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◆だから人間は愛しい ~祖母との最後の会話~

去年の12月に、大好きで大好きで大好きだった祖母が亡くなった。
娘5人、息子一人を育て上げ、孫総勢16人に囲まれた祖母。
孫はみーんな本当に祖母が大好きで、葬儀に行ったら全員がもれなく祖母とのエピソードをわんさと抱えて大切にしていたから、みんなでそれを披露し合ってわんわん泣いた。
告別式の前の日はみんなでお別れの手紙を書いて、棺に入れた。

昭和初期に生まれて豪農の嫁となったばあちゃん(ここからは親しみを込めて、いつも呼んでいた ばあちゃん と書く)は、壮絶な嫁いびりに遭い、かといってまだ男尊女卑も激しい戦後のこと、祖父もさして助けてくれない状況の中、身を粉にして働いたそうだ。
わたしたちの記憶の中にあるばあちゃんは常にニコニコ優しくて冗談ばかり言い、もちろん悪いことをすれば、柄杓で頭をぽこーん!なんてこともあったけれど、いつだって心の拠り所だった。
亡くなってから知ったことだが、ばあちゃんが一人になってしまった家と広大な田んぼを売り払って老人ホームに入居してからは、いとこたちもそれぞれ悩みがあったり誰かに聞いてほしいことがあったりすると、一人でこっそりばあちゃんの施設を訪れ、小さなワンルームで散々話を聞いてもらったあと、安心して昼寝して、またすっきりと帰路につく、というようなことをしていたらしい。
みんなばあちゃんが大好きで、似たようなことをしてたんだなあ、ってみんなでまた泣いて、笑った。

芯が強く、人に優しく、自己犠牲を厭わないばあちゃん。
いつも笑顔で、でも、人の悩みや苦しみには涙をこぼして寄り添ってくれるばあちゃん。
亡くなる半年ほど前に電話した時は「もういつお迎えが来てもいい」なんて言うから、「ダメだよ!120歳を目指さなきゃ!」と言ったら「あれまあ。ばあちゃん130歳まで生きる予定だったんだけど、ダメかい?」と切り返されて、脱帽した。
涅槃に入るその時まで、ばあちゃんはわたしたちの想像をはるかに上回って頭の回転が早くユーモアセンスに溢れていて、いつもわたしたちを笑わせてくれた。

そんなばあちゃんだったけれど、最期は本当に寂しかったと思う。
誰の人生からも繋がりを根こそぎ奪っていったコロナ禍。
あんなに孫や子どもや友人たちに囲まれていたばあちゃんは、最期の数ヵ月は入院を余儀なくされてしまった。
面会は週に一回だけ、3人まで。
誰かが顔を見せるまでの一週間、特に病状が悪化して点滴だけになってからは、窓もない個室で一人きり、さぞ寂しかったろうと思う。

わたしたちは、胸が張り裂けそうなほどばあちゃんに会いたかった。
何しろ、娘息子その伴侶、孫たち+その家族を加えれば、総勢50名を越える大所帯である。一週間に一回、たった3人までの面会だと、自分の番が回ってくるまでは大層かかった。
それでも、わたしと妹は一番近くに住んでいて、入院前からしょっちゅうばあちゃんを病院に連れていったりしていたので、若干の優遇はしてもらえたのだけれど。

最後はご飯も喉を通らなくなって、久しぶりにわたしの姿を見た時、ばあちゃんは声を上げて泣いた。
わたしも一緒に泣いた。
ばあちゃんはわたしの手を弱々しい力で握り返して、小さな声で「みんな、なかよく、それだけ」と言い残した。
わたしにとっては、それがばあちゃんの遺言となった。

大好きなばあちゃんからは、みんなが大切に遺言となった言葉を持っていた。
葬儀の時にそれを言い合って、またみんな泣いたのだが、その中でも、わたしが一番お気に入りだったのは、うちの母と妹と、叔母の一人が見舞いに訪れた時の祖母の話。

大好きなばあちゃんと過ごせる時間が残り少なくなっているのは、当然見舞いに訪れた誰もがわかっていた。
だから、妹や母や叔母は、一所懸命目を閉じているばあちゃんに話しかけたらしい。
特に叔母は些かけたたましい人だったので、矢継ぎ早に話しかけたのだそうだ。
ギリギリまで看護師さんにお礼を言ったり、小さいながらも自分の声で話そうとしていたばあちゃん。
この時も最初は頷いたり首を動かしたりして、叔母たちの話を聞いていたのだそうだ。
しかし途中であまり反応しなくなってしまったので、心配になった妹がばあちゃんの顔の近くに耳を寄せながら、以下のような会話をしたのだそうだ。

ばあちゃん、大丈夫?
ばあちゃん、こくりと頷く。

疲れた?眠いの?
ううん、と、ばあちゃん、否定する。

どこか痛いの?
ううん、と、またばあちゃん、否定する。

どこも痛くはない。眠くもない。
疲れてもいない。
でも、叔母の話にまったく反応しなかったばあちゃん。
訝しく思った妹は、恐る恐る「もしかして、うるさいの?」と尋ねたそうだ。
ばあちゃんは、こくりと頷いたのだと言う。

「最期の会話がさあ、うるさいの?うん、だよ?」

情けなさそうに笑って泣いている妹と叔母の顔を見て、みんな爆笑してしまった。
そういえば子どもの頃、歳の近い孫たちが総勢16名、入れ替わり立ち替わりで7部屋もあった豪農のばあちゃんの家に泊まり込み、昼夜問わずにぎゃあぎゃあと遊び回っていた時、よく「あー!うるさい!」って笑いながら叱られたっけね。

それにしたってみんなが感傷に浸りながらばあちゃんのもとを訪れる最期の最期にあの「あー!うるさい!」を繰り出すとは。
その場で妹たちも爆笑したんだって。
ばあちゃんも少し笑ってたってことは、笑われるって解ってたのだろう。
本当に、最期までユーモアを忘れないばあちゃんだったな。

ばあちゃんが息を引き取ったその日、我が家では不思議なことが起こった。
そのことは、また別なマガジンでいつか書こうと思う。

大好きなわたしのばあちゃんの最期の話を読んでくださった方、どうもありがとうございました。

それでは、このたびはこの辺で!

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