⑨「あのね」からはじまる、家族のはなし
朝鮮半島出身の祖父母の生い立ちや、日本に来た経緯について、祖母はいちども口にすることはなかった。わたしも、知りたいという気持ちを抱えながら、いちども「教えて」と口にしたことがなかった。
「触れてはいけない」。ルーツを知った12歳の時から15年間、ただひとつの掟が、暗黙のルールとして静かに、重く、横たわっていた。
でも、もう「知らない」ということに耐えられなかった。
2019年の初夏のことだった。
「掟破り」の一大決心をし、祖母に電話をかけた。「教えてほしい」とお願いをするために。しかし、それはあっけなく拒絶された。「知らなくていい」という、最初から変わらない一言によって。
それから数日後。気まずい思いを抱えながら祖母を訪ねると、いつものように「よく来たね」と温かく迎え入れてくれた。お茶を飲みながら、「あのね」と切り出してくれたのは祖母だった。
***
「あのね。この前新聞でね、金時鐘(キム・シジョン)さんの連載があったでしょう。それを読みながら、『あぁ、あんたが知りたいのはこういうことかなぁ』と思ったの。でもね、わたしほんと知らないのよ。子どもだったんだもん。だから、ごめんね。」
真っすぐにこちらを見つめて、話す。口調は柔らかい。電話口でわたしが言葉につまったのを感じ取っていて、「あなたが嫌いだから、ああ言ったんじゃないよ」と、優しくもう一度伝えてくれているんだろう。
「でもね、それでも知りたいんだ。おばあちゃんが見てきたことを、知りたいの」
勇気のないわたしは、うつむきながら答える。
1929年に釜山で生まれ、48年に日本に来て、以降、在日として生きてきた詩人の金時鐘さんの連載は、わたしも読んでいた。美しい名前が印象的だった。
その15回の連載は、日本統治下の朝鮮で「皇国少年」として育った少年時代から、日本の敗戦とともに解放を迎えた混乱、軍や警察によって数万人が虐殺された「済州道4・3事件」から命を懸けて日本に逃げてきた経緯、日本で在日として生きていく覚悟に至るまでが語られていた。通底するのは、祖国と生き別れた両親への想いだった。
日本に来た年代もその動機も、祖父母とはまったく違う。けれど、2人と年齢が近しく、これは金詩鐘さんの生きた歴史なんだと理解しながらも、2人の姿を重ねずにはいられなかった。
その時、ぎこちない空気を突き破るように、つけっぱなしのテレビから韓国語がリビングに弾けた。
何かのドラマか映画の、短い予告のようだった。
「今の韓国語って聞き取れるの?」と聞いてみた。
「全然だよ。わたしね、60年前に日本に来てるの。それから韓国人のお友だちも作らなかったし、おじいちゃんと2人でね。だから全然」
たぶん、そんなことはないんだろうな、と理解する。日本語であっても、最近のテレビはやかましくがなり立てるだけで何を言ってるかわからない、とよく不満をもらしている。これもそういうことなんだろうと頭で補正しながら、続けて聞いてみる。
「おばあちゃんって、日本語教育を受けていたんだよね」
「もちろん。小学生までだったけどね。幸いわたしは本が好きだったから。文学者の父親をもつ友だちがいてね。その子の家には、日本語で書かれた世界の文集もたくさんあって、『これも貸して』『これも貸して』と夢中になって読んだのよ」
祖母の顔に、かすかに誇らしげな表情が浮かぶ。
「じゃあ、家の中でも友だちとも日本語使ってたの?」
「うーん、どうだったかな。家の中では、ハングルと日本語混ざってたんじゃないかな。親も両方できたから」
「ハングルは、見たことはあったのかな?」
「ない、ないない。あると知らなかったの。新聞も教科書も日本語だもん。話すには話せたけどね。小学校終わる時に、日本が戦争で負けたでしょ。だから学校では、中学に入ってはじめてハングル習ったの」
「えーそうなんだ」
「日本が撤退すると、政府が全部韓国語に統一しましょうと。でもね、わたしはあれが嫌だったの」
「なんで?」
「平仮名だけで書かれた小説が面白い?それといっしょ。ハングルだけで書かれてると、読みにくいんだ。漢字ならパッとみて分かるのに。わたしずっと日本語で文学を読んでいたのよ。三省堂のコンサイス英和辞典も使ってたし」
「じゃあ、急に中学から韓国語になって大変だったよね」
「でもわたし、覚えるのは早かったのよ。その後、国語の先生にもなったんだから。うちの母親が学がある人でね。戦後すぐに、漢字をハングルで読むやりかた教えてくれて」
***
「これでおしまい」
え、おばあちゃんって先生だったの?と続けて聞こうとするのを、にっこりと笑って制すると、いつものおばあちゃんに戻っていった。
それからわたしは、時間を見つけては祖母を訪ねた。そして、ぽつぽつと語られる話に耳を傾けた。家に帰ると、その日聞いた話を全部ノートにメモしていく、ということを繰り返した。
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