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少しだけ、生きづらい

親切に見返りを求めてはいけない。

誰かに親切なことをする時、「自分がしたいから、している」ということを忘れてはいけない。

思った反応が返ってこなかったり、その親切を無下に扱われて腹を立てた時点でそれは押しつけになってしまう。

親切の押し付けほど、迷惑なものはないだろう。

相手のためを思って親切にしていたはずなのに、思い通りに反応してほしいと願っている時点でいつのまにか自分のためになってしまっている。

自己満足だ。

相手のために何かをしたいと思ったら、何よりも相手を見て対話することが大切だ。

相手が何をしてほしいのか、何を大切にしているのか、何が好きなのか、

自分がしてもらったら嬉しいことではなく、相手が喜ぶことを考えなければならない。

これがなかなか難しいし、すぐにできるものじゃない。

しかも、その相手と親しい間柄じゃないとこんなにも相手のことを慮れないだろう。

だから手始めに、身の引き際を覚えること。そしてそれは、対話をすること。

相手が親切にされて、どんな反応をしたか。してほしい反応を期待するのではなく、相手の反応を見る。

親切にして、いい反応をもらえたらラッキーぐらいのスタンスでいることが大切だ。


と、ここまで書いてきたけど

正直、親切にして感謝してもらえないというのは寂しいものだ。私はどちらかというとそっち派の人間だ。

相手の反応の良し悪しが、五分五分くらいの割合だったらまだ良いが

嫌がられることが続くとなると、親切にしようという心も折れてしまうのではないだろうか。

だからこそ、親切を受ける側も相手の「親切にしたい気持ち」に対して小さな配慮をしていただけないだろうか、と願ってしまう。

「気持ちはありがたいけど」などの一言を添えてくれるだけでいい。

親切にしたい、という気持ちは間違っていない。尊いものだ。

だけれど押し付けはよくない。

親切の出発点は皆、素晴らしい心意気なのに全ての終点が同じく素晴らしいとは限らない。

だからこそ引き際を見極める力が必要だし、「自分がしたいからしているだけ」という前提を忘れてはいけない。相手に直接聞いたわけではなく、想像して行動してるだけなのだから。


そうすると、サプライズというものは本当に難しい。

パーティーにしても、デートにしても、プレゼントにしても、

相手に直接聞くわけにもいかないし、往々にして準備にとても力を入れるから、相手の反応への自分の期待が自ずと大きくなる。

相手のツボを正確に理解していないと、もしくは自分と価値観が似ていないと、かなり難しいと思う。

だから、サプライズやプレゼントといった観点から見れば、友達も恋人も価値観が似た人の方がいいというのも納得がいく。成功しやすい、一緒にいやすい、という意味で。

相手のことを理解しやすい、ということは同じ時間を共有する上でとても大事なことだと思う。

特に大人になり時間的、体力的そして精神的余裕も無いなか、パートナーや友人を理解するために割く労力と時間を持つことはなかなか難しい。

ただ同時に思う。人生において最も重要な事柄こそ、「人生を共に歩みたいと思う"他者"」を理解するために心を砕くことなのではないか、と。

私はいつの間に、生きる上で最も大切なことを「余裕があったら」の時間に押し込めていたのだろう。

いつしか、自分のことでいっぱいっぱいで他者を受け入れる隙間なんて無くなっていた。

生きていく中で大切にしたいことを、大切にできない生活って何なんだろう。

他者を大切にするためにまず自分が余裕を持つことは大切だし、自分を犠牲にして誰かを何かを優先することを賛称したいとも思わない。


だけど

今の世の中、自分基準が誇張されているように見えてしまって、私には少しだけ生きづらい。







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