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女の子だからじゃなくて、「わたし」だから

この前、会社で男性の先輩たちと話していたら、地方議会には女性議員が少ない、という話題になった。

「候補者男女均等法もできたのに、政党はやる気あるのか」「女性候補者を増やすためには」などと途切れなく先輩たちを前に、わたしも自分の意見はあるから会話には参加しながらも、本心では「わたしは興味ありません」と吐き捨てて逃げ出したかった。その場で唯一の女性であるわたしが当然、関心と問題意識を持っているよね、と思われていることも嫌だった。

女性議員を増やす必要性や意義は分かるつもりでいるが、こうやって社会の中で女性が語られる場面に対する、胸の中のもやもやした怒りのような感情が、適切な言葉を見つけられずにうずまいていた。

会社からの帰り道で気づいた。
わたしはこう言いたかったのだ。
「女だから、男だからとか関係なしに、まだ『わたし』が主語で生きていけないのか」、と。

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福井出身の父と東京育ちの母の元で大学まで過ごした。

父方の祖父母は、「女の子だから勉強はしなくていい」という典型的な古いタイプ。高校卒業後は就職して、結婚するのが幸せだと信じている。

一方で、戦後、仕事探しに苦労した母方の祖父母は、「女の子だからこそ学問が大事」というタイプ。勉強していい大学を出て、どんな時代でも食いっぱぐれないように生きていく力が必要だと思っていた。社会の中では、女性だからこそより苦労する局面がある、というのが骨身にしみていたのだろう。小学生の頃から、なんでもいいから資格をとりなさいと言われていた。

薬剤師の母はその考えをそのまま受け継ぎ、会社員の父はどう思っていたのか知らないが、母の教育方針に従ってお金を出してくれた。わたしは、中学受験をして、都内の中高一貫の女子校に進学し、有名な大学にいった。

中学受験のための勉強は、体調を崩して入院するほどシビアだった。でも、父方の祖父母から物心つくころから聞かされていた「女の子だから」という言葉には、結婚して、子どもを産むことを当然とする、動物の雌に対するような視線が感じられて、どうしようもなく気持ち悪く、逃げ出したかった。

ふらふらになりながら勉強た結果、中高一貫の女子校で6年間過ごした。今から思えば、思春期に異性の目を気にせずいられたことは、わたしにとってすごくよかった。

異性の目は時に、わたしにとって大きな障害だった。

わたしが通っていた1学年2クラス計60人の小学校では、中学受験をするのは2、3人。中学受験のための塾に通っていたわたしにとって小学校の勉強は簡単だった。テスト開始から一度も迷うことなく5分ほどで答えを書き終わるため勉強では一目置かれていたけれど、運動は人並みだった。

小学校の高学年から、わたしは体育で失敗することを強烈に「恥ずかしい」と感じるようになった。学校の大きな時間を占める勉強は「できる」だったから、体育の「できない」が目立つというのもあったと思う。

でもそれ以上に、好きな男の子の存在があった。
2人1組で馬跳びをする時、思い切りが足りなくて、好きな子の頭を蹴ってしまった時は、胸がカッと熱くなってろくに謝れなかった。次回から側転や倒立だと教師に言われれば、家の和室でできるようになるまで練習した。基本をクリアした人がさらに難しい技に挑戦するのを横目に、わたしは失敗しない技を繰り返した。

それと比べると、中高時代は本当に楽だった。
良くも悪くも自分の性別を意識したことなんてなかった。

男子がいない環境では、女子である前にわたしはわたしだった。面白いことがあればゲラゲラ笑い、ろうかを歌って歩き、体育で下手な創作ダンスを披露した。大学受験の時期は、前髪と横の髪をピンで全部とめて、頭を冷やすために冷えピタをして、マスクをして、空き教室で脇目を振らず参考書と過去問を解きまくった。

あの時、「女の子」である前に「わたし」としての人生を歩み始めることができた。そして同じように「わたし」として生きる友だちもできた。周りの目を気にせずに、目指す場所に向かって走ることができた。

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結局のところ、わたしは「女の子だから」という言葉から生み出される、つまらない概念や他人からの視線から抜け出そうとしてきたのだ。

50代半ばの大学のゼミの教授は、
「私は女であるから、人より何倍も強くあらねばならぬと思って生きて参りました」と言い放つ人だった。ピンと伸ばした背筋、真一文字の口、睨みつけるような目。圧倒された。

でもわたしは、教授のことを怖いと言って目をそらすことも、ヤバイねと笑うこともできない。そうして生きてこなければ道が拓けなかった時代があったのを知っているからだ。きっと教授も生まれてきてからついて回る「女の子なんだから」という呪文を振り払って振り払って、ようやく息をしているのだと思う。

でも、と思う。
本当はもっと肩の力を抜きたいな、と。わたしは女性である。それはわたしの中の変わらない大切な要素なのだ。

それでも、ジェンダーとしての女性の話題になるとハッと身構えて、ちょっとでも下に見られるようなニュアンスを感じるとシッポを踏まれたネコのようにギャっと反応し、さらには、わたしはもう男だ女だと言われる古い社会は抜け出して自由に生きていけるから関係ない、なんて知らんぷりをしてしまう。わたしはまだこの呪縛から完全には自由ではないのかもしれない。

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