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⑧祖母への電話、一世一代の決心

「差別」というひとつのテーマにたどりつくと、世の中のあらゆることに無知だったわたしは、手当たり次第にいろんな本を読んだ。

でも本だけでは分からなくて、そこから生まれた疑問に導かれるままに、あちこちを訪れた。

重度の身体障害があって自宅のドアを開けるのに30分もかかるけれど、自立して暮らすことを諦めない人々
豊かな内面の世界を、言葉の代わりに絵や織物で表現する知的障害の人々
カンボジアの児童買春の現場と、その問題を本気で解決しようと活動する人々
ガーナの首都から車で6時間離れた、カカオ畑の真ん中の農村で暮らす人々

身近な社会から遠い大陸の日常まで。
分からないほどに、知りたくて、見たくて、考えたかった。

そんな経験をもとに、記者を志すようになり、運よく新聞記者として採用された。

一日一日が、新しい自分に生まれ変わるような衝撃だった。

1年経っても、2年経っても、3年経っても、「知らなかった」という驚きに終わりはなかった。笑い、泣き、怒り。心のいちばん深いところの感情が揺れ動きだし、日々に彩りがうまれた。

囲われ、守られ、安全なところにいた時には、生きていることがぼんやりとしか感じられなかった。それが同じ社会に住む人たちと出会い、終わりのない対話を重ねるごとに、生の輪郭がくっきりと鮮やかに浮き上がってきた。

これまでにないほど、鮮明に。

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すると、押さえきれなくなった。

祖父母のことを知りたい、という気持ちが。

だって、想像がつかないのだ。

あの穏やかで、優しくて、公園に連れて行ってくれて、運動会にもかかさず来てくれて、あんぱんを食べて「おいしいね」と笑い合ったおじいちゃんとおばあちゃんが。

違う国に生まれて、違う名前で、違う言葉を話していたということ。
その国には、母がいて、父がいて、きょうだいがいて、友だちがいたということ。
でもそこでの生活は、日本という国の占領下で、自由も言葉も奪われていたということ。
親やきょうだいと二度と会わない決意で、生まれ育った国を離れたということ。
それから60年間、名前も出自も明かさずに生きてきたということ。

「おじいちゃん」でもない。
「おばあちゃん」でもない。

ひとりの人としての歴史を、知りたくて知りたくて、その気持ちを押さえることができなくなった。

地方で4年の記者生活を終えると、東京に戻ってきた。

そんなある日。

「知りたい」という熱風のような衝動が、体の奥底から湧き上がって、いてもたってもいられなくなった。

今を逃したら、もう二度とチャンスはない。

熱にうかされたように、これまでわずかに聞きかじった、ウソかホントかも分からない家族のはなしをノートに全部書き出した。

そして、祖母に電話をしよう、と決めた。

「ぜんぶ教えて」とお願いするために。

頭の中で、ストーリーを考えた。なんと言えば、教えてくれるだろうか。いちばん自然で、「じゃあ、」と抵抗なく話題に移れるようなストーリーはなんだろうか。はじめて言葉にするお願いに、心臓がバクバクと鼓動し、ひどく緊張していた。

何度かためらった末に、電話をかけた。

「もしもし、おばあちゃん?」

元気?うんうん、こっちはね、仕事終わるのが遅くてちょっと大変だけど、まぁ大丈夫。帰りも車で帰れるし。うん、危なくないよ。家のすぐ近くにコンビニもあるんだ。

………あのね、おばあちゃん。この前取材で、在日の方に話を聞かせてもらったんだ。本当に知らないことばかりでね。うん、そうなの。すごく大切な話だと思ったんだ。……それでさ、その時、おばあちゃんとおじいちゃんはどんな風に過ごしていたのかな、と思って。おばあちゃんの話も聞きたいな、と思ったんだけど……

「そんなこと聞いてどうするの」

電話口で祖母は優しく笑った。

「あんたは、なにも知る必要ないんだよ」

かえってきたのは、15年間変わらない答えだった。

頭をガン、と殴られたかのようなショックだった。どこかで、期待をしていたから。「いいよ」とは、言わないかもしれないけれど、言葉にできない気持ちも意図も汲み取って少しくらいは歩み寄ってくれるだろう、と。

電話を切ると、涙がでた。

でもそれは、断られたショックのせいではなく、自分のズルさに。

結局、わたしは勇気がなかったのだ。正面から向き合う勇気が。

これまで取材で、たくさんの人の話を聞かせてもらった。

取材は、いいことばかりを聞くわけではない。時には、大きな痛みをともなう記憶をこじあけて、その人生の一部を聞かせてもらうこともある。

人生の奥底深くに踏み入れるほど、聞く側も覚悟を決めて、自分を開いて、向き合わなければいけない。経験から、そう学んでいた。

でも、わたしはその勇気がなかったのだ。

断られないだろうとタカをくくっていた。
だって、わたしはおばあちゃんの大好きな孫だもの、と。

わたしには、祖母の人生に真正面から向き合う覚悟ができていなかったんだ。

断られて、当然だった。

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数日後、仕事が休みの平日の昼下がりに、祖母を訪ねた。

家に行くといつも、「よく来たね」と満面の笑顔で両手を広げて、迎え入れてくれる。学生のころは、その仕草が大げさに感じられて、気恥ずかしさと少しのうっとうしさも感じていた。

この日は、いつもよりさらに、ちょっと大げさなような気がした。きっと、電話の日のことを気にかけてくれてるんだろうな、と胸がチクリと痛む。

熱いお茶を飲みながら、お菓子を食べていた時。

「あのねぇ」

先に口を切ったのは、祖母だった。

今から5年前のことだ。

そこから、わたしたち家族のはなしが始まった。

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