終的なをもたらしたのだ。イギリスの貴族を庶民より高い率で死なせる何かがあった。しかしそれは何だったのだろう?

 この不可解な格差の原因として最も説得力のある説明は、にわかには信じがたい。それはイギリスの貴族が庶民よりも医療を利用しやすかったことなのだ。彼らは好きなだけ内科医や外科医や薬剤師に相談する余裕があった。ところが医術があまりにひどいありさまだったので、そうした介入は実際には効果より害のほうが大きかった。

もし不運にも風邪を引くとか、ポルフィリン症を引き起こす遺伝病をもって生まれたのなら、医者にはまったくかからないほうがいい。ヒ素やヒルによるいんちき治療を求めるよりも、体の免疫系を機能させるほうがいいのだ。

 こうしたやぶ医者の治療はイギリス貴族にかぎられたことではない。ジョージ3世の宿敵、ジョージ・ワシントンの最期を考えてほしい。抗生物質の発明にまつわるウィリアム・ローゼンの歴史本に語られているのは、拷問のマニュアルとまちがえそうな説明である。

 日が昇るころまでに、ワシントンの世話係のジョージ・ローリンズは……ワシントンの腕の静脈を切開し、そこから主人の血液を355ミリリットルほど排出させた。そのあと10時間にわたって、ほかの2人の医師─ジェームズ・クレイク医師とエリシャ・ディック医師─が4回もワシントンを瀉血しゃけつし、さらに3000ミリリットルを抜き取った。しかし、ワシントンの医師によって用いられた治療法は、患者の総血液供給量の60パーセント以上を抜き取ることだけではない。元大統領の首は、蜜蠟と牛脂に昆虫の分泌物からつくられた刺激薬を混ぜた軟膏剤で覆われている。非常に強力なので水ぶくれができ、その水ぶくれを切開して排液する。どうやら、それで病気を引き起こす毒を取り除けると信じていたようだ。彼は糖蜜と酢とバターの混合物でうがいをし、脚と足にふすまを湿布され、浣腸をされた。さらには大事を取って、医師はワシントンに下剤として甘汞かんこう─塩化第一水銀─を与えた。当然のことながら、こうした治療の試みはどれもうまくいかなかった(※20)。

 現在、学者はこの時期を「英雄的医療」の時代と呼んでいる─大がかりな計画と大胆な介入があふれていたが、それらは明らかに百害あって一利なしだ。たとえば死に際のワシントンに用いられた軟膏剤や湿布のように、たんなる愚行とわかった介入もある。しかし多くは医療ミスで訴えられて当然の施術だ。病人の血を抜き取ることは、死を早めるも同然である。水銀とヒ素は人を殺すか、気を狂わせて精神病に追い込むおそれがある。これから見ていくように、英雄的医療の時代は現代人が思うよりはるかに長く続いた。第1次世界大戦が始まったときでさえ、ジョンズ・ホプキンス大学の創立者ウィリアム・オスラーは、インフルエンザなどの病気にかかった軍人に、1次介入として瀉血を提唱していた。「かなり激しくて高熱をともなう病気にかかった頑強で健康な人に、最初に瀉血をすることは、よい処置だと私は考えている(※21)」

■感染症を減らした医療以外の何か

 工業化時代の医科学と平均寿命のつながりに初めて挑んだ学者は、イギリス系カナダ人の博学者トーマス・マキューンである。1930年代末、ヨーロッパ全土で戦争が勃発していたころ、マキューンはローズ奨学制度でオックスフォード大学に通ったあと、医学部に入るためにロンドンに移った。数年後、その経験は自分の知的成長の転機だったと述べることになる。マキューンは医師たちが病院で回診しているのを観察するうちに、彼らと患者の交流や同僚との話し合いに、なぜか欠けているものがあることに気づいた。医者は血圧や心拍などのバイタルサインを確かめ、症状の説明に熱心に耳を傾け、治療のための助言を与える。しかしマキューンによると、「指示された手当が患者にとって有用かどうか」という疑問に医師が取り組むことはめったにない。マキューンは1942年に外科学の学位を得て卒業する予定だったが、病院で施されている介入についての疑念は、医学部に通うあいだにどんどん強まった。彼はのちにその時期のことをこう書いている。「私たちの助言で患者は賢明な判断をするようになっているのか、私たちの手当で患者の状況はよくなっているのかと、ベッド脇で自問することを習慣にした。するとすぐに、ほとんどの場合そうはなっていないという結論に達した(※22)」

 戦争が終わると、マキューンはバーミンガム大学のとても興味深いポストを提案された。新たに設けられた「社会医学」の教授だ。彼はそれから引退するまでずっと、その職にあった。1950年代初め、医学生時代の回診から得た直観的洞察にもとづいて、研究プロジェクトを始める。そのプロジェクトの集大成が、20年以上たってから『現代の人口増加(The Modern Rise of Population)』という本の形になった。これまで発表された人口統計上の変化に関する研究のなかでも、とりわけ論議を呼び、大きな影響を与えたものである。最初に世に出てから40年以上たってなお、この本の主張は─マキューン説とは呼ばれていないが─論争を引き起こしている。

『現代の人口増加』は、過去2世紀に関する2つの重要な疑問への答えを提案している。第一に、この期間の全体的な人口増加は、出生率増加の結果か、それとも死亡率減少の結果か? この疑問に対してマキューンは、第一の原因は生まれる赤ん坊が増えたことではなく、むしろ、生まれた赤ん坊がそれ以前よりはるかに長く生き続けていることだと、論理的にはっきりと主張している。19世紀後半のイギリスでは総人口が倍になっているのに、出生率は約30パーセント下がっている。その事実は、やっかいな疑問を浮かび上がらせた。その赤ん坊を生かし続けているのは、具体的に何なのだろう? 19世紀後半に始まった、平均寿命の大脱出を促したのは何だろう?

 マキューンが研究結果を発表するまで、その疑問に対する答えは、医学の進歩がきわめて重要な役割を果たしたことだとされていた。その推測は当然だ。人びとが長く生きているのなら、病気に負ける率が祖先と同じでないのなら、医療従事者の腕が上がっている証拠にちがいない。マキューンは医学部時代の経験から、当然、この世間一般の通念を疑ったが、歴史上のデータを調べると、ひとつの事実が目にとまった。医者が有効な治療法を手にする、人びとが病気で死ななくなってきているのだ。本の冒頭で、マキューンはそのパターンを自分の主張のまさに中心に据えた。

 死因が初めて記録されて以降、感染症による死の大半は、次に挙げる病気が原因であり、これらは死亡率減少とも関連している。すなわち結核、猩紅熱しょうこうねつ、はしか、ジフテリア等の腸管感染症である。これらの病気すべてに対して、率直に言って、20世紀より前には有効な予防接種や治療法がなかった(※23)。

 データは明白だった。結核のような病気による死者数は、19世紀末から20世紀初めにかけて、明らかに減少している。ところが、その期間に最先端の医学によって展開された結核に対抗する武器は、狂王ジョージに施された英雄的治療と同じく、効果はなかった(ただし、患者に実質的なダメージを与えることは少なかったかもしれない)。イギリスの人口の結核罹患率を下げる何かが起きたのだ。それは医者ではなかった。では何だったのか?

 マキューンは最終的に別の説明を提案した。人が長く生きている理由は、医学的介入ではなく、生活水準の全般的な向上だった、と。そしてそのおもな原因は、食卓に並べられる食べ物を増やした農業革命だった。これから見ていくように、マキューンの説のこの部分は、のちに新しい学識によって批判されているが、医療のおそまつさに関する彼の分析は、時の試練に耐えている。大半の歴史学者は現在、第2次世界大戦が終わるまで、医学的介入全体の平均寿命に対する効果は限定的だったと考えている。それより前に医者たちが蓄積していた、ほんとうに役立つ知識や医術によるプラス効果は、ヒルやヒ素など英雄的医療のばかげた介入で治療できるという根強い思いちがいによって、帳消しになっていたのだ。19世紀末まで、ほとんどの病院などの医療環境は衝撃的に不衛生な状態であり、それも、この帳消しに加担した。そのような怪しげな慣習が打ち倒されるまで、それほど長くかかったのかという疑問は、非常に興味深い。あとでこの疑問にもどるつもりだ。しかし、英雄的医療とその愚行すべてが驚くほど長く続いたことを確認すると、「西洋」医学が─最近でこそ成果を上げてはいるが─誕生してから現在までの期間の大半で、悲惨な実績しか残せなかったことを、あらためて思い知らされる。それどころか、平均寿命に有意なの影響を与えた最初の介入は、西洋で生まれたものではない。

【原注】

※1. 旅行の詳細はナンシー・ハウエルへの取材をもとにしている。
※2. Howell, Life Histories of the Dobe !Kung , 1-3.
※3. Howell, Demography of the Dobe !Kung . loc. 535-38.
※4. Sahli ns.
※5. Graunt, 41.
※6. Graunt, 72.
※7. Graunt, 135.
※8. Howell, Demography of the Dobe !Kung , loc. 872-76.
※9. Howell, Demography of the Dobe !Kung , loc. 851-55.
※10. H owell, Demography of the Dobe !Kung , loc. 980-96.
※11. Devli n, 97に引用。
※12. Deaton, 81.
※13. Hollingsworth, 54.
※14. ほかの社会でもっと早い時点に平均寿命が持続的に延びる傾向が生まれていたが、その社会はそれを追跡するのに必要な記録をつけていなかったために、測定されていなかっただけだという可能性はある。しかし、医学と公衆衛生の歴史でわかっていることから、それはありそうもないと思われる。確実にわかっているのは、過去に起こったかもしれない持続的な延びは何であれ一過性であることが判明し、正確な死亡者データが世界中の国々で記録され始めるころまでに消えていたということだ。
※15. Deaton, 163.
※16. Hadlow, 358に引用。
※17. Hadlow, 359.
※18. Cox et al., 334.
※19. Hollingsworth, 54.
※20. Rosen, 5-6に引用。
※21. Osler, 135.
※22. McKeown, The Role of Medicine . x.
※23. McKeown, The Modern Rise of Population . 15.


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