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女子だった疑惑に動揺するけど ― こころ暖まるところへ


男性だなと思ってある方の文章を読んでた。

そしたら、自分はよく読み手から男性だと勘違いされるんです、という。

おおっ、知らぬ間にじぶんが勘違い野郎に。


わたしにも、「最初、女性かと思って読んでました」という声が時々寄せらて来た。

毎度、くらっとする。

わたしは誰がこれを書いているか、よーく知ってる。長男であるその人の母だって知ってる。

いずれにしろ、当人にとって性不一致は居心地悪い。

でも、なぜ、くらっとするんだろう? 嫌な予感がするおろおろ。



1.女の子の文体?


ふだん、「わたし」と書いています。「僕」とか「オレ」という表現は、独りよがりな匂いがするので好きじゃない。

あるいは「じぶん」と書きます。「自分」だと、リアルなわたしがどこかに行っちゃうような気がする。

「行っちゃう」とか平気で使う。ざっくばらんな気がするんだもの。

この「・・だもの」は、ある詩人のせいです。お気に入りですが。

なるべくひらがなで書きます。

春は断然、「あけぼの」が素敵だ。曙は、目が強く刺さる割になぜか警察署しか浮かんで来ません。

大和言葉となるよう、一旦書いた漢字をひらがなに直したりもする。

特別に身近な存在に対しては、「わたし」、「かのじょ」、「かれ」と書く。生きる姿がなんだか柔らかい。


これだけのことで、女子だなんて思うなよ!って、女性から叱られる気もします。

が、確かに女性のリズムや表現ってあるのです。

女子だと誤解を受け易いのは、この蜘蛛がせっせと紡ぐ文体のせいなんでしょうか?

いや、そもそも、オスではなくメスの蜘蛛だったから、そのように蜘蛛の巣を張りたいだけなのかもしれない。



2.浮かぶ疑惑


わたしは、女の子ではありません。

書いていても、観念的だなぁ、硬いなぁって始終思う。

ということで、この硬直男は、感性豊かに表現したいと密かに願って来た。

言い回しのせいかな、ほろほろとか言っちゃうからかなぁ・・。ほろほろ、辞めようかなぁ・・。


わたしは、男の子です。

説明がひどく多い。

あなたがイメージできる空間を広げるために、わたしは感受性を上げたいです。

で、わたしは感覚的に書きたがる。

やっぱりほろほろと結びたいなぁ・・。


女性が書いていると勘違いされ易いのは、わたしの努力が報われている証拠なのか。

ああ、、でも、、実際そう言われるとショックでわたしはよろよろする。

じぶんがほんとは女の子だったんじゃないか疑惑に動揺するのでしょう。

たしかに、男子が持つであろう構成力がわたしにはないしよろよろ。



3.腑に落ちる


冒頭に触れた文章を読んで、わたしは腑に落ちた。

たしかに、そこに男のリズム、男の表現が微かにあったのです。

だから、わたしの書くリズム、表現は女性のそれに近いのかもしれない。


このようなエッセイでは、書き手は読み手ほどにはじぶんの性を意識していません。

既に性が確定しているつもりでいるので。

その無防備さに、「女性かとおもって・・・」とコメントが寄せられる。

やっぱり、わたしは女性成分多めなのか、、ああ、、わたしゃ、女だったのか・・という衝撃波がくる。


正直にいえば、わたしは、じぶんの中にある女性性を認めたくないのです。

女性はもちろんのこと、性的マイノリティへの偏見も違和感も無いはずなのに。

人はその人らしく生きる権利があると信じているのに。

が、それはあくまでも理屈の上での話。

ことじぶん自身に関する限り、わたしはじぶんの中の女性性を本能的に忌避しているでしょう。

わたしは、男であるという”常識”からじぶんがズレることをとても恐れているのかもしれない。


ビゲ生えるし偉そうに怒るというのは、3次元世界におけるわたしの表現(習性)でしかなかった。

そこでは、仕事ばりばり、がんばるぞっ、妻子を養うっ、というような男を演じていたのです。

そうやって、「男」を強調しないと仲間外れにされ、わたしは生きては来れなかったんでしょう。

でも、文章次元では、わたしは男だという建前は不要で、表現の幅を探るだけになります。

要は、じぶんが入る「入れ物」次第で、ひとは男にも女にも中性にもなるのでしょう。


そう、考えると、男だ女だというのを気にするわたしは、すごく滑稽だし、女性に失礼すぎる。

100%の男は全員、女性から生まれ、女性に育てられた。

99%の男は、結婚をお願いする相手は女性だし。

なにより、誰もが内に男性も女性がいるでしょう。

じぶんの中に根深く巣くう、男尊女卑、なんとかならんのかっ!

男尊女卑は、そう在ってはいけないという道徳論ではないのです。

そうではなくて、ずっとじぶん自身を縛って来た呪縛自体を意味する。



4.実は、男性、女性という表現は関係無い


性不一致となる文章表現って、どれほど顕著な程度なんでしょうか。

まあるいひらがな使って、ほろほろ言えば、ずばり女子になる?

いいえ、あなたは書いてある情報だけでは判然としないと思います。

仮に女性が感じられるといっても、標準からのとても微かなズレを検知する程度でしょう。

ちょっとした語尾の結び方や、読み手への問い方、断定の程度。。

でも、そんなわずかな手掛かりでいいとも言える。


わたしの文章を読んで、あなたはわたしが男性だと判定するかもしれません。

いや、女性かなと思うかもしれない。どちらも起こり得る。

それは、読み手自身が望ましい書き手を創造するからでもある。

手掛かりを見つけてしまえば、読み手が書いてある以上を無意識に追加するでしょう。

読み手は、自分に都合の悪い材料は無視し、求めている情報があればそれを拾い上げて行く。


小説やエッセイは確かに書き手が書いたものですが、そこから先は、読み手が創造します。

想像(創造)の余地があればあるほど、読み手たちの意見は分かれる。

小説自体もそうですが、それが映画化されるとさらに賛否が分かれる。

原作との脚本上の不一致もあるでしょうが、読み手は先に本でイメージを膨らませていたのです。

映像と違って、文字世界では受け手のイメージ生成の自由度が大きいです。


そういう広大な創造の世界に身を置くとすれば、実は性差なんてどうでもいいこと。

太宰の治ちゃんなんて、女性以上に女性になりきって書いてますもん。

文体を決めているのは、女性らしい表現とかではないでしょう。

暖かきこころを入れるに相応しい入れ物が、時々で男性版、女性版、中性版というだけで。



5.こころ暖まるところ


それは、このお話を読むと分かる。『新装版 ムーミン谷の仲間たち』。

ムーミンシリーズ唯一の短編集です。

9つのお話で、ムーミン谷のおなじみの登場人物が新しい面を見せてくれます。

・スナフキンが、小さな「はい虫」に名前をつけてやるお話。

・ムーミントロールが小さい竜をつかまえたお話。

・いじめられて、すがたが見えなくなってしまった女の子、ニンニのお話。

・ムーミンパパがニョロニョロといっしょにいなくなってしまうお話。

・「クリスマス」というものがやってくるので、大騒ぎをして準備をするムーミン一家のお話。

とかとか。ねっ、なんだか素敵でしょ?


あるレビューワーは言ってました。

「ボクがよく眺めているtumblrに流れてきたスナフキンが知らない誰かの拾った靴を履いて歩いていた時、

何故履くのかをムーミンとスニフに尋ねられて、「人の靴を履くと人生変わるかな」って答えた。

「でどうだった?」と聞かれると、「歩きにくいだけ」といって靴を捨てた…という文章を見てムーミンを読みたくなった。

結局、この本にはそういったフレーズの物語は無かったけど、別のとてもいい物語に心あたたかくなった。

本で心があったかくなることがあるんだね。」


ムーミンでは、男や女ではなく、みながそれぞれを生きる。

わたしは、ずっと「男」を演じて来た。

中の女性を避けているつもりだけど、ほんとは、男が嫌で嫌で仕方なかったでしょう。

もっと、柔らかく生きてみたい。ほろほろと泣いていたいんじゃなくて、ほろほろと感じる所から生き直したい。

あなたのこころが暖かくなれるのなら、わたしは男性でも女性でもなればいいのですほろほろ。



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