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「SNS空間の呪縛を脱するための提言」書評家・三宅香帆さんによる、宇野常寛『砂漠と異人のたち』評論を特別公開!

 宇野常寛さんの『砂漠と異人たち』をめぐって、書評家・三宅香帆さんが「小説トリッパー」2022年冬季号でご執筆くださった評論を掲載します。『ゼロ年代の想像力』によって颯爽とデビューした評論家は、いま何処に立っているのか? サブカルチャー批評から提言型批評へ。ピラミッド型の呪縛からネットワーク型の呪縛へ。最新刊『砂漠と異人たち』へと至る著作を読み解きながら、その批評の現在地を探ります。

宇野常寛著『砂漠と異人たち』(朝日新聞出版)

なぜ今、社会提言型の批評なのか

「砂漠が見たい」――気がつくと、それが僕の口癖になっていた。そしてある日、Tは僕が自分でも気がつかないうちに精神的に参ってきているのではないかと言い出した。「一般的にその状況が続くと待っているのは、肥満とアルコール中毒、そして妻の怒りです」。それは一般的なことではなくむしろ……と指摘しようかと思ったが、それより先にTは続けてこう述べたのだ。
「だから行きましょう、本当の神と獣の世界へと」

 宇野常寛の最新刊『砂漠と異人たち』(朝日新聞出版、2022年)は、「SNS的な相互評価ネットワークの外へ出るにはどうしたらいいのか?」という、現代を生きる人々にとって最も切実でありながら最も困難な問いに向き合った批評である。その内容は、ロレンスや村上春樹、吉本隆明などの思想を紐解きながら、現代社会のSNS空間の呪縛を脱するための提言を読者に行うものだ。
 本書の冒頭は、現代のSNS空間について問題点の指摘と、宇野自身がそこから脱するために降り立った場所の、紀行文から始まる。ページを捲ると、宇野が「閉じた相互評価のネットワークの外部を求めて」長年の友人Tと『アラビアのロレンス』の舞台である砂漠に向かった、という描写が存外長く続く。おそらく『砂漠と異人たち』を読み始めた読者の中には、「今回の新刊は旅行記なのだろうか?」と首を捻る人もいるだろう。しかし読み進めているうちに、本書が宇野のこれまでの問題意識をアップデートした批評であることは分かってくるはずだ。
『ゼロ年代の想像力』でサブカルチャーと呼ばれる文化領域のフィクションの批評によってデビューした宇野常寛の著作は、『遅いインターネット』以降、文化批評と同時に現代社会への提言を行う作風に変化している。本書もまた同様に、村上春樹の小説や映画『アラビアのロレンス』の読解を展開しながら、SNS空間にとらわれる現代社会への提案で締め括られている。しかしなぜ宇野は今、コンテンツ批評から社会への提言と軸足を移しているのだろうか?
『砂漠と異人たち』は、これまでの宇野の提示する問いを引き継ぐ形で誕生した一冊である。本稿ではまず宇野常寛の問題意識について整理し、そのうえで『砂漠と異人たち』で宇野が試みた点を紐解き、そして著作から見える彼の思想の変遷について考えたい。

1 ビッグ・ブラザーの時代から
リトル・ピープルの時代へ

『ゼロ年代の想像力』(早川書房、2008年)でデビューした宇野は、2000年代を席巻したコンテンツを批評する書き手として登場した。ドラマやケータイ小説、少年漫画、アニメに至るまで、さまざまなジャンルの作品を俎上に載せた『ゼロ年代の想像力』は、一貫してセカイ系の閉鎖的な姿勢を否定する。当時脚光を浴びていた東浩紀の思想について、『ゼロ年代の想像力』ははっきりと拒否の姿勢を示す。それはセカイ系の思想が、「母性のディストピア」とも評される閉鎖的なホモソーシャル社会の延長として生まれてきたものだからである。宇野は2000年代の思想として「サヴァイヴ系」という概念を提示し、90年代以前の思想とはっきりと決別する。
 3年後に刊行された『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎、2011年)は、村上春樹と仮面ライダーを軸に、戦後の日本文化について論じた一冊である。前作では「セカイ系からサヴァイヴ系へ」という言葉で90年代とゼロ年代を対比しているが、今作は「ビッグ・ブラザーの時代からリトル・ピープルの時代へ」という言葉で昭和と平成を対置させ、より射程の広い著作となっている。ここでいうビッグ・ブラザーとは、高度経済成長期の日本の大企業に代表されるような、ホモソーシャル社会の特徴を指した用語である。つまり巨大な「父」が権力者として存在し、ピラミッド型に社会が構成されている状態のことを指す。
 こうして宇野の著作を並べてみると、デビュー作と二作目を眺めるだけでも、「閉鎖的なピラミッド型・ホモソーシャル社会からの脱却」というテーマが見て取れる。つまりどのようなジャンルの批評であれ、宇野が支持するのは、「より閉じていない」「よりタテの呪縛が強くない」思想なのである。それは昭和のウルトラマンではなく平成の仮面ライダーを支持する、ということでもある。
 平成という時代のことを考えても、宇野の選択は、社会の主流をなす思想の変遷とも合致していた。時代は大企業への信頼が失墜し、非正規雇用が増え、ボトムアップという言葉が流行、そしてそれを支持する人々が数多く存在した。彼が批評家として提示した「ビッグ・ブラザーの時代からリトル・ピープルの時代へ」という時代の解釈は、平成に生きた大衆も、宇野自身も、双方が一致して支持する思想そのものだった。

2 サブカルチャー批評から提言型批評へ

 宇野の批評において、転換点だと捉えられやすいのは『遅いインターネット』(幻冬舎、2020年)ではないだろうか。それまで一貫して著作ではサブカルチャー批評を行ってきた宇野が、はじめて「社会への提言」をテーマの主軸に据えたのが本書である。
『遅いインターネット』は、2020年2月、つまりコロナが猛威を振るいはじめるのと時を同じくして刊行された。現代社会と政治を取り巻く諸問題の原因が「インターネット」にあるとする宇野は、今必要なインターネットとの向き合い方を提言する。
『遅いインターネット』を宇野が書いた背景として、「人々はフィクション=他人の物語に興味を持たなくなり、人間関係=自分の物語に集中し始めた」状況がある。

 活版印刷の時代から映像の世紀に至るまで、人類社会では「他人の物語」を享受することによって個人の内面が醸成され、そこから生まれた共同幻想を用いて社会を構成してきた。しかし、グローバル資本主義は共同幻想を用いずに、政治ではなく経済の力で、精神ではなく身体のレベルで世界をひとつにつなげてしまった。僕たちはこれまでのようには「他人の物語」を必要としなくなっているのだ。
(『遅いインターネット』)

 宇野は21世紀を「自分の物語」が台頭する時代と評する。たとえば政治について、20世紀の民衆は、基本的には報道を見てコメンテイターに意見を代弁してもらって終わりだった。しかし21世紀はその報道についてSNSで発信することができる。それは政治だけでなく、さまざまなジャンルにおいても言える変化だった。SNSを通せば、誰もが自分の物語を発信し得る時代になったのだ。
 だが現状SNSは、人々が相互評価しあい社会的信用を得る手段となっている。このような社会においては、インターネットの中で生まれる物語は、自己という幻想を肥大させるためのものになりやすい。つまり自分への承認ばかりが目的化されてしまい、他者の物語はその手段となってしまう。自己の肥大化を止めるために、まずはしっかりと自分の物語を、ある種「遅く」紡ぐことが必要とされるのだ。そう宇野は提案する。
「他人の物語から自分の物語へ」。それは20世紀から21世紀への変遷を評するのに的確な言葉である。しかし宇野の述べる「自分の物語の時代」の達成は、現状かなり難しい。なぜならインターネットは、他人のイデオロギー=物語に乗っかるほうが容易だからだ。逆説的だが、むしろSNS空間にとらわれている限り、自分の物語を真の意味で紡ぐことは困難なのだ。

 しかしSNSには「自分が知っているこのファクトが広まれば敵対する陣営の主張は論破できる」という前提のオピニオンが多すぎる。彼らは「情報(0か1か、YESかNOか)」を扱うことはできるが「物語(情報の相互作用による変化)」は扱えない。しかし世界は情報ではなく物語(正確には書き換えられない物語ではなく書き換えられるゲーム)でしか記述できない。(同前)

 SNSで安易に発信している限り、「自分の物語」を適切に達成することはできない。そう述べる宇野は、新しいインターネットの使い方を提言する。それがタイトルにもある「遅いインターネット」、つまりはSNS空間の中に閉じ込められない方法なのだ。
 SNSに閉じ込められないように移動せよ。――この主張だけを見ると、『ゼロ年代の想像力』や『リトル・ピープルの時代』の時から、宇野の主張は変わっていないように見える。前節でも見たように、宇野は常に「より閉じていない」「よりタテの呪縛が強くない」ほうを選択するべきだ、と述べている。「より閉じていない」場所への移動を支持する。それは宇野の思想そのものであった。SNSの登場によって、「より閉じていない」場所の正体は、SNSの外の世界に移った。『遅いインターネット』はそのようなタイミングで綴られた著作だったのだ。
 しかし『リトル・ピープルの時代』と『遅いインターネット』のそれぞれの刊行タイミングにおいて、決定的に異なる点がある。それは、同時代の大衆が「より閉じている」方を志向するようになっていることである。
 なぜ宇野は、コンテンツ批評から、社会への提言へ軸足を移しているように見えるのか? 本稿の冒頭では、そのような問いを投げかけた。しかしその理由は、宇野自身が変わったのではなく、時代が変わったからではないか。
 つまりデビュー当時から変わらず、宇野は全く同じ思想を支持している――「より閉じていない」「よりタテの呪縛が強くない」場所を選んでいるのである。しかし昭和から平成に移るときは「より閉じていない」ほうを選んでいた大衆が、SNSの登場により、もう一度「より閉じている」ほうを選ぶようになった。言い換えれば、大衆は近しい人間関係のなかで終始する相互評価の関係を支持し、SNSという内部に閉じ込められている。だからこそ彼は「提言型の批評」に移行せざるを得なくなったのではないか。宇野の著作史を眺めると、そんな変遷が見えてくる。

3 ロレンス・村上春樹からSNSへ

 宇野常寛の思想とは「より閉じていない」「よりタテの呪縛が強くない」場所を選ぶことにある。『遅いインターネット』の主張が「より閉じていない」ほう(=SNSの外)を選べというものだったのは確認した通りだが、一方の「タテの呪縛」はSNSには存在していないように見える。
 しかしタテの呪縛の代わりに発生した関係があった。これについて論じたのが、最新刊『砂漠と異人たち』なのである。本書のなかで大きな主題となっているのが、トーマス・エドワード・ロレンスと村上春樹だ。
 トーマス・エドワード・ロレンスは、映画『アラビアのロレンス』の主人公のモデルにもなった人物である。彼は考古学者の卵でありながら、イギリスの軍人だった。当時のイギリスにはオスマン帝国から独立しようとするアラブ人の蜂起を支援する動きがあった。その中でロレンスはアラブの民族に内側から入り込み、アラブ人を支援した。彼のイギリス人でありながらアラブの衣装を着て、ラクダに乗り砂漠を駆け回る姿は、少年時代の宇野を魅了したのだと『砂漠と異人たち』に記されている。
 しかし誰でも知っている「アラビアのロレンス」の実像は、脆いものだった。アラブ人の独立を扇動したイギリスは、フランスとともに領土分割を行う。その政治動向に関わるロレンスは深く傷ついたらしい。さらにメディアは「アラビアのロレンス」の名を世界中に知れ渡るまで報道したが、その虚像に乗ることに彼自身は罪悪感を抱き続けた。結局、ロレンスはオートバイで事故死してしまう。
 彼の生き様について、ハンナ・アーレントは「きれいな手で〈グレート・ゲーム〉に加わった者」と評する。ここでいう〈グレート・ゲーム〉とはイギリスの帝国支配のゲームのことを指す。つまりロレンスは、自分の参加しているゲーム(アラブ反乱の支援)の意味をほとんど考えずに、与えられたゲームの役割(アラブ人反乱の支援のリーダー)に没頭していた、ということだ。没頭そのものが彼にとってのゲーム参加の意味だったのだ、とアーレントは言う。宇野はアーレントによるロレンス評を引用し、現状のSNS利用はアーレントの言う〈グレート・ゲーム〉に限りなく近いものになっていると述べる。それは発信の相互評価というゲーム自体に快楽を覚えてしまい、それが世界にとって何をもたらすかを分かっていない人々の姿であった。
 また村上春樹の作品についても、SNS空間との類似性を宇野は指摘する。村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』は、歴史をデータベースとして捉えることで、イデオロギーから離れることができる、という思想のもとに綴られた作品であると解釈している。このような「歴史をデータベースとして捉える」感覚は、今日のインターネット的な感覚にかなり近い、と宇野は述べる。文脈という名の物語を排除し、自分の物語を接続することそのものだからだ。しかしその捉え方の副作用として、2010年代以降の村上作品は物語から「悪」を消失させる。それは個人の記憶に執着する姿勢が、翻って自分を母のように守ってくれる女性性――妻の犠牲つまり性的搾取を必要としてしまうからである。
『騎士団長殺し』において、村上春樹は、男性性の中に悪を見出す。そしてその悪を乗り越える行為は、「自分の血を引いていない、妻の子の父となる」という形で提示される。村上春樹は歴史の悪と対峙することをやめるのと同時に、前時代的な男性性を手放したのである。宇野はそれを「父性の軟着陸」と呼ぶ。インターネットで過激な陰謀論に染まることを回避するために、逆に政治的に正しい、批判されない言動に終始するような姿勢と同様のものだ。それは村上自身の、閉じられたナルシシズムに拘泥する姿勢に繋がってゆく。
 宇野の選んだ「ロレンス」と「村上春樹」という主題は、現代のSNS空間の問題点を象徴する存在だった。ロレンスは虚像の自分を作り出す幻想空間に拘泥し、村上春樹は歴史の文脈を排除し個人を強化することで閉じた男性性のナルシシズムに拘泥した。SNSの相互評価ネットワークに執着することの問題点を、ロレンスと村上春樹という二人の人物像を用いて暴き出したのである。

4 ピラミッド型の呪縛からネットワーク型の呪縛へ

 宇野は現代のSNSを「関係性」のネットワークだと評する。

 SNSは少なくとも従来のメディアと比べて、非接触的ではなく接触的なメディアであり、所有ではなく関係性のメディアだからこそ、僕たちは閉じた相互評価のネットワークに閉じ込められてしまったのだ。(『砂漠と異人たち』)

 ここでいう〈所有〉とは、タテの配置だと言い換えられる。ピラミッド型の人間関係のなかで、たとえば男性性は自分より「低い位置にいる」女性を所有しようとする在り方のことを指している。しかし〈関係〉とは、ヨコの配置のことだろう。
 SNSで繋がると、全員が横並びでお互いに承認し合う関係になる。SNSの相互評価の特徴のひとつとして、「より強い」評価を受ける指標が、権威(=タテの中でどこにいるか)ではなく、関係の数(=ヨコの数をいくら持っているか)に依拠する、という点がある。評価のネットワークは、繋がっていれば繋がっているほどに、強くなる。つまりSNSにおいてはタテの配置が無効化されるのである。
 日本社会は、昭和から平成にかけてタテの呪縛を解いてきた。ピラミッド型社会、つまり宇野の言葉でいえば「ビッグ・ブラザーのいる社会」は壊れた。それは宇野も大衆も双方が支持するところであった。
 しかし平成に生まれた「リトル・ピープルのいる社会」は、ピラミッド型の呪縛を解いた代わりに、ネットワーク型の呪縛を強固にした。時代は令和に変わり、「リトル・ピープルのいる社会」が定着した今、宇野と大衆は決別している。なぜならリトル・ピープルのいる時代とはヨコの関係の数が評価軸となる時代だが、ヨコの呪縛にストレスを抱えていない感覚のほうが、圧倒的にマジョリティだからである。
 そう考えると、宇野の著作において、「より閉じていない」ほうを選ぶという思想は一貫しているが、「よりタテの呪縛が強くない」ほうを選ぶという思想は「よりヨコの呪縛が強くないほうを選ぶ」という思想に変化している。つまり、初期の批評のテーマ「ピラミッド型呪縛への拒否」が、近年では「ネットワーク型呪縛への拒否」へと移向したといってよいだろう。
 ここでいうネットワーク型の呪縛とは、宇野の著作のタイトルでもある「母性のディストピア」的な関係性でもある。母性の呪縛とは、父性型のタテの権力ではなく、ヨコの関係性のなかで相手を閉じ込めてゆくことだからだ。実際、著作『母性のディストピア』(集英社、2017年)の中でも、母性が受けとめてくれる現象とSNS空間が重ねて記述されている。そう考えると、『母性のディストピア』は、はじめてピラミッド型社会=タテの関係への批判ではなく、ネットワーク型社会=ヨコの関係への批判を行った著作であることに気づかされる。つまり宇野常寛の思想を「ピラミッド型の呪縛への拒否から、ネットワーク型の呪縛への拒否へ」と整理すると、実は『母性のディストピア』こそがターニングポイントだったのだろう。
 初期の著作『リトル・ピープルの時代』における宇野の主張は、「よりタテの呪縛が強くない」場所を選ぶことであった。しかし『母性のディストピア』以降、『遅いインターネット』や『砂漠と異人たち』で主張するのは、「よりヨコの呪縛が強くない」場所を選ぶことなのだ、と言える。
 後者の主張は、まだ時代の、あるいは大衆の感覚と一致していない。だから「提言」という形になってしまう。では本書のなかで、宇野はどのような提言を行ったのか。
 宇野は、自分たちを取り巻く関係性を、ネットワーク的な「ヨコ」ではなく、社会のピラミッド的な「タテ」でもなく、より大きな「タテ」として意識する――つまりは歴史を想起することを提案する。それは宇野が京都において「歴史に見られる」感覚を得た経験から着想を得ているという。

 それは歴史を見るのではなく、歴史に見られる体験だった。自分がその物語の登場人物として、歴史の当事者として関与しているという実感はない。しかし確かに歴史は存在していて、自分の等身大の生活にも強く、深く影響している。そのことを僕はあの街で暮らしているときに、「見る」ことではなく「見られる」ことで感じていた。そこには、「いま」自分が閉じたネットワークの相互評価のゲームでどのくらいスコアを上げているかという問題を超越した、時間的な自立を与えてくれる感覚が、それも日常の、生活の内部に存在していた。人は歴史に見られながら暮らすことで、閉じたネットワークの時間的な外部の存在を意識するのだ。
 ロレンスに、そして村上春樹に欠けていたものが、ここにあるように僕は思う。彼らの失敗は歴史を見ようとしたことにある。(同前)

 宇野はロレンスと村上春樹の共通点を、歴史を「見る」ことに執着したことだと設定する。ロレンスは砂漠を、歴史の舞台として見ることから冒険をはじめた。村上春樹は、イデオロギーに縛られずにデータベースとして歴史を見ようとした。しかし歴史を俯瞰で見る対象にしてしまうと、歴史を自分とは無関係の外部と捉え、自己幻想を強化し、逆に自分が評価されることに拘泥してしまう。歴史に見られる感覚を取り戻すことで、ネットワークの外の、関係の外にある世界を思い出させてくれるのだ、と本書は提案する。
 自分の外にある場所の獲得。それはまさに宇野がデビュー作から探し続けてきた、「より閉じていない」場所そのもののことなのだろう。たしかに生活のなかでふと現れる歴史的建造物や歴史を感じさせる道のりは、遥かなる過去の時間まで開けているように感じる。自分に近い場所にある関係に拘泥するのではなく、自分から遠い場所にある遥かな関係を認識すること――つまり歴史のような大きな時間単位の場所まで思いを馳せ、旅をすること。そうすることで、より開けた場所に向かうことができる。批評家・宇野常寛は本書でそう説いている。
 昭和のタテ型ピラミッドの中で潰されるのでもなく、あるいは平成のヨコ型ネットワークの中に閉じ込められるのでもなく、より開けた、人間外の事物によって見られることで、自分たちも変化させられる。それが本書の提示する、ロレンスたちを救う道なのである。
 そういう意味で、『砂漠と異人たち』はまさに紀行文という、その場所を「見る」行為を描いた作品であるとみせかけて、実は批評という、場所に「見られている」自分を描く作品だと言えるだろう。砂漠に行ってきた話を書くことは、「自分の物語」に終始する。しかし本書はロレンスや村上春樹、吉本隆明などの「他者の物語」を経由する。それによって砂漠にいる自分ではなく、今ここにいる自分の物語――つまり批評を描くことができるのだ。「他者の物語」を通して「自分の物語」を綴る。それこそが批評なのだと、本書は提言という実践を通して語っている。小林秀雄は『様々なる意匠』で「批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!」と言っていたが、彼の言葉を持ち出すまでもなく、批評とは他人を評しながらその実、自分について語っているのだろう。本書で行われている実践は批評の原点に帰って来た末の、ある批評家の旅路の帰着点だったのかもしれない。

日常の中の砂漠

 本稿では、宇野常寛のデビュー作から最新作に至るまで、その思想と主張の変遷を辿ることで、宇野が現代における呪縛の様相を「ピラミッドからネットワークへ」と捉えていることを示した。それは日本社会の圧力が、タテ型の呪縛から、ヨコ型の呪縛に変わっていることを確認する作業でもあった。
 ネットワーク型の呪縛はともすればピラミッド型の呪縛よりもストレスを自覚しづらいものであり、SNSは自分の物語として消費できるエンタメとして捉えられている側面もある。しかしやはりそこには呪縛が存在する。ロレンスや村上春樹の在り方を点検するまでもなく、ヨコ型の呪縛によって私たちはその副作用を被っているのもたしかなのだろう。
 砂漠に行くことは難しいが、SNSから少し離れて歴史のなかに身を置くことは簡単だ。私たちは自分のネットワークの外側に何があるのか、砂漠を旅するように日常の内側から、それを探すことができるのだと、本書はその思考の旅路を経た軌跡をしのばせている。


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