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寒いからあたたかい

高校生のとき、デッサンを習っていた時期があった。

基本的に静物デッサンは白い紙に黒い鉛筆でモチーフを描く。モチーフの形を正確に捉え、明暗を見極めて、質感を再現し、鉛筆だけでモチーフを画面の中に表現する。もちろん画材や目的は様々だが、僕の習っていたデッサンはそういう形態をとっていた。

光を描く

画面の下地が白なので、基本的には黒い部分を描くことで描き進めていく。白い物体や、物体の白い部分を描くにも、より白く描くということができないので、黒い部分を描くしかない。色の恒常性の話になってくるけれど、黒い部分に比べて白く感じられればその部分はその物体の中で白い部分と認識される。
画面内での明るさを数直線に例えて言うならば、画面の白が0、黒を描き込むほどにマイナス方向の数値が増えていく状態において、絶対値を大きくするということ。画面以上の白はありえないので、プラス方向には幅を拡げられない。だから黒を描き込んで白の0から距離を置く。そうすることで白から黒へのグレースケールの階調の幅が増え、画面内の黒の深みが増すのと同時に、白が白らしく見えるのである。

白いとはつまり、明るいということ。物体の白さや色の薄い部分の表現でもあるし、物体に光が当たっている部分の、明るさの表現ということでもある。黒く色をのせるということは、物体の色の濃い部分の表現でもあるし、光の当たらない陰影の部分の表現ということでもある。陰になっている白い部分と、光が当たっている黒い部分はどちらを明るく描くのかという問題もあるけれど、それはまた別の話。

デッサンで光を描きたいときは陰影を強く描く事以外に表現の方法がない。暗闇には影ができないように、白い画面に光を描くことはできない。光があるとき、それを遮るものがあるから影ができる。光が当たっている面があれば、同時に陰になっている面もある。だから光を描くために陰影を描くのである。

2016.05

相反するもの

デッサンで「光を描くために陰影を描く」ことを学んだ僕はそれから、光と影のように、相反する性質のものが同時にあることで、それらが互いにより際立って感じられる事は、実はけっこうたくさんあるんじゃないか、と考えていた。
対になっているかどうかは怪しいものも多いかもしれないけれど、僕が思う相反する性質のものが互いに際立って感じられる例をいくつか挙げてみたい。

社会人になると土日休みのありがたみがわかると言うけれど、週5日間働くからこそ週に2回しかない休日のありがたみがわかるという事なのだろう。僕はまだ学生なので実感を以て語れないけれど。これは「働く」と「休む」の関係が相反する性質を持っていると言える。例えば学生時代の夏休みなんかは、2か月も休めてうれしいけれど、そのときは本当のありがたみなんてきっとわかっていない。

「失って初めてその大切さがわかる」という言い回しがよくあるけれど、それも相反するものという切り口で見てみよう。「ある」状態から「なくなる」から、なくなったことに気づいた瞬間、まだ「ある」と思っている自分と「ない」という事実の、相反する性質が同時に存在する期間が生じる。

これは喪失感が生まれるメカニズムなんじゃないかと個人的に思っている現象の一つでもある。もうここにはない、と失った事を受け入れた後は、自分の認識も「ない」側になるので失った事は次第につらくなくなっていくけど、「ある」と思い込んでいる、あるいは「ある」事に慣れている状態で突然「なくなる」と、「ない」状態に瞬時に切り替える事ができなくて自分の認識と事実の間に大きな隔たりが生まれ、その隙間から喪失感や虚無感みたいなものが出てくるんじゃないか、と。
うーん、上手く言えた気がしない。喪失感の話は、またいつか。

イベントごとの後の寂しさは、誰かと一緒にいた事や、自分の感情の動き、平常時とは違う高揚感など、非日常の波がどっと押し寄せて来た後の、その波が引いていった静けさに由来するように思う。例えば修学旅行。好きなアーティストのライブや、音楽フェス。人がたくさん集まるような大きなイベントでなくてもいい。仲のよい友人とのごはんや、恋人とのデート、ひとり旅。
そういった非日常が日常と相反するものだからこそ、底なしの楽しさや思わず笑顔になってしまうような嬉しさがあるんじゃないか。
そして、日常に戻ってきたときの寂寥感もまた、非日常と相反する状態に戻るからこそ生まれてくるものなのだろう。

寒いからあたたかい

昼間に星は見えない。夜は暗いから流れ星を観測できるのだ。

光があるから影ができるように。
なくなるから、あったことがわかる。

つまりは、寒いからあたたかいのです。

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