見出し画像

失うということ

以前「寒いからあたたかい」という記事で少し触れた、僕が思う喪失感が生まれるメカニズムや、その感覚について書いてみたい。
喪失感は多くの場合、言い尽くせない悲しみや切なさを伴う。言葉に直してしまうことで、その言葉の範疇にこの感情が閉じ込められてしまうことは少し恐いけれど、言葉にすることですこしでもわかることができるように思う。忘れ難い記憶の断片を拾い集めながら、慎重に、丁寧に、喪失感という感覚、失うということについて考えてみたい。

喪失感

いまでも忘れられない喪失感の記憶がある。

突然の訃報を受けたとき、その報せを受けるのは、いつでも亡くなった時間より後だ。故人が亡くなってから報せを受けるまでの間、自分はその人が生きて存在している事を少しも疑うことなくその時間を過ごしていて、その人の事を思い出したりはしていない。あるいは思いを馳せていても、生死にまで考えは及ばないことがほとんどである。けれど、報せを受けた途端、その事実を知らずに、それを疑わずに過ごしていた時間があったことを思い知ることになる。
その人が生きているという前提で、僕の中でその時間が経過したのだという事実は、あまりに重かった。

それはまるで、痛みなんて感じていなかったのに、傷口を見た途端に痛くなる感覚に似ている。サドルを支えてもらっていると思っていたのに、いつの間にか1人でペダルを漕いでいた事に気づいた途端に訪れる不安や、階段は終わりだと思いながら何もない空間を踏んだときの、心臓だけが置いてけぼりにされる感覚にも。

いや、似ているとはいえ、その衝撃は、その痛みは、こんな些細な例とは釣り合わないくらいに大きい。

取り返しがつかない

佐藤雅彦さんの著書『毎月新聞』に「取り返しがつかない」という文章がある。そこには、30年ぶりに見た高校の同窓会名簿に載っていた死亡者欄で知ることとなった、仲の良かった友人Sが既に亡くなっていたことと、15年もの長い間それを知らずにいたことへの悲しみが綴られている。

 Sの死が取り返しがつかないことは、どうしようにも逆らえないことである。しかし、僕が取り返しようがないと感じたのは、そのことではない。それは、Sが当然どこかで生きていることを前提として、僕自身が生きてきたことである。別の言い方をすれば、僕はそのSの存在があるものとした“バランス”で生きていたのだ。知らずに過ごしてきてしまった長い時間こそ、僕にとって、もうひとつの取り返しのつかないことであったのだ。

佐藤雅彦『毎月新聞』中公文庫, 2009

その友人の死を知った瞬間、僕は、長い間寄りかかっていたものが無かったのにも拘わらず、バランスを崩さずここまで来ていたことに対して、嘆いてしまったのである。

佐藤雅彦『毎月新聞』中公文庫, 2009

「信じられない」という言葉に収束するあの気持ちだろうか。信じられないのは、「寄りかかったものが無かった」のにバランスを崩さずにいたこと、そうして生きていた時間があったこと、それが積み重なっていることが、事実を受け入れることを阻害するからなのかもしれない。

自分の中で「在る」と「ない」の隔たりが大きければ大きいほど、生まれてくる喪失感や虚無感も大きい。
こうして何かの「存在」に関わる自らの認識と事実の乖離が起こったところに生まれた隙間から出てくる感情や感覚を全てひっくるめて喪失感と呼べるんじゃないかと思う。


「ない」が「ある」

なくした後に残された
愛しい空っぽを抱き締めて

HAPPY / BUMP OF CHICKEN

この詞では、いまはもうない何かがあった場所が、「空っぽ」と表現されている。なくなったのではなく、そこには「空っぽがある」という概念。空っぽとは一般的に、なにか器があり、その中身がない様を指す。つまり、なくなる前にそれが占拠していた空間があることを思うことで、それが確かにそこにあったこと、その事実に目を向けているのだとも読み解くことができる。

空っぽの鞄は空っぽで
愛しい重さを増やしていく
重くなる度 怖くなった
潰さないように 抱き締めた

ファイター / BUMP OF CHICKEN

「HAPPY」における「空っぽ」と同じ概念を指すであろう、「空っぽの鞄」が、空っぽのまま重さを増やしていくと唄われている。
中身はないのに重さが増えていくとはどういうことか。
なくなったものが確かにあったこと、その事実を思うことで、その対象への愛しさを増すということなんじゃないかと僕は解釈している。

でも、その気持ちが蓄積されていくということは、同時に、それがなくなってから経過した時間にも目を向けることにもなり、もう二度と記憶は更新されないということ、どうしてもその記憶は劣化していく一方なのだということを思い知る事になる。だから「重くなる度 怖くなった」んじゃないか。

喪失感は、「寒いからあたたかい」ことと同じように、「ある」と「ない」という相反する認識が自分の中に同時に存在する期間があるからこそ際立って、その感覚がより強く感じられるように思う。だから「HAPPY」を作詞した藤原基央は、その間に「空っぽが存在する」という中庸の概念を生み出したのかもしれない。
それは大切なものや大事な人を失ったとしても、失った悲しみや苦しみではなく、それらが自分にとって大切だったのだということにただ目を向けることができるような視点でもあり、それが喪失感が生まれてくる隙間をなだらかに埋めてくれるようで、そういった意味で救いにもなり得る。

本当の大事さ

「HAPPY」や「ファイター」の詞には、「空っぽ」だけではなく「愛しい」「抱き締める」という表現が共通している。「自分の中で『在る』と『ない』の隔たりが大きければ大きいほど、生まれてくる喪失感や虚無感も大きい」と前述したが、失ってしまった何かを大事に大切に思っていたことも、生まれてくる喪失感に関わってくるように思う。

自分にとって大事な何かを失った後、その大事さを痛いほど思い知るという感覚は普遍的なものなんじゃないか。大事だな、大切だなと日頃から思っていても、わかっていても、本当にそれを知るのは、失ってから。
どうしてだろう。わかっているのに、わかっていない。それが在るときには、本当には解れないのだろうか。

喪失感を思い出しながら、その感情を少しずつ分解してみると、こんなに大事だったんだということを改めて知る驚き、それを大事にできていただろうかという後悔や、大事に思っていたものを失ってしまった悲しみ、あったものがなくなってしまった寂しさ、それらが切実に胸を締めつける切なさなど、さまざまな感情が挙げられると思う。
人によって感情や感じ方もさまざまだと思うが、それらに起因する喪失感は、誰もが苦しいと感じてしまうのではないだろうか。
けれど、その感情が苦しいほど、本当に大事だったんだとわかる。

「喪失感に襲われる」という表現を、僕はあまり好まない。
喪失感は、それが自分にとってどれほど身近だったか、どれほど大事だったのかを教えてくれる感覚だと思うから。心が急激に揺り動かされる衝撃から、襲われるという表現が生まれたんじゃないだろうか。
決してポジティブな感情ではないけれど、強い言葉や表現を使うことで、自分の認識は偏ってしまうように思う。襲われるのではなく、隣に現れて、視界から消えてくれない、くらいの方がいいのかもしれない。喪失感がそこにいると思えることは、失ってしまったものを大事に思う気持ちもそこにあると感じられるようだ。
失った痛みや苦しさこそが、失ったものとその大事さを実感させてくれる拠り所になり得るんじゃないか。そう考えると、少し気持ちが楽になるような、足元に明かりが灯るような心地がする。

わたしたちから失われているときだけ手にすることのできるものがある。

レベッカ・ソルニット, 東辻賢治郎訳『迷うことについて』左右社, 2019

この文章の前には、グレートソルト湖周辺の美しい塩の結晶を手に取った途端、見栄えのしないものになってしまったと書かれている。
自然の美しさを手に取ることができないように、本当の大事さは、それが在るときには知ることができないということなのかもしれない。


過ぎていく時間

少し話は変わるが、僕は数か月前、財布を落とし、なくした。
幼い頃、大好きで毎日乗っていた自転車の鍵をなくしてしまって以来、ものをなくすこと、ものがなくなることへの恐れが強く、身の回りのものに気をつけて生きてきたので、僕がものをなくすことは滅多になかった。それも財布ほど大事なものをなくすなんて、自分にとっては初めての体験である。

なくした直後、時間が経つにつれ、焦りにも似たような不安や負の感情がじわじわと精神を削るのを感じた。その気持ちを分解していくと、これまでなくしたことがないという事実の積み重ねによる自信が裏返った悔しさと、当然財布はポケットの中にあるということを疑っていなかったこと、ついさっきまでは確かにここにあったのに、という気持ち……これも悔しさなのだろうか。電車を逃したときの、あと10秒早ければ乗れてたのに…という気持ちと同じ類の感情だと思う。時間は巻き戻せないことを痛いほど感じるのはいつも、何かを失ったときだ。

手元にあったことを最後に認識したその瞬間から時間が経つにつれて、その所在がどんどん不確かなものになっていく感覚。なくしたことに気づいてから引き返す初動は早かったものの、そこで見つからなかったこと、そしてそのときの自分を信じられない感じ。何度見てもないのに、さっきの自分が見落としていただけだ、と過去の自分自身を疑ってしまう。それを繰り返し、時間が経つにつれて、現在の自分に疑われた過去の自分が増えていく。

存在の記憶

自分が確かにその存在を認知していた過去の一点から、現在にかけての時間的距離が遠くなればなるほど、失ったそれの輪郭は不確かにじんわりと滲み、ぼやけていってしまう。はっきりと鮮明に覚えていられることなんて本当にわずかで、いや、むしろそんなものはなくて、今このときにここに在って確かめられるものしか、自分にとって確かなことはないのだということ。

手放したり、接することがなくなったその瞬間から記憶は劣化していくんじゃないだろうか。毎日触れているものも、触れる度に自分の中でその存在がアップデートされているだけで。
例えば、あなたの大事な人の顔、髪の色、身長、を思い出してみてほしい。もしくは、毎日愛用している何かの形、大きさ、重さなど。
ある程度は思い出せるだろうし、ほとんど正確に思い浮かべられる人もいるかもしれない。

でも、いまそれを思い出した中で、頭の中に完全に再現できなかったところが少なからずあったんじゃないだろうか。わざわざ覚える必要のないことだから注意してみていなかったり、ただ記憶していないだけかもしれないが、これからそれに再び触れない限り、再び会わない限り、その不足はアップデートされない。もしもある瞬間にそれを永遠になくしてしまったとしたら、いつかは鮮明に思い出せなくなってしまう。

失うということ

何かを失う瞬間というのは、その存在と自分との現在ある関わりだけでなく、その存在に関わる記憶をも失っていくことが確定する瞬間なのかもしれない。

あらゆる記憶は、すこしずつ薄れていってしまうものだと、誰もが知っている。思い出せるけれど思い出せないという経験は、誰もが持つ感覚だと思う。例えば、小学生の頃の感情の記憶は、もう鮮明には思い出せないように。隣の席のあいつと喧嘩したことは覚えていても、そのときの心の痛みはもう思い出せない。あの子がくれた手紙の内容は覚えていても、そのときの心の動きはもう思い出せない。二度と同じ気持ちにはなれない。

でも、記憶を失っていくと言っても、完全に忘れてしまうわけではないとも思う。記憶の鮮明さを失っていく、と言った方が近いかもしれない。
「それがそこにあったこと」の記憶だけはなくならないように思うのだ。
そのときからの時間的距離が遠くなり、どうしても思い出せなくなってしまっても、思い出す対象が存在する事実があったことだけは消えない。思い出そうとすることができるのならば、その事実があったことが自分の中で強い拠り所になる。
前述の『迷うことについて』の引用文には、続きがある。

そして、ただ遠くにあるというだけでは失われないものもある。

レベッカ・ソルニット, 東辻賢治郎訳『迷うことについて』左右社, 2019


忘れてしまうということは思い出しすらしないということだと思う。鮮明には思い出せなくても、遠くぼんやりとした記憶だとしても、忘れない限り真に失うことはないとも言えるのかもしれない。

思い出すと寂しいけど
思い出せないと寂しい事
忘れない事しか出来ない

なないろ /  BUMP OF CHICKEN

失ってしまったものを僕らが大事にし続ける術はひとつだけ。
忘れない事しか出来ないのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?