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誰も知らなかった“本物の関ヶ原”! 伊東潤が徹底的に研究本を読み込み描いた『天下大乱』の圧倒的なリアリティ <著者ロングインタビュー>

 伊東潤氏の長編歴史小説『天下大乱』(朝日新聞出版)が2022年10月7日(金)に刊行されました。日本史上最大の合戦“関ヶ原”を、徳川家康と毛利輝元の対立構造で描き出したことが本作品の最大の特徴となります。ブックジャーナリストの内田剛氏をして「武者たちの息づかいまでも聴こえる迫真の群像劇。紛れもない、これぞ本物の関ヶ原だ!」と言わしめた本作は、まさに伊東氏の“戦国歴史小説の集大成”と呼んでも過言ではない一冊となっています。刊行を記念して、著者ロングインタビューをお届けします。

伊東潤著『天下大乱』(朝日新聞出版)

■『天下大乱』発刊記念ロングインタビュー

――関ヶ原の戦いは、これまでも多くの作家が取り上げてきましたが、まさに本作では、「書き換えられた」と言ってもよいくらい斬新な物語となっていました。

伊東潤(以下、伊東):本作では、これまでとは全く違った関ヶ原の物語を楽しんでいただけると思います。ここ10年ほどで、関ヶ原の戦いについての研究は急速な深化を遂げました。政治的駆け引きや合戦の様相など、従前のものとは全く違ったものになったと言っても過言ではありません。そうした研究成果を小説として結実させ、世に問うことは、時代的要請でもあると思いました。

――司馬さんの描いた『関ヶ原』と比べると隔世の感があります。どのような点が本作の特徴でしょうか。

伊東:これまでの関ヶ原の戦い像は、石田三成が単独で構想を練り、実行段階も主導していたというものでした。いわゆる石田三成vs.徳川家康という対立構造ですね。本書ではそれを逸脱し、毛利輝元vs.家康という新たな構造を打ち出したことが最大の特徴です。もちろん石田三成も西軍の中心人物の一人ですが、西軍の動きを輝元視点から捉えることで、この戦いの新たな魅力を発見できると思います。

――確かに読んでいて、実際の関ヶ原の戦いにかなり近いのではないかというリアリティを感じました。それでも面白い。さすがの筆力としか言えません。これだけの臨場感を出せるということは、徹底的に研究本を読み込んだのではないでしょうか。

伊東:それが読者の皆さんに対する礼儀だと思っているので、研究本の渉猟から現地調査まで、取材は綿密に行いました。私には戦国時代の知識の蓄積もありますから、それらを合致させることで、伊東潤の戦国歴史小説の集大成的作品となりました。

――本作の魅力はどこにあるのでしょうか。

伊東:ぜい肉をそぎ落としたところです(笑)。つまり忍者や恋愛といったサイドストーリーから、テーマ性という大きなものまで削ぎ落とし、家康と輝元の駆け引きに集中しているところですね。そうした意味では、歴史ファンの嗜好に思い切り寄せていったと言えるでしょう。確かに文芸的価値からすれば、テーマやサイドストーリーを形だけでも入れた方が、評価は高くなるはずです。しかしそんなの関係ないとばかりに、歴史ファンが好むコア部分、すなわち駆け引きと合戦だけに集中したのが本作です。それでも家康や輝元の人間性や人格がいかに形成されていったかは、手間暇かけて描きました。ですから駆け引きと合戦だけと言っても、人間ドラマとしての力強さは十分にあると思います。

――なるほど、家康と輝元の人と人との戦いが、本作の読みどころになるのですね。

伊東:しょせん合戦は人と人との戦いです。それまでの人生で培った経験と知識をぶつけ合うことで勝敗が決します。家康はもちろんですが、輝元は輝元なりに学んできており、それを結実させる場が関ヶ原だったわけです。しかし権謀術数渦巻く世界で生きてきた家康に、輝元は一歩も二歩も及ばなかったわけです。

――本作では徳川家康もさることながら、毛利輝元も人間臭く描かれていますね。

伊東:祖父の元就に憧れ、それを乗り越えたいという野望を持つ輝元ですが、最初から殿様として育てられ、4人の宿老によってすべてを決められてきたので、誰かの意見に引きずられる傾向があります。その点、子供の頃から戦国の荒波にもまれてきた家康とは、権謀術数の練度が違うわけです。それが如実に出てしまったのが、関ヶ原の戦いというわけです。

――本作を書く上で苦労した点は何ですか。

伊東:それぞれのエピソードごとに研究家の先生方も諸説ありの状態なので、どの説を選び取っていくかがたいへんでした。しかも展開に不自然さがなく、個々のキャラクターにも違和感を抱かれないように、丁寧に物語を構築していくのはたいへんでした。しかしこうした「ならし力」が、歴史小説家の腕の見せ所なのも事実です。

――関ヶ原には何度行かれたのですか。

伊東:以前に遊びの旅行で1回行ったことはありますが、小説家になってからは都合3回ですね。それぞれ1泊2日でした。とくに2018年に行った折、地元の方にガイドしてもらったのは助かりました。地形を俯瞰的に把握できる場所に連れていってもらったので、周辺の山々の大きさや距離感などを把握できました。それが作品にも十分に生かされていると思います。作家の中には現地に行かない人もいますが、私は実地検分重視派なので納得するまで何度も行きます。関ヶ原に限りませんが、現場のスケールや距離感を摑み、高低差などの地形を把握し、地元の方の話を聞くことで、臨場感溢れる物語ができるのです。

――伊東さんの考える関ヶ原の戦いとは、端的に言えばどういうものだったのでしょう。

伊東:秀吉は駆け上がるようにして天下を取ったことから、当初の豊臣政権は軍隊にすぎず、政権の体を成していませんでした。そこでひとまず弟の秀長と自分のブレーン役の千利休を表と裏の窓口にして、武将たちから上がってくる訴訟や苦情に対応していました。それと並行し、石田三成ら奉行を中心にした平時の統治体制を築いていったわけです。しかし従来の秀長と利休の役割を否定するわけにもいかず、2人の位置づけは変わりませんでした。そうなると奉行たちが「法の下での平等」「法による秩序の維持」を掲げて決定したことでも、裏ルートで口を利かれて覆されてしまうことが、たびたび起こったのです。

 その後、秀長は病死しますが、三成らが利休排除に動いたのは自然な流れでした。しかしここで政権のガス抜き役だった二人を失ったことで、武断派大名たちの不満が募ります。彼ら武人は自分の武功を過大評価するので、常に不満を持っています。その不満の持っていき場がなくなり、その場所に家康に居座られてしまうのです。秀吉が生きているうちは何とかなったのですが、その死後、家康を除かない限り、豊臣政権は成り立たないところまで、三成たちは追い詰められます。そこで三成たちが毛利家の力を借りて起こした戦いが、関ヶ原の戦いだったというわけです。

――なるほど、とても分かりやすい構図ですね。

伊東:会社が中小企業から大会社に成長していく過程で、番頭のような存在が邪魔になっていくのは、昔も今も変わりません。それが秀長ならまだしも、敵対していた家康に取って代わられてしまうわけですから、三成ら奉行衆にとっては最悪です。そういう意味では、この戦いは大勢力同士がぶつかり合う天下分け目の決戦ではなく、豊臣政権内の主導権争いです。それゆえ政争部分も含め、『慶長の政変』といった名称に変えてほしいですね。

――では、関ヶ原の戦いで、西軍が破れてしまった原因は何ですか。

伊東:一つ目は西軍陣営が長期戦を想定していたこと。二つ目は豊臣家中と毛利家中の思惑が初めから乖離していたことです。輝元は豊臣政権の安定化よりも、自領拡大や自らが政権内の存在感を増すこと、すなわち家康に取って代わることを目指していたわけですから、齟齬を来すのは当然です。そして三つ目が、豊臣政権の核が幼い秀頼では、家康の求心力には敵わないということです。それを考えれば、あのタイミングで家康に挑んだのは、結果論ではなく無謀でした。よしんば長期戦に徹したいのなら、家康率いる会津征討軍が上杉勢との戦いに突入し、家康らが会津の地に足止めされてから挙兵しても遅くはなかったはずです。

――いわゆる挙兵のタイミングですね。

伊東:そうです。西軍が挙兵する場合、尾張清須城主の福島正則が確実に味方しないと危険ですね。清須城を最前線とし、東から岐阜城、大垣城、玉城、佐和山城、そして大坂城という縦深陣を築き、長良川、木曽川、揖斐川といった大河川を盾にして長期戦に突入する以外、西軍に勝ち目はなかったはずです。戦というのは、こうした縦軸と横軸をいかに築くかなのです。

――縦軸と横軸ですか。

伊東:縦軸と呼んでいるのは補給線、いわゆる兵站ですね。横軸というのは、敵の進行速度を遅くする河川などの障害です。西軍はこうした地形を考慮し、攻防兼備の態勢を築いていたのですが、福島正則が東軍に付いてしまい、織田秀信が岐阜城で簡単に敗れ、家康がやってくるのが予想よりも早く、さらに小早川秀秋が松尾山城に入ってしまうことで、すべてが破綻するのです。

――新機軸として、玉城が出てきますね。

伊東:これは千田嘉博先生の最新研究成果を基にしたものです。西軍の最前線拠点となる大垣城と後方拠点の佐和山城の間には松尾山城があるのですが、松尾山城は典型的山城で、補給拠点としても駐屯拠点としても適していません。それゆえ長期戦を想定した場合、曲輪の面積が広く取れ、さほど峻険ではない玉城の存在意義が高まるのです。

 また関ヶ原での短期決戦となった場合でも、玉城に秀頼を入れれば、福島ら豊臣大名は懸かってこれないので、小牧・長久手の戦いのようなにらみ合いの末、痛み分けということもあり得たと思います。ところが実際には、秀頼は玉城に入らず、戦闘自体は東軍が西軍を圧倒し、約2時間で終わってしまったのはご存じの通りです。玉城という切り札を生かせなかったのも、方針や指揮系統があいまいな西軍の組織的欠陥のゆえでしょうね。

――では、東軍の思惑はどうだったのでしょう。

伊東:家康は受け身なので、西軍の出方次第という側面があったと思います。西軍の挙兵後も、家康が長く江戸にとどまっていたことから、それが分かると思います。実際は自ら率先して西上すべきだったのでしょうが、それは結果論で、その場にいたら、豊臣大名たちがこぞって自分に味方するなど考えられなかったでしょうね。もしかすると長期戦を想定していたかもしれません。それが豊臣大名たちによって岐阜城が容易に落とされたと知り、また小早川秀秋が確実に味方するという確信を得たので、家康は東海道を駆け上るのです。

――関ヶ原の戦いから、われわれが学べることは何でしょう。

伊東:何事も楽観的に捉えないということです。輝元や三成はすべての情報を自分たちに都合よく解釈しました。「福島は味方になるだろう」「岐阜城は容易に落ちないだろう」「家康は江戸を動けない」「小早川秀秋は味方のはず」といったことです。一方、家康は常に悲観的です。だから何事にも慎重で、多様なコンテンジェンシー・プラン(緊急時対応計画)を持っていました。人生とは思惑違いや失敗があっても、そうなった時のことを事前に考えておくことで、「でも大丈夫」となり、余裕が生じてくるのです。

――最後に何かあったらお願いします。

伊東:「『天下大乱』は伊東潤の戦国小説の集大成的作品です。最新の研究成果をベースに、迫真の人間ドラマとして仕上げました。『武田家滅亡』でデビューしてから15年、その到達点が本作です。この力強い人間悲喜劇を、一人でも多くの方に読んでいただきたいですね。

――ありがとうございました。私自身、とても楽しめる作品に出会えて幸いでした。


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