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エイズで亡くなったDJパトリック


ここ数日、家田荘子の著作を立て続きに何冊か読んだ。家田荘子といえば「極道の妻たち」が有名なのだが、映画は何本か観たものの、原作は読んでいない。
まず、最初に読んだのは、「私を抱いてそしてキスして エイズ患者と過した一年の壮絶記録」である。
エイズ患者の実態を知ろうと、周囲の反対を押し切って、アメリカでホーム・ナース・ボランティアの資格を取得した著者は、やがて一人の黒人女性患者と生活を共にすることになる。自らの内に潜む病への嫌悪感を乗り越え、患者たちと自然に接することが出来るようになるまでの苦闘と、そこに芽生えた友情を描いた感動のルポである。1990年刊なので、まだエイズが深刻な死に至る病の扱いを受けていた頃の話。1991年、第22回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。1992年には本作を原作とする日本映画(佐藤純彌監督、南野陽子主演)が公開された。エイズの主要感染経路は、「性行為による感染」「血液を介しての感染」「母親から乳児への母子感染」の3つであるとは分かっていても、偏見が邪魔してエイズ患者と接する著者の葛藤がうかがえる。どうしてもキスやハグ(抱きしめる)は躊躇ってしまう。初めは夫(黒人男性)も協力的ではなかったが、真剣にエイズと向き合おうとする家田荘子に根負けし、資格取得の為、運転・英語の通訳と力になってくれる。当時、著者が住んでいたのはジョージア州のサバーナ市であるが、ジーナ(2人目の子供の出産時の輸血でのHIV感染)とジミー(ゲイの白人男性で性交渉でのHIV感染)が住んでいたのはアトランタ。距離にして550km。高速で片道4時間かけて(時には飛行機を使って)通ったらしい。
エイズに関して言えば、私もかつては身近にHIV感染者がいた。紐育潤さんというブロガーの2013年4月17日の記事で、HIVポジティブDJパトリックが亡くなったということがわかった。DJパトリックをご存知だろうか?1989年、HIVポジティブと判明。1993年、クラブDJとして来日。DJ、サウンドプロデューサーとして活躍する一方、HIVポジティブとしての取材や講演も行ない、週刊SPA!で10年ほどコラムを連載していた。
私とパトリックの出会いは、確か90年代半ばの六本木のVELVETというクラブであった。私が踊っている時にパトリックが絡んできて、彼がHIVポジティブだとは知っていたが、同じ缶ビールを飲みあった。それ以来、ちょくちょく会うようになって、彼がプレイするときはクラブもゲスト(つまりただ)で入れるようになった。その後、友人が作ったデモテープを渡したことがきっかけで、彼がレコードを作るとき、私のDTM機材一式を貸したことがある。当時、彼が住んでいた三軒茶屋のマンションにも何度か行った。その後、付き合いも薄れ、私も大阪に帰ってきたこともあってパトリックのことを忘れてしまっていたのだが、ブログの記事を見ると、彼はフェイスブックやツイッターで、
「関わっていた事業が頓挫し、現在収入がありません。AIDS/ADHD/MSRA + 膝と首の関節を痛め歩行に杖が必要なほどで、外に出て働くことが難しい状態です。」
「ご飯ごちそうしてくれる人居ないかな?二日間ご飯食べてない!水曜日までに生活保護のお金の日までに56円。」
などと書き込んでおり、病気はもちろん、貧困にも悩まされていたことがわかった。そんな中での訃報。ドネイションページもあったようだが、気づくのが遅かった。知っている人の死。しかも、エイズによる死はなかなか堪える。

by PEMA

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