見出し画像

あの頃ロンドンの空の下

前編 / 憧れ


小学生の頃から憧れていた国がある。パリとロンドンだ。

1980年代私はパンクやbritpopsが好きになった。とりわけ、DURANDURANやTheCure、Cocteautwins、The smith...挙げていればきりがないがその独特な音楽波に段々とハマっていった。高校生の時にイギリス人の文通相手が出来たというのも大きな理由の一つだった。彼は私と同じ歳で国際フレンドシップクラブという団体を通して文通相手を紹介してもらった。当時はまだ今のようにインターネットも普及していなかったので完全なアナログ時代。私は高校の英会話クラブに入りイギリスの音楽をむさぼるように聴くようになった。当時高校に行くのが嫌で仕方がなくて不登校になり、授業日数が足りていないと担任の教師に呼び出されては無断早退を繰り返すという自堕落な生活を送っていた。入学時には進学クラスになんとか入れたものの高校2年に上がる頃には成績が悪化。ついに進学クラスから落とされてしまう羽目になってしまった。その時の私は進学する事よりも絵を描いたり音楽を聴いたり漫画やアニメや好きな洋画を観たりすることの方が楽しくて、進学クラスを落とされた時もさほどの打撃は受けなかった。逆に自分でその時進路が見えたような気さえしていた。大好きなアニメの仕事がしたいと単純に思っていたので就職クラスになってからは大阪に出来たばかりだというアニメーションの専門学校に通いたいと半ば本気で思っていた。

でも両親はそれには大反対で私は何か抜け殻になってしまった様な気持ちになった。不登校がまた始まり高校3年生の秋に教師に言われた言葉がその時珍しく胸に響いた。その言葉というのはこうだった。

「asaさん、このままでは卒業できません。留年になりますよ!これから1日でも欠席したら留年すると思ってくださいね。」

えーーーーーーーーーーーーー!

とにかく通うのだ。毎日遅刻してでもいい(いいことはないが)高校に通うのだ。私はその日から胸に誓ったのであった。

そんなダークサイドよりな私の高校生活にも楽しみはあった。文通だ。

彼から送られてくる手紙を英会話クラブの担当の先生に見てもらうのが楽しみで、それがかえって高校に通う起動力にもなっていった。私はもともと何事に対しても浅く軽い性分なので、音楽に関して言えばいろんな音楽を聴く事は聴くがそれを専門的に研究するという事に関しては苦手だった。なのでこの先生から得られる知識は凄く刺激的だった。女の先生で容姿端麗。しかもイギリスに留学経験があるというのと、BEATLESの大ファンだという事が親しく会話できるきっかけにもなった。

多分この先生に出会えていなかったら私の高校生活はかなり荒れ果てたものになっていたはず。恋愛には全く興味がなく毎日音楽を聴いてはロッキンオンやfoolsmateなどの音楽雑誌を読み漁っていた。そして音楽を聴いている時だけは何も考えずに「自由な宙に浮いた感覚」になれたりした。それが自分には凄く心地よかった。

The Smiths - Heaven Knows I'm Miserable Now (Live on Top of The Pops '84)

#TheSmiths #HeavenKnowsImMiserableNow #TopofThePops #モリッシー

The Smiths - The Queen Is Dead - A Film By Derek Jarman (Official Music Video)

そんなこんなで遥か彼方の西の空から毎月1~2回送られてくるペンフレンドお勧めUK音楽のピックアップ集が録音されたカセットテープがそれから長きに渡り私の音楽の新しい情報源となっていった。中でも特に彼から影響を受けたのがPETSHOPBOYSだ。彼は今一番UKでHOTな曲といって送ってくれたのがこの曲だった。その頃時代は(特に東欧〜ヨーロッパ)激しい勢いで変化し突き動いていた。その空気は不思議と今この2022年現代と似ている気もしないでもない。

Pet Shop Boys - Go West [HD]


後編 / 旅立ち

好きな人と自ら自分が選んだ土地で暮らす事が出来る。それがどれ程幸せな事なのか、そう思わずにはいられなくなる時がある。そして反対にそれがどんなに難しい事なのかという事も。

24歳の時私の夢は一つの終わりと共に叶った。私はそれまで勤めていた仕事を辞めた。そしてお付き合いしていた男性とも別れた。それと同時に体調が悪化した。慢性のアトピー性皮膚炎を患っていたのが突然悪化したのだ。1ヶ月原因不明の高熱が出て全身に湿疹がでた。頭の先から脚のつま先までだ。アトピー性皮膚炎特有のじゅくじゅくした液体が痒くて仕方がなくて掻いてしまった箇所から出て包帯を巻いて対処していた。

見るに見かねた私の母親はこう言った。

「いっそのこと転地療養した方がいいかも知れないね。」

と。

当初、両親は暫く北海道で住んでみてはどうか?と提案してくれた。が、私は言った。

「イギリスに行きたい。」

(ノ・ω・)ノオオオォォォ-

ついに言ってしまった。そうして私の痛い毎日は終わりをつげた。

ヒースロー空港行きの往復切符を手にした時、多分もう日本には返ってこなくなってしまうのではないだろうかとふと思った。

ここまでは私のそれまでの日本での出来事を回想して書きました。ここからはイギリスでのいろんなエピソードを書いていきたいと思います。

過去を思ふ。あの人の事を。

ジュリアンとの出逢い。

Annie Lennox HEAVEN

1993年の秋。
ジュリアンと初めて出逢ったのはロンドンのベイズウォーター(Bayswater)だった。その日私はヒースロー空港から一人タクシーとバスを乗り継いで重いスーツケースをゴロゴロと引きずりながら初めてのイギリス一人旅でドキドキしながら自前に予約してあった宿泊先のホテルを探していた。バス停からはハイドパークの美しい並木道が見えていた。少し歩いたものの何がなんだかさっぱりわからなくなって来て道に迷ってしまった。giveup!藁にもすがる思いでその時向こうから歩いて来た男性に咄嗟に声をかけた。

「Where this hotel?」

なんだかよくわからなくて出た言葉がこれだった。

ジュリアンは笑いながらそのホテルまで私を案内してくれた。

それもそのはず。そのホテルは二人が立っている目の前にあったのだ。

おかしくなって私は思わず大笑いしてしまった。ホテルにチェックインを済ませて1階にあるバーで何か飲んで少し休憩しようと思っていたところ、私の方を見て奥の方の席に座ってクスクスと笑っている男性が一人いた。そう、ジュリアンだった!

私はびっくりして、

「なんでここにいるの?」

と日本語で話しかけていた。彼はその言葉を聞いて再びクスクスと笑い始めた。

あ、そうか。ここは英語の国だったわ。私は困った。もうめちゃくちゃ困った。答えは簡単だ、英語がわからないからだ。あー!ノー!なんという無謀な旅の計画を立ててしまったのかと恐れおののきながらもこの場をなんとか乗り切りたいと思った。その時私がひらめいた策はただ一つ。そう!紙とペンだ。

時代は1990年の始め頃。まだ今のように日本語で話せば英語で喋ってくれるというような便利なものはなく、理解してもらうにはひたすら書くしかなかった。そう、筆談という今ではなかなか見なくなってしまった光景だ。私は簡単な英語を書いて必死に彼に質問した。そしてその時何故か話すよりも書く方が上手く意志の疎通が出来るものだなと思った。

「why you here?」

彼はそれを見ながら笑顔でこう書いてくれた。

「Just have a coffe 」

「ハブアコーヒー」と私がガチガチの日本語で言うと、

彼はまたニッコリと笑って何やら紙に書いてくれていた。

「Yes! you and me together」

私はそれを見てやっと理解出来た。

これはナンパというものなのだろうか?と。しかしナンパにしてはあまりにも真面目なナンパだった。なんだかもうそんな事を考えるのが馬鹿馬鹿しくなってきて、それよりも今この時をめいいっぱい楽しもうと思った。そう思った途端になんだかとても英語が話し易くなったような気がした。そして私達はそれから2時間近くそこで筆談と簡単な英会話というよりは英単語の連想ゲームみたいな事をしてやっていた。そしてその後、彼は親切にもベイズウォーター周辺を案内してくれた。帰り際に彼は名前とFLAT(フラット、日本でいうアパート)の住所と電話番号を書いたメモを渡してくれた。そして何か困ったことがあったらいつでも電話してきてくださいと言ってくれた。

その日から約1ヶ月が経過していた。その頃には私は彼の住んでいるフラットFlatに遊びにいかせてもらうくらいに仲良くなっていた。

そんな頃だった。ジュリアンの住んで居るフラットに空き部屋が出たと教えてくれたので私は長期滞在していたB&Bを出て彼の住むフラットに引っ越した。イギリスに来て1ヶ月は経過しようとしているのに私はろくに英語も話せずにいた。引っ越してからジュリアンに毎日英会話の猛特訓を受けるも、もともと勉強が苦手である私ゆえなかなか頭に入らない。しかもジュリアンはバリバリのフランス訛りの英語を話すので発音がいまいち噛み合わない。

ある日の午後、近所にあるパブ(Public house)にサンデーランチに出掛けた時の事。ジュリアンがカウンターの店員に向かっていつものごとく苦い顔をしながらビールのオーダーをしていた。私はすでに「ワンハーフラガー」を手に持って彼がいつその「ワンハーフラガー」を勝ち得ることができるのかと思いながらささやかな店員との闘いぶりを観戦していた。

耳を澄ますと、

ジュリアンが、

「ワンアーフラガープリーズ one herf (a pint of)lager please」

と10回は言っていた。店員は彼がオーダーする度に、

「ソーリー?sorry?」

を繰り返し、遂にジュリアンは、

「ブラッディヘル!bloody hell!」と言い放ちカウンターをバンっと叩いてこう言い放ったのだ。

「lager!」

店員はにやりと笑って彼にい言う。

「one pint of lager?」

ジュリアン

「non same one please!」

と私が持っていたビールを指さして言った。

「yes!please wait ...」

店員はすぐに理解した。

私は彼に言った。

「大変だね。」

「くそ!イギリス人め。いつもこうだ!」

そんなジュリアンを観ているとなんだかいたたまれなくなってきてしまい、

「Hの発音の練習しましょうよ。はー、はーふ、はー」

と私もKYな会話をし始める始末。

彼は、「日本人はいいね!パブで苦労しないから。」と言いながら店員から約30分も待たされてそのharf of pint of lager(ワン ハーフ ラガー)を受け取った。

私はため息をつきながら猛烈に不機嫌そうなジュリアンをなだめながらその生ぬるいビールを飲んだ。

そのパブには中庭がありそこには小さなテーブルとベンチが2つ設置されていた。私達はいつものようにそのベンチに腰掛けながらたわいもない会話をし楽しい時間を過ごした。中庭には沢山の花が咲いていた。平和な晴れた空を見上げていたらさっきあったハプニングなどいつしか忘れてしまっていた。

Klymaxx - I Miss You (Official Video)

#Klymaxx #IMissYou #Vevo #洋楽 #80s洋楽


Klymaxx♪ チャンネル


Klymaxxの「I miss you」

当時よくラジオで流れて聴いていた歌。優しく美しいメロディーと、恋に破れたせつない女性の心情を唄った歌詞は今聴いても胸が張り裂けそうになる。

ジュリアンは私をよくカフェやパブに連れて行ってくれた。

多分早くイギリスに馴染んで欲しいと思っての事からだったと思う。

ここでジュリアンと住んでいたflatフラットの事を少し書いてみようと思う。

私が住んでいたフラットには様々な国の人が住んで居た。スペイン人の女性や初老のパキスタン人、小説を書いているというアメリカ人、移民としてロンドンに辿り着いたというアルジェリア人夫妻、アーティストのイギリス人夫妻、ポーランド人の若い女性、そしてフラットのLandlord(大家)はエジプト人女性だった。他にも何人かの多国籍な人達がそこには住んでいた。みんなそれぞれ毎日顔を合わせていたのでなんとなく親近感があった。フラットでは週に1回のペースで住人の誰かの部屋でお茶会みたいなものがあり私とジュリアンも毎回それに参加していた。お茶会の時は一人一人が話の輪の中に参加できるような仕組みになっているように思えた。というか意見を出し合ったり議論を交わしたりという事がイギリスでは当たり前のようで、イェスマンは退屈な人というレッテルを張られるようだった。私はイエスマンなのか?と思いながらも、みんなは「asaは日本人ね。我慢強くみんなの話を聞いてくれるわね。」という喜ばしい事を言ってくれた。何のことはない。私はみんなが話す早口の訛たっぷりの英語が全くわからなかっただけなのだ。という私も日本語訛りの英語を喋っていたのだが。

それから私はこのままではいけないと英語学校に通うようになった。

英語学校へはアンダーグラウンド(地下鉄)を使わずによく歩いて通っていた。その道のりを好きな音楽を聴きながら歩くのも楽しい一時だった。

The Verve - Bitter Sweet Symphony (Official Music Video)

#TheVerve #BitterSweetSymphony #Remastered #洋楽

学校が終わるとハイストリートケンジントンでショッピングを楽しんだ。マークス&スペンサーの食料品売り場では紅茶を。ジョンルイスでベッドカバーやテーブルクロスやキッチン用品を見たりするのも楽しかった。日本でいう国民的ドラッグストアBOOTS(ブーツ)や日本でいうユニクロ的な存在のNEXTや、若者に人気のへネス&モーリッツ(H&M)、TOPSHOP、MONSOON、イギリスっ子に人気のRIVERISLANDで買い物をするのも好きだった。ハイストリートケンジントンのショッピングモールの裏側には小さな路地があってそこにはセカンドハンドショップ(secondhand shop)があり中古レコードやCDのお店も数件あった。大好きな洋楽のCDやレコードがお手頃な価格で手に入る喜び。イギリスに住んでいて何回感動した事だろう!そしてショッピングに疲れたらカフェかパブにGO!その日の気分でカフェだったりパブだったりと毎日がくるくる回る風車みたいな日々だった。

今から思うとそれはまるで万華鏡みたいに移り行く色彩のある日々だった。

The Smiths - Ask (Official Music Video)

数々の想い出が詰まったイギリスでの生活。辛い経験もした。笑い飛ばして忘れてしまった事もあった。何人もの人達に出逢っては別れ、喜びを共にした日の感激や、そしてまた自分が日本人であると思い知らされた出来事も沢山あった。それら全て引っくるめて今はかけがえのない想い出になっている。

永久VISAの取得が出来ずに不運にもイギリスでの生活は8年で終わりを迎えてしまったが私の選んだ道に何も後悔はない。そう言い切れる自分がいるという事が帰国後の自分をどんなに救ってくれたことか。

ずっと生活を共にしてきたジュリアンとは友達でもあり恋人でもあり夫でもあり、そして私の中でずっと最愛の存在だった。

彼との関係は何物にもかえがたいかけがえのない家族。それは今でもずっと変わらない。

どんなに遠く離れて暮らしていても愛情は消えていない。というよりは決して消えはしなかった。時にはお互いがそれぞれ違う人に心を寄せてしまう事もあった。でも根底にあるものはいつもあの頃のままだ。ただ少し変化があるというならば年を重ねるに連れてその愛情は真っ直ぐ私達の理想の形になっていったという事だ。常にお互いを気にかけつつも、過度に干渉しないフリーダムな感覚。これこそが私の求めていた理想の関係だ。

そしてそれは強い信頼を産んだ。

「I trust you very much!and you?」

これ以上の言葉はきっとないと思う。

今でも彼と話す時私は最後にこの言葉を付け加える。

スマホの中からあの頃のままの変わらない懐かしい声が聴こえる。


「yes!ofcouse!」


Annie Lennox - A Whiter Shade of Pale (Remastered)

#AnnieLennox #AWhiterShadeOfPale #Vevo

YellaBellydAlligator チャンネル

The Smiths - William, It Was Really Nothing

#Thesmiths


asa_Sante

◆       ◆       ◆       ◆       ◆

こんにちは💗

ここまで読んでくださってどうもありがとうございます🙇
今回はかなりかなり苦戦して書きました~💦💦

(*´Д`)ハアハアハアハア

私にしてはかなり頭を使いました😓

でもめちゃくちゃ世界に入りました。
この文章を書きながらまるで自分があの頃にタイムスリップしたみたいな不思議な体験をしました。そしてたくさん泣きました(TOT)

これが回顧録というものなんですね。違ったらすみません(^-^;回想録?🤔
よく言葉を間違えるので文章に自信がなく不安なのですがこんな文章でも読んで頂けるなんてありがたいです。今読んでくださっているYOU様に感謝いたします🙇

ずっと書きたくて書けなかったものが書けた喜びを今味わっています!

おめでとうasaさん🎊←アホ

noteでたくさんの方が素敵な感動する文書を書かれているので、私もがんばって書いてみました。回顧録、これからもやる気と勢いがある時にまた書きたいと思いますのでその時にまた読んで頂ければ嬉しいです。

ではでは皆様の今日一日が平和で安心出来る一日でありますように願って🌼

読んで何かを感じて頂ければ幸いです👍°˖✧

asa_Sante

         ☆  asa_Sante’s twitter ☆









この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?