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おおたわ史絵が「母を捨てよう」と決意したあまりに過酷な瞬間

 医師・コメンテーターとして活躍するおおたわ史絵さん。快活な印象のあるおおたわさんは、実は幼い頃から母の機嫌に振り回され、常に顔色をうかがいながら育ってきたといいます。母が薬物依存症の末に孤独死したことをテレビで公表し、大変な話題を呼びました。
 幼少期からの過酷な体験、親との別れ、そして母の呪縛からどうやって逃れたのかを克明につづった『母を捨てるということ』(2020年、朝日新聞出版)から抜粋して掲載します。(写真撮影/野口博)

 父の死後、母はお金に対する異常な執着を見せるようになった。

 もとからお金は大好きで、とくに現金を手元に置きたがる習性があった。変な話だが、財布のなかにはいつも十万円の束がいくつか入っていないと気が済まなかったし、寝るときですら枕の下に百万円の束を敷いていたくらい、イヤらしい現ナマ好きだった。

 長野の田舎育ちで決して裕福とは言えない幼少期を鑑みれば、お金持ちに対する憧れがあったって不思議ではない。昭和の戦争を知る時代の女ゆえ、裕福になることが幸せなのだと信じて生きてきたのかもしれない。それを責めることもできない。

 ただ父の死後、急激に金銭にまつわるトラブルを立て続けに引き起こすようになる。

 最初は、わたしが父の遺産をすべて奪い取ったと親戚じゅうに触れ回った。当然事実無根である。

「史絵はあんなに頭のよさそうなふりをして、中身は泥棒なんだよ」

 という調子だ。もちろん親戚もそれを鵜呑みにはしないものの、

「史絵ちゃん、はる子おばさんは大丈夫なの? なんだかお金の心配ばかりしてるわよ」

 と聞いてくるので、いちいち誤解だと説明しなくてはならなかった。

 親戚だけならともかく、困ったことに取引先の銀行にまであることないことを話し始めた。

「娘が勝手に口座からお金をおろしているから、止めてください」

 と連絡を入れたりした。泡を食った担当者が支店長同伴で駆けつけ、真相を理解してもらうためにわたしが何度も謝る必要があった。

 当時、わたしは父の残した医院の継承の手続きに追われていた。加えて相続のための資料などをいくつも揃えねばならず、それをひとりでこなしていた。医師の仕事をやりながらでは、さすがにいっぱいいっぱいだった。

 そんなときに、そうした雑事をなにひとつ手伝うでもなく邪魔ばかりする母。

 故人の配偶者として必要な判子をひとつ押すにもわたしを泥棒扱いし、散々っぱら嫌みをのたまうのが日常茶飯事。

 わたし自身、心に余裕がないせいもあり、母の顔を見るたびに腹が立ってしかたなかった。

 いまで言うなら、母には境界性人格障害があったのかもしれない。

 感情がころころと変化し、自分の思いどおりに事が運ばないと急に激高する。それでいて他人の気を引くためなら手段を選ばない。その裏には孤独に対する異常な恐怖心を持っている。それになによりもこのタイプの障害は、依存症を合併しやすいと言われている。

 何度も言い訳がましいようだが、こうした概念が確立したのはここ最近のこと。わたしが渦中にいたときにはまったく想像も及ばぬことだった。あの時代にこうしたことがわかっていたら、もう少し別のアプローチ方法を探すことができたかもしれない。

 しかし残念ながら当時のわたしは、正面からバカみたいに立ち向かう手段しか持ち合わせていなかった。

 だから親戚に嘘八百を吹聴されれば怒りの言葉を浴びせ、銀行の担当者などに迷惑をかけるたびに軽蔑の眼差しを向けた。

 日々繰り返される迷惑行為の数々に、わたしの我慢は限界に近づいていた。

おおたわ史絵著『母を捨てるということ』(朝日新聞出版)

 あるとき、わたしがいつものように雑用に翻弄されているとヘラヘラと笑って、

「ねえ、わたしのお金ちょうだい。パパの残したぶんがあるでしょ? まとめて一括でちょうだいよ」

 と近づいてきた。

 まだ相続税の計算も終わらない前からそんな非常識な話もなかろうと思うが、それよりなによりその安っぽい笑い顔に堪忍袋の緒が切れた。

「もういいかげんにして! これ以上わたしに迷惑をかけないで!!」

 思わず大声で怒鳴りつけ、持っていた書類ケースを母の肩先に叩きつけた。それはケガを負わせるほどの大袈裟なものではなかったが、その拍子に彼女はふらふらっとよろけた。

 その姿を見て、わたしははっと我に返った。

 まずい、このままでは本当に母親に手を上げてしまう。一旦本気で暴力を振るい始めたら、その勢いを止める自信がなかった。

(もしかしたら、母親を殺してしまうかもしれない……)

 死んでくれ、と思ったことは何十回もあるが、本気で手にかけようとしたことはなかった。

 それがいままさに紙一重のところにあると気づいたら、背筋がぞっとした。

 昔々、幼少期に母から叩かれていたことを思い出す。竹の定規で、布団叩きで、時には平手で顔を叩かれた。

 理由はいつも他愛ない。わたしが母の思いどおりの行動を取らなかった、それだけのことだ。

 投げつけられた灰皿で額から血を流したこと、タバコの火を目の前にちらつかされた日のこと、飲み物に下剤を入れられたこと……たくさんの悪い思い出が一気に脳の記憶の引き出しからあふれ出して止まらない。

 あぁ、きっとあの頃の母も一旦上げた手が止まらなくなっていたんだな。思ったようにならない我が娘に対して感情が制御不能になって、言葉にはかえられない苛立ちを爆発させていたんだろうな。

 少しだけわかった気がした。

 と同時に、わたしにも同じ血が流れていると直感した。

 暴力も依存症のひとつ、世代を超えて繰り返されることはよく知られているのだ。

 このままでは危ない。本当に彼女を殺めてしまうかもしれない。なんとかしてこの負の感情を抑え込まなければ……どうしよう、どうしよう。

 そうか、それならそこに彼女がいないものとして過ごそう。なにをされてもなにを言われても、徹底的にその存在を無視してしまおう。

 これがわたしの結論だった。残酷だと言われようと、当時はそれしかないと思った。いまでもほかに手段が思い浮かばない。もしももっと良策があったのであれば、正しい方法があったのならば誰か教えてほしい。

 ともかくこの日から、わたしは心のなかで母の存在を殺した。

 母を捨てたのだ。


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