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第14回

 尚吾は、頭の中をぐるぐると回転させる。自分にも何か提案できることがないか、思考を巡らせる。もう何の選択もできません、今日使える分の判断力は使い果たしました――そう喚いている頭のエンジンを、無理やりふかす。

 学生時代にも、こういう瞬間はたくさんあった。ある一つのシーンをコンテ通りにいざ撮ってみたものの、何かが違うと悩む時間。もしかすると、撮影期間のうち最も多い割合を占めているのはそんな時間かもしれない。この、“何か違う”は、頭に一度過(よぎ)ってしまったが最後、編集でどうにか調整できるレベルなのか、画面の構図、はたまたロケ地から考え直したほうがいいものなのか、あらゆる選択肢がもう簡単には消えてくれなくなる。
 尚吾はそういうときいつも、映画というものは本当に生ものなのだと実感する。生きている人間が演じる以上、頭の中で描いていたシーンと現実では、必ず何かが異なる。

「監督」

 占部が果敢にも、また、口を開く。

「確かに顔のアップよりはわかりづらくはなるかもしれませんが、引きの映像でもきっと、彼女の心が晴れやかだってこと、仕草ひとつで伝えられますよ。たとえばスキップしてるとか、それはちょっとあからさますぎるかもしれませんが」

「なるほど」

 占部と鐘ヶ江の会話を聞きながら、尚吾は思う。いま自分は、自分以上に悩み続ける人ばかりに囲まれているのだと。

 学生時代は常に、自分だけが徹底して悩み続けていた。紘は直感型で、そもそも撮りながら悩むということをしないタイプの作り手だったし、周りのスタッフたちも、細かな部分にこだわる尚吾ととりあえず顔を突き合わせて話し合う姿勢は取ってくれるものの、一人、また一人と、選択することを諦めていく空気を発していくのがよくわかった。そんな細かいところこだわったって誰も気づかないって――悩んでいるポーズは保ったまま、思考の綱から手を離す音がはっきりと聞こえていた。

 神は細部に宿る。尚吾はそう信じているし、それは鐘ヶ江がインタビューでよく発している言葉でもあった。

【神は細部に宿る、これは本当にそうだと思います。細部にこだわってこそ、余計なところで引っかかることなく二時間の映像をスムーズに観終えることができる。質のいい映画の大前提とは、物語とは関係のないところで観客が違和感を抱かないことです。そのためには構図、音、様々な部分で細部にこそこだわるべきです】

「監督、日が暮れ切ってしまう前に、引きのカットも撮っておきませんか」

 占部の提案に、鐘ヶ江はついに「なるほど」とも言わなくなった。

 鐘ヶ江は、一応撮っておく、ということを、よしとしない。頭の中に勝算が、コンテを超えるようなビジョンが生まれてやっと、動き出す。そして尚吾は、占部には場の空気が行き詰まると「一応撮っておく」と提案してしまう癖があることに気づいていた。そのたび、鐘ヶ江の表情が少し厳しく引き締まることを、見逃せるはずがなかった。

 ――考えすぎなんじゃない?

 突如、頭の中を、紘の声が駆け抜けていく。

 紘から、確かに、そう言われたことがある。なぜ紘がそう発言するに至ったか、経緯までは詳しく覚えていないが、『身体』を撮っていた期間だということは間違いない。不思議とそういう記憶は身体感覚のほうを強く覚えているもので、確かそのときの自分は駅のホームで電車を待っていて、重い荷物を抱えた全身はくたくたに疲労していたはずだ。

 鐘ヶ江の瞳が、黒よりも暗くなったり、海面のように波打ったりする。考えているのだ。

 尚吾は改めて、考えすぎる、なんてことはないと思った。細部にこだわってこそ、質のいいものが作れる。それを今、目の前にいる人が証明し続けてくれている。

「尚吾」

 鐘ヶ江の瞳が不意に、尚吾を捉えた。

「お前はどう思う?」

 尚吾は、鐘ヶ江の視線を真正面から受け止める。鐘ヶ江がその内面に抱える遥かな創作の海に、尚吾の感性のすべてが呑(の)み込まれていく。

 自分の何倍もの濃度で、ずっと細やかな解像度で、映画のことをひたすら考え続けている人。他人からするとどうでもいいことにどれだけこだわったとして、きっと、笑ったり、呆(あき)れたり、ましてや考えすぎだなんて絶対に言わないだろう人。

 作品の質を高めることに関して、どんな苦労も厭(いと)わない人。

「たとえば」

 尚吾は、鐘ヶ江に対して、そして鐘ヶ江の瞳の中で目を輝かせている自分に対して、話しかける。

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