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人に気を遣えることと、遣い過ぎることは真逆のこと【毎日note】#28

「ちょうどよく」人に気を遣えるようになりたい。

「ちょうどよい気遣い」とは、ありがちかもしれないけど、知らないうちにそこにティッシュを置いておいてくれた、みたいな。必要な時に必要なものを提供できるような、気遣い。気遣いとも感じさせないくらいの、さりげなく誰かをサポートできるようなこと。


私の場合、気を遣えないというより、過度に遣い過ぎる。それはもう、気を遣っているというよりは、ご機嫌取りのレベルなのだ。

相手を怒らせたくないし、機嫌を損ねてほしくないし、私といて不快感を感じてほしくない。相手との間に、重い空気が流れることを過度に恐れている。

なんとなく原因は分かっていて、子どもの頃から、体育以外は成績も悪くなかったし、資格試験とかもほとんど落ちたことないし、大きな失敗をしたことがなくて(ハードルの高いチャレンジをしたことがないとも言える)、バツ印をつけられることに、この年になっても慣れていない。だから、「低評価をされることを避けること」に、エネルギーを注ぎすぎるのだ。

これは、空気を読み過ぎる、というのとは少し違うニュアンスなんだけど。

だから、なるべく楽しい時間を害さないように、腹が立っても我慢するし、つくり笑いもする。敏感な人だったら、私の異様な気遣い、あるいは下から出たような態度に、不快感を示すレベルだろう。でも私は逆に、そこまで相手を「読める」人には、気を遣わずにいられるのだ。なんとなく通じ合えるような、さばさばとしてこだわらない人なら。

問題は、気を遣われていると1ミリも感じない人だ。なんなら、のほほんと、私のことを「やさしい人だね」なんて思っていたりする。永遠に私の過度な気遣いを受け取り続けるから、私は自分を立て直す機会を逸して、永遠にその態度を続けてしまう。

いや、そういう相手が悪いというのではなくて。

私ががまん強くて海のようにおおらかならいいけど、そうではないので、気を遣い過ぎた結果、あっというまにストレスが限界値を超えて心が拒絶反応を起こしてしまう。「この人と会うのは疲れる」という感覚が刻印されてしまう。

私は本当は悪くないのに場を繕うために謝ったり、本当は怒っているのに笑って流したり、そういう「不健康」なことを、勇気をもってやめるべきなのだ。繕ったり、笑って流すことをやめて、イヤだと思ったことはすぐに言うべきなのだ。

それで離れてしまうならそれまでの関係、それまでの相手。それくらいの勇気って、自分の人生をちゃんと生きるためには最低限必要、くらいの絶対身に着けるべき態度なんだ、本当は。

でも、誰にだって相手によって合う合わないはあるし、単純に合わないだけなのか?とも思う。私だって、相手によっては気を遣わない。


もしチャンスがあるなら、伝えてみたい。

今日までしたガマンを、全部やめるねって。

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