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#23 比較

たまに自分のnoteでの投稿に不安を覚えるときがある。就活のための自己分析のため、主に自分のために始めたnoteとはいえ、やっぱり閲覧数とかいいねの数とかがはっきり見えてしまうから、自分の投稿がいつも平均して3いいねくらいなのを鑑みて「ああ、自分のnoteってやっぱり自己満足の垂れ流しでしかなくて、このnoteというプラットフォームで発信する意味ってあるんかなあ、日記で書き留めるだけで十分じゃないかなあ」とかたまに思ったり。

そういう自分の投稿にネガティブな感情になったのはやっぱり、自分の中で大半を占めている「劣等感」という感情のせいだと思う。

周りでnote書いている人も多いから、どうしても他の人のすごい投稿とかみて「自分が投稿する意味ってなんかあるんかなあ」ってほんのちょっとだけぼんやり考えてしまう。

まあ自分の思ったことの記録としてここでこうやって書き記して、後から自分の投稿を見返して面白いなあって思うときが多いし、なんか日記は続けられなかったから、自分のためにもnoteは全然やめるつもりはないのだけど、、

こういうことをふと考えているときにモヤモヤしたことが、「こういう劣等感とか他人と比べることをやめることは果たして可能なのか」という問題。

「人と比べるのはやめましょう」「他人と比較するのは鬱になるだけ」

そういう助言をもう嫌というほど聞いてきた。でもだからといって、「人と比べるのをやめる"方法"」まで教えてくれる人ってそういえばいなかったなあと。

そりゃあもちろん自分だって自分と人とを比べたくて比べてるわけじゃない。でも社会の仕組み的に他人と比べざるを得ない環境なんじゃないかなと思ったりする。

生きていく上で、もちろん完全に一人で生きていくなんてことはほぼ不可能で、他の人と関わり合いながら過ごすことは必然的なこと。そんな他の人との関わり合いの中で、自分自身を人と全く比べずに生活することなんて果たして可能なのだろうか。また、ほぼ全ての人が経験するであろう教育の現場でも、ある程度の「相対評価」というものは生じるだろう。「平均点に比べて〜、、」とか「他のクラスよりも〜、、」「今回の定期テストでの順位は〜、、」などなど、、だからこそ子どもの頃から「他人と比べられる」というものと隣り合わせで生きてきて、それが癖として無意識的に行ってしまうようになることであるのもある種当然のことなのかな、なんて思う。

もしこの私の意識が正しければ、おそらく大切にしなければいけないことは「他人と比べないで」という文言を強調することではなく、「他人と比べてしまったとき」への対処法や、「他人とできるだけ比べないようにする」には何を意識しなければならないのか、なんじゃないかなあ。

それを伝えている方たちはもちろんたくさんたくさんいると思うのだけど、少なくとも私が大学に入ったときに伝えられたのは「人と比べることをやめよう」ということだけで、具体的な「どうやって」という部分にフォーカスが当てられることはなかったように思う。だからこそ私は今まで「他人と比べないで」と言われるたびにモヤモヤした気持ちになっていたのだと思う。「そんなん無意識にやってしまうんやからどう頑張っても避けられへんねん!」というような感じで。

だから今回は、自分で、どうやったら他人と比べるのを最小限に抑えられるかを考えてみたいと思う。

①自分の考えを明確に持つ

初っ端からありきたりかつ冷静に考えると難しいやつ。でも私的にこれを実践してから気が楽になったと感じる。

私が他人と比べなくなってきたのはごく最近のことで、この投稿を書いたとき。

大体要約すると、「周りの人の就活を見て焦ってしまい、色々企業とかの就活頑張ろうと思ってたけど、結局自分がなりたいのは教師でしかなかった」というもの。

それに気づくまでは、「自分は他の人に比べてやりたいこともないし就きたい職業もない」とか、「他の人より就活出遅れてる」、「インターンとかしたほうがいいのかな」とか、とにかく他の人基準で物事を考えていた気がする。

でも教師になりたいと思ってから、それに歯止めがかかった。どっかでインターンしてる人を見ても「別に他の人と進路違うし、自分が必要だと思う道だけ取捨選択していけばいいかな」とか「自分には必要ないことだから別に劣等感を抱く必要はない」みたいに、自分の進路が明確に見えたことで人と無条件に比べることが減った。

同じ進路に向かっている人が自分より先を進んでいても、「あ、同じ進路目指してる人こんなことしてる、こういうことが必要なんだな」みたいな感じで「やば、この人こんなに進んでる」というよりかは「自分がしなければならないことを示してくれている」みたいにポジティブに思えた。

たぶん進路が決まっていない時は、目指す先が全く見えないから不安で、進路が決まってないが故にいろんな選択肢があって、「これやるべき?」という感情と共に、周りの行動している人全員に対して劣等感を抱いてしまう傾向にあるのだと思う。それに対して進路が決まってる場合は、「自分もこれやらなきゃなんだ」と、決まっている目的への、絶対に経験しなければいけないステップを見ているような気持ちでいられるというか、、(伝わりますか?)

というような感じで、とにかく個人的には自分探しをしたその先はそこまで劣等感を抱かなくなったなと思います。

でもそれは「他人と比べる中で自分を探していく」過程の先で達成した境地でもあるので、やっぱり「他人と比べること」は必要不可欠なこと、必然的に経験しなければいけないことでもあると思う。

「他人と比べること」、悪いこととして完全に排除させようとするのはちょっと違うんじゃないかな。人と比べて、自分の長所や短所を見つけられる、人生において大切なアクション。もちろんそれで病んだりするのは良くないけれど、「人と比べるのはダメだ、やめよう!」っていうネガティブな思考よりも、「人と比べるのもどうせは人生につきまとうものだし、結局は自分のため」と思えたほうが少し気が楽なのかなあと思ったりもする。

②他人の情報を物理的に遮断する

「他人と比べることはある種必然的なこと」という前提の上で、その他人との比較のダメージを最小限に抑えるのに一番効果的なのはここに落ち着くのではないのかなと思う。

この前私はインスタログアウト宣言をここでしたわけですが、割とそれはいい判断だったと最近感じることがあった。

インスタログアウト、実は失敗に終わっていて、ログアウトしてからインスタでしか繋がっていない、しかもたまにDMで連絡してくれる留学生の友だちが一定数いることを思い出して一週間後くらいにまたログインしなおした。案の定その友だちからDMが来ていて申し訳ない気持ちになったし、全然想定もしていなかった友だちからも何件か連絡が来ていて、普通に未読無視的な形になってしまっていて申し訳なかった。

そんなこんなで一応ログインはしたのですが、なんせ一週間ほどはインスタから離れていたので、ストーリーを見る癖(?)みたいなものがなくなっていた。前は朝と夜、1日に2回ほどみんなのストーリーを見ていたのですが、今はそれをしないでおこう、とかじゃなくて、普通にしなくなった。

だけど、ストーリーを見なくても、友だちの煌びやかな生活の様子は投稿を通して嫌でも目に入ってくる。それを見たときに、結局また「うわ、みんなこんな感じのことしてるんか、、私やばいんかな、、」と反射的に思ってしまった。それは、私が「教師になりたい」と強く思った後に起こった出来事だったので、結局自分の将来の道をはっきり自覚してもなお、他の人の"良さげな"生活の一部を見ると、なんだかんだ自分のものと比べて気分が落胆してしまうんだなあと再確認した。

ストーリーを見なくなったことでそういう機会は圧倒的に減りはしたけれど、やっぱり物理的に他の人の生活が覗けてしまう状況にあると、劣等感っていうものは常にあり続けるものなのかなと思う。

インスタ見てモチベーションをもらったりするとかは絶対あると思うからもちろん完全に外界を遮断とかはできないと思うけど、外界に晒されすぎな生活が当たり前になってしまっているなら、少しそれと離れてみると心が軽くなることもあるのかな、という私の勝手な妄想。特に自分と身近な状況にある人の情報には要注意な気がする。同じ状況下にいるはずなのになんで自分だけこんな何もしてないんやろう、、みたいな気持ちになりやすいので、、


この2つが今私が考え出せる劣等感を最小限にする方法かなあ。どうしても他人と比べてしまいすぎて病みすぎたときの対処法は人それぞれ違うと思うし、私はまだ見つけられてません。他人と比べるということは自分が成長する機会でもあるかもしれないので、上手く付き合っていく道を細々と見つけていきたいという気持ちでいます。

こちらは最近いる場所での星空の様子。こっちに留学してから星が全く見えなくて、この国では星は見れないのかなあと残念に思っていたのでここで星が見れてすごく嬉しいです。The big dipperが下の方にあります!