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幼少期としばらくと拝金主義の話

こんな場所でもなければ一生言う機会もないと思うので書くが、保育園に入る前の親と過ごした記憶がなく、祖父母の家で起きたことしか覚えていないのを、人間は3歳位にならないと記憶が安定しないんだろうと思っていた。成人して大分経ってから、母親から私は3歳まで祖父母に育てられていたという衝撃の事実を聞いた。いつの時代の話だよと思っていたまとめサイトとかでたまに見る離婚原因が、まさか自分の身に起きていようとは……東北の田舎だけど、ほんの数十年前の話。祖母に「孫は私に任せて働け」と言われ子どもを取り上げられた母親と父親は別の所にアパートを借りて住み、週末に私に会いに来るという生活だったらしい。由緒正しい家でもないし、見合いだし、父親も堅めの職業だし、なんでそんな事になったのかも従ったのかも全く意味がわからない。祖母がレトルトのハンバーグばかり食べさせるので、幼い時の私はとても偏食でそれしか食べず、母親の作ったハンバーグを「コレジャナイ……」と言ってレトルトハンバーグを要求し、母親は物陰で泣いていたそうだ。(聞いた時、そりゃそうだろと笑ってしまった)どうりで、室内用ブランコの置かれた薄暗い和室の中で一人で遊んでいた記憶しかないはずだ。よくグレなかったな。

3歳になってからは、父親の隣県への転勤に付いて行き祖父母とは物理的に離れ、保育園に入った。園庭の隅で一人で雑草をむしっていたり、給食の日にしいたけハンバーグ(刻んだしいたけを鶏挽肉でつないだ白い悪魔)が私への嫌がらせのようにやたらと出て、その度にみんなが掃除をする中教室の隅で食べ終わるまで椅子に座らされていたことや、運動会の保護者による仮装行列でホタテマンの殻の傷は1本だと言っているのに父親が信じてくれず2本つけた事や、母親のブラックデビルが似過ぎていて他の園児に若干引かれていたことを覚えている。今でも私を信じない人間は失敗すれば良いと思っているし、しいたけは大嫌いだ。
タイピストだった母親が残業をする時は、一旦保育園に迎えに来てから一緒に職場の印刷会社に戻り、作業机の下に籠って筋子のおにぎりを食べたりミスプリントの裏に黙々と絵を描いていたのを覚えている。当時の印刷会社(今もだけど)には人付き合いが苦手そうなタイプを始め色々な人がいて、私は子どもながらに視界の端で状況を確認する技を会得したり、うるさいガキだと思われないように空気を読んで全く喋らなかった。静かすぎて、いるのに気付かれていない時もあった。よくグレなかったな。

小学校に入学早々、初老の担任は今思えば変態で、放課後にお気に入りの女児を膝に乗せて雑談をするのが日課だった。引越した後も何年か年賀状のやりとりをしていて、途中から私は「学校生活はどうですか?元気にやっていますか?」なんてどの面下げて送って来てるんだろうと思っていたが、3年位したら途絶えてしまった。よくグレなかったな。
その後3年位して、引越し先の小学校では転校初日に他クラスの子から嫌がらせを受けた。下校中小突かれ、お気に入りのミッキーの帽子を川に投げられ(運良く欄干に引っかかったのを拾った)、家まで着いてこられたので、私は泣きながら社宅エリアに入った。私がいじめっこに追いかけられていたのを見ていた証人は何人もいたので、親の耳にも入った。しばらくして、父親の運転するママチャリの後ろに乗っている時にそのいじめっこを発見した。ママチャリは無言で微妙な距離を取りながらその子の後を着いて行った、その子の家は結構小学校からは遠く、次第に通行人も減り、向こうも先日自分がいじめた相手と見知らぬおっさんが自転車を徐行させながらジワジワ近付いて来て相当怖かっただろう。横断歩道で止まった時に、自転車を横付けし「うちの子いじめるなよ」と父親が言った。いじめっこは何度か小さく頷き、信号が青になると一目散に走って行った。そこからもしばらく追いかけていたが、古い建物が多い地域に入り、夕暮れ時にボロめのランドセルを背負って走って行くいじめっこを見ていたら、父親も私も悲しくなって来てしまいそれ以上は深追いしなかった。(物悲しいからって理由なく小突いたのが許されるわけじゃないからな)翌々日位に、学校でその子が何か言いたげに肩に触れて来たが、MAXで振り払ったらそれ以降は接触して来なくなった。

何十年も前の東北は県庁所在地であっても単純にクソみたいな田舎で、子どもの娯楽といえば駄菓子屋とビックリマンチョコと聖闘士星矢位しかないくせに、そのどれもがある程度お小遣いを持っていないと楽しめないという、親の資本力が子どもコミュニティでのステータスに反映される、拝金主義が横行していた。私の家はそこそこ裕福だったのと父親が駄菓子屋大好きだったので、店の壁に掛かっていたおもちゃくじ(「クソゴム人形」と家庭内で呼んでいた)を問屋で買って来て部屋に掛けて一日一回引いていたし、ビックリマンは箱買いしていたし、当時小学生の憧れの地だった駅前のアニメイトで聖闘士星矢(紫龍)のグッズを買っていた。住んでいた地域では給食のご飯はアルミパックだったのだが、残した分はそれぞれが持ち帰らなければならず、私は面倒くさくて机の引き出しや机の横に下げられた手提げの中にカビご飯をため込んでいた。それでもいじめられることなく楽しく過ごせていたのは、拝金主義のお陰だった。

変わらず両親は共働きだったので、高学年になるまでは児童館に通っていた。そこには年配の女性職員が2人、館長は今思えば普通だったが、もう一人はがさつでしかも平気で手を出すタイプだった。夕方になるとチラシを折って作った入れ物に安いお菓子が支給されるのだが、当番に配布された入れ物が重なっていたのを気付かなかった私の頭を、そのがさつ職員は「2枚重なってるだろうが!」と言って叩いた。「支給した人に言ってください」と反論したが、意味がないのはわかっていたので母親に頼んで職場で廃棄予定だった大量の紙を「たくさんお使いになるでしょうから」と言って差し入れしてもらった。安菓子の入れ物はチラシから無地の良い紙になり、理不尽な扱いを受ける事もなくなった。そして5年生になって児童館を去る時に「おやつの時間にみなさんで召し上がってください」とメロンを段ボール2箱差し入れした。知り合いの農家から直で買ったのでそんなに高いものではなかったと思うが、職員は感激して「いなくなると寂しくなるわ……」なんて言っていた。もうお亡くなりになっていると思うので恨みなどはないが、未だにA4のミスプリントで入れ物を作ってそれを日常的にゴミ箱にしているので、ゴミを捨てる度にその時の事が思い出される。

その後また引越しとなり、本州を離れ札幌に行くことになった。小6の途中から2年程度しかいなかったので、嫌がらせに遭うこともなかったし、中学生になりテクノカットで制服に黒のバレエシューズを合わせて登校するSOFT BALLETファンに、周囲は優しかった。札幌時代は嫌な思い出はそんなになかったので悪い印象は持っていない。自宅近くにレンタルビデオ屋はあるし、ペニーレーン24はあるし、週末は4丁目プラザに買い物に出掛けていたしで、一人行動が充実していて本当に楽しかった。

札幌から仙台に中2の半ばに転校した時は、また軽く嫌がらせを受けた。公立なので選択肢がなく仕方なかったが仙台市内で有数の荒れた学校で、「壁に穴を開けた生徒は申し出るように」という校内放送が流れるのが日常茶飯事だった。札幌の中学は校則が緩く、私はブランド物の革製のスクールバッグを使っていて、入学前の学年主任との親を交えた顔合わせで「指定のナイロンバッグがあるが、あと1年なのに買い替えるのも勿体ないからそのまま使い続けて問題ない」という許可を得た。そのせいで登校初日に校門に立っていた女性体育教師に「お前なんでそんなカバンを持ってるんだ」と呼び止められたが「学年主任に許可貰ってるから確認してください」を押し通した。最初の体育の授業は創作ダンスだったが、「では『秋』のテストをします。転校生から」と突然言われ、何を言っているのかわからなかったが、創作ダンスで秋だからきっと秋をイメージさせる何かをやれって言ってるんだろう……と思い、落ち葉をイメージした動きをクラス全員の前で行った。「一体何をやってるんだ?不合格!」と体育教師がデカい声で言った。どうも春夏秋冬に合わせた定型の動きがあるらしかったが、クラスメートは誰も笑ったりはしなかったので、むしろ即興で踊れるの凄いだろと恥ずかしさは全くなく、こういう小学生以下のメンタリティの教師だってみんなわかってるんだろうなと冷静に思っただけだった。その後もバスケの授業で私がビギナーズラックで三点シュートを決めたのを認めず無効にしてチームの他の生徒から抗議されたりしていた。まだお亡くなりにはなっていないと思うけど、だいぶ前に退職されているはずだ。もともと体育は得意じゃないし、体育会系特有の同調圧力的なマインドが大嫌いなので、別に恨んではいない。ただ、親や学年主任に言って問題にしなかった私に感謝しろよと思っている。クソが。

体育教師どころかヤンキーどもにも目を付けられ、上履きに画鋲を仕込まれたり、座るタイミングで唾を吐かれたりしたが、中に虫が入りこんでいないか確認してから靴を履く習慣があったので痛い目には遭わなかったし、制服に思い入れはないので洗えば良いので気にしなかった。隠された上履きがゴミ箱に入っていたが、2000円もしないもの普通に買い直せば良いだけだったので気にしなかった。意味なく下駄箱から持って来た私の登下校用外履きプロケッズをこれ見よがしに2階の窓から捨てられたことがあったが、そいつの上履きを強奪して窓から投げ返した。ついでに外履きを当時全中学生男子憧れのエアジョーダン7にしたら、さすがに価値がわかったのだろう、誰も私の靴には手を出さなくなった。ここでも拝金主義は生きていた。SOFT BALLETファンという理由で、隣のクラスのV系インディーズバンドの追っかけをやっていて根性焼きだらけでバンドマンの名前の自作のタトゥーがある茶髪女子の一人暮らしの家に招かれてお茶をごちそうになったりもしていたので完全な嫌われ者でいじめられていたのではなく、外れ者をいじっていた感覚だったのだろう。

3年になり、「来週◯◯くんが帰って来るって!」とヤンキーどもがざわついていた。どうも少年院だか鑑別所だかにいたリーダーが復帰するらしかった。転校して来た時から姿を見た事はなかったので、1年近くお務めをしていたらしい。遠目に見た◯◯くんは、いかにもなオラついた感じではなく、大人びてはいるがサッカー部にいそうな体格の良い普通の中学生だった。自分だけで対応できないようなワルだったら親や教育委員会に言って大事にしてやろうと思っていた矢先、彼氏の帰りをひたすら待っていた隣のクラスのパンクス顔の女子に昼休みに呼び出された。どうやって職員室に駆け込もうかと考えていたが、パンクス女子は「◯◯くんがあんたのこと可愛いって言ってたからさ、あたしと友達になろうよ」とトラブルの予感しかない申し出をして来た。話を聞くと、◯◯くんが離れていた間に心変わりしていないかと心配になったパンクス女子は、クラス毎の集合写真を1枚ずつ見せて「この中に私以外に可愛い女はいないか?」と確認したらしい。私は別に可愛くはないが、パンクス女子に負けず劣らずの目付きの悪さとクマだったので、◯◯くんは気になったのかもしれないし、単純に知らない顔だったからかもしれない。2組代表になった私以外にもこの日パンクス女子の友達になった女子は5人はいたはずだ。それ以降、受験シーズンになったのもあると思うが、地味な嫌がらせはおもしろい位にぴたりと止んだ。もともとヤレヤレ系好戦的な性格なのもあって、ヤンキーどもの所行には大して怒ったり悩んだりはしていなかった。むしろ、ヤンキー集団の中に入ってしまってわかったことは、別に彼らはヤンキーではなくバスケ部サッカー部のオラついたやつらが集まっていただけで、一人だけリーゼントタバコシンナー短ランボンタン紫のトンガリ靴の気合いの入ったやつがいたのだが、みんな裏ではそいつの事を「高校どうするんだろうねwもう本職になるしかないんじゃない?」とか「あいつん家風呂ないんだぜw臭いを整髪料でごまかしてんだけど正直こっちに入れたくないわ〜」と学力や家の経済力を半笑いでバカにしていた。夕暮れ時にボロめのランドセルを背負って走って行くいじめっこを思い出して胸が苦しくなった。少年院から復帰して来たはずの◯◯くんは、暫くしたら卒業を待たずにまた学校に来なくなってしまった。私はひたすら三島由紀夫の文庫を読み、ヤンキーもいないであろうミッション系の女子高に進学を決めた。中学の同級生とは高校に入ったら縁が切れてしまったし、高校を卒業した時点で誰にも言わず家ごと隣の区に引っ越したので同窓会のお知らせなどはどこからも来た事がない。専門学校に入ってから高校の同級生に会ったが、私の連絡の取れなさに死亡説が流れていたらしい。就職で仙台に来ていた小学校時代の同級生に街中でばったり会ったこともあるが、ライブ前か何かでシルクハットにマントで厚底ブーツという出で立ちだったので挨拶もそこそこに別れてしまった。(今思い返すとよく私だってわかったね……)

みんな元気にしてるだろうか。
思ってない事でも平気で口に出来るし、こんな本当とも嘘ともつかない自分語りをできるので、ラッパーに向いてるんじゃないかと結構本気で思っている。

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