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朝露のあなた


真夏の朝、庭に出て草をさわるとみな、湿ってます。

日中、お日様のエネルギーが猛然と地上から水蒸気を起こす。

そして深夜から早朝にかけて、気温が下がると水の分子たちは再び地上に降りてきて、露となる。



1.グレイソンの仮説


医者で科学者であるグレイソンが書いた『After』を読みました。

彼の結論は、「脳無しの意識が存在すると仮定せざるを得ない」というものでした。

脳無しの意識。

臨死体験者のたいはんは帰って来た後、まったく違った生を送ってしまう。

かれらは脳が完全停止した後にも関わらず、光に包まれ“愛”の経験をしていた。

それは病院で医者たちが心拍をモニターしていたのです。モニターの波形がピタリ止まる。

ふつうなら、脳に数分間酸素が送り込まれないと、もう死んでしまうところを、たとえば数十分経った後、意識がふたたび覚醒した。

あり得ないことが、心筋梗塞や脳梗塞の者に起こった。

不思議なことに、死ぬはずなのに幾人かは生還した。

そして、それは時間と空間の無い、はてしない安らぎだったという。


グレイソンは非科学を科学にできないものかと50年ほど費やし、この本を一昨年出版しました。

彼はトンデモ話が大嫌いなのです。でも、一切の非科学を否定していたにも関わらず、そのような仮定を置かざるを得ないと結論し、こう説明しています。

たとえば、わたしたちの肉体、特に脳は携帯電話のようなレシーバであって、“意識”が発信している情報を受信しているといえるでしょう。

この比喩はこれから人間たちが何世代もかけて修正していくことでしょう。

現段階でわたしにはこれ以上の説明は難しいのです、と。

発信している“意識”というものが存在する次元、場所、その形は何かと聞きたいところですが、今のわたしたちにそれを描写することは難しいというのです。

彼はそっとこの結論を出版したにも関わらず、世界中で読まれた。私も苦手なんだけど、英語版を手に入れ無理やり読んだ。



2.朝露のきみ


かのじょが4,5歳のころ、ばあちゃんに言われて朝露を集めたそうです。

さあ、みやこや、里芋の葉っぱにころころころがってる露を集めて硯で墨をするのです。

そして今日は七夕だから願いを書きますと。

豪快なばあちゃんがほんとにそんな繊細なことを言ったのか、そのシーンは家の庭だったんだけれども、庭に里芋がそんなところにほんとに植わっていたんだろうか・・・。

遠い淡い記憶なものだから、わたしにはそれが現実だったのか、夢だったのかの区別がつかないの。。


昭和の人たちにとって、里芋はどこにでも植えられていたありふれたものでした。

わたしも庭の畑に大きな葉っぱに朝露がコロコロころがってた記憶があります。

どこにでもある里芋だったけど、そのコロコロは何度見ても不思議なものでした。

大きな葉っぱが半球の水滴を抱いている。

葉っぱを揺らすと、露はまたコロコロところがる。

何度ころがしても不思議でした。

かのじょにも朝露の思い出があるというのです。


水滴はその形態を球にしようとします。

彼もその表面の形態を保つにはエネルギーがいるんですが、水滴くんは使うエネルギーを最小にしようとする。

もっとも少ないエネルギー形態というのが、球状です。

彼には彼の都合というものがあって、四角や三角のようなちょっとエッジのきいた形にしたかったかもしれないのだけれど、ずっと形態を安定化させて置くためには、球がいいわけです。

もちろん、里芋の上で休んでいた朝露くんは、完全球体がいいんだけれど、葉っぱの上では重力で半球につぶされる。


小さな彼女が見上げた里芋の葉っぱは自分の背丈よりも大きかった。

だから、ばあちゃんはこぼれない程度に葉っぱをかのじょの目の高さまで曲げて集めさせたでしょう。

かのじょはころころころがる球体たちをせっせと朝に集めた。

ほんとうに集めたのかも、それで硯をすって字を書いたのかの記憶がない、といいます。

おそらく集めたであろうかのじょは、その後、自分にエゴがあるということを分かって行き、他者にもあって、でも、その他者に合わせることが驚くほど自分が不器用な事実と暮らしました。

ああ、わたし、ほんとはここに来なくて良かったの、、いつ行ってもいいのと言う。

そう、里芋の葉っぱたちが揺れてかのじょを迎えた世界は、メルヘンの世界ではありませんでした。



3.朝露のわたしたち


わたしたちの国、にっぽんでは古来、じんせいは朝露にたとえられてきました。

朝に生まれ、しかしお昼を待たずに消えゆくという。

ほんとにあっという間なんですが、その間、集団的無意識のままに右往左往する強烈なエゴ世界にいる。

なぜエゴばっかりかというと、わたしたちは母の卵子と父の精子がクロスして生まれたのですが、それらはみな他の食物から成っているからです。

わたしたちに生じる精神活動はまさに他の食物たちの代わり身でした。

そうして生まれた朝露自体も他の生き物を食さないと生きれない。

この肉体というパーソナリティが確固として存在しているという確信は、実はかなり危ういものです。


そして、100万種以上の生き物がうごめく世界で、他を食さないとなりません。

競争、保身、戦いが当然のように起こる。

これって、かなりツライ定めです。

で、朝露くんとしては、来世があるんだ、輪廻転生するんだと自分を慰めない限り、いたたまれないでしょう。

ご先祖たちが無知だったと簡単には片づけられないのです。

そのようなメカニズム、次元があるかどうかより、そうでも思わないと救いが無かったんだ、とわたしは思います。



4.朝露のあなたの元


アジズは、1粒の雫(しずく)に映った太陽の光についてこんな表現をしていました。

「雫が作られている水は、肉体であり、わたしたちの物質的な姿です。

この雫の表面に付いているホコリがあなたというパーソナリティ、あるいはエゴだといえます。

その雫の内部の光は、あなたの魂の光となります。

この雫の内なる光は、太陽に属しています。

魂の光は、太陽から借りてきているもので、“最愛なるもの”という光の光源なしにはあなたは存在できません」。


彼はもちろん、“例え”として表現しています。

わたしという朝露の中に光が満ち、それが精神活動を起こしているのだけれど、それは太陽という大本から来ている。

みなは様々な水滴で、しかもたった1つの光源から発せられた光をそれぞれが浴びている。

それぞれの個人は、自分が水滴であること、水滴に同じ源から来る光が入ってることも気が付かない。

そして、太陽を見る角度はそれぞれの水滴の位置、ホコリの付き具合で微妙にみんな違ってて、ほぼ同じ世界を見ているのだけれど、実はみんなが違う世界を見ている。

だから、水滴たちの無数の視覚でこの世界は合成されていると。


痴ほうの老人施設に行くと、みんな惚けていて、魂が抜けてしまっています。

残された肉体は排泄もするし、食事も取ろうとしますが、精神活動はほとんど退化してしまっている。

不気味なゾンビ軍団に見えます。

これが、人間?

だけれど、職員が毎日ハグを繰り返すと、目に光がふたたび宿り始めるそうです。

まるで、人間という肉体の入れ物に、”意識”が出たり入ったりしている。

その意識が入れば”人間”らしく振舞い、出て行けば、ただの肉体になる。。


グレイソンの仮説はかなり大胆なものです。

しかし、臨死体験せずとも、老人たちを見ていると、

たしかにわたしたちはどこからか話しかけられている受信機でしかないという説を簡単には否定できなくなります。

発信源が受肉先から引き揚げはじめれば、あるいは、受信機の調子が悪くなれば、発信源からの“意識”はこの朝露という肉体には届かなくなる。


アジズは続けていました。

「この雫の内なる光が意識です。

それが自意識になれるということを想像してみてほしい。

実際に、魂の光は物質でも見えるものでもないのです。

この光は愛と意識の一体化したもので、この雫の内なる光が、完全に自分自身に気が付いた時、わたしたちはそれを魂の実現といいます。

では、神の実現とは何か?

それは雫の内側に映っているものが、太陽を認識した瞬間のことです。

雫の内なる光が、自分自身の光源を認識した時なのです。」


もちろん、これは比喩です。

そのリアルはそれぞれが体験するしかないでしょう。

壮絶な個人としての体験をしたポーランド人のアジズの遍歴はいつかお伝えするとして、でも、このモデルはとてもわたしを惹きつけます。



朝露は里芋の葉っぱの上で存続を望む。

水分の蒸発量を最低にしようとして、球体状にコロコロコロッと丸くなる。

でも、わたしたちはこの水滴=自分だと思い、目先の利害に奔走し、他の水滴を傷つけてしまう。

ああ、、、なんて嫌なんだ、情けないんだといくらおもっても、肉体の存続を命令するDNAと集団的無意識とにどっぷり覆っている雫。

たいがいの人は、これを制約とは思いません。

籠の中の鳥だと気が付かないということです。

その籠の中で、快適で楽しめればそれでいいと、それが「幸せ」だとする。そりゃとうぜんなんですが。


ここに来た人たちの中からどうしてもある気付きを受けてしまう者が出てきました。

わたしはほんとに水滴なんだろうか?わたしは誰?って思ってしまう。

けっして自分が水滴であることを直感的には納得できないのです。

ましてや、自分も隣の雫も同じ光源から光を入れていたなんてことは。

でも、イエスや仏陀のように、自分は水滴ではなく、その中に入った光なんだ、その大本はお日様から来ている、

だから、お日様という神に自分自身はなれないけれど、しかし、その神の一部に溶け入り一体化できるんだと、そう“思いつめる”者たちが出てきました。


世間常識に生きてもいいし、なにやらシバ神を信奉してもいい。

今回はつらかったけど、来世がんばろうでもいい。

いいのです。

が、ある違和感を持ってしまう朝露は消え去る前に、お日様の存在に気づくという。

それは信仰や信条、神の有無といった話ではないです。

わたしという1個の朝露が、感じ考えるべき、わたしの専管事項かと思います。


グレイソンが書いた『After』。

とても興味深く読みました。

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