常識という言葉はむやみに使っちゃダメってことを常識にしてほしい話

今回の話は、この言葉を使う人に対して良い印象を抱いたことがない!という経験則でしかないです。

例えば、目上の人は敬うのが常識だ!などという人がいたら僕の中ではほぼブラックリスト入りです。
こいつは他に敬われるような(自慢できるような)ポイントが無いのかな?と思ってしまいます。
さらに言えば、こいつは具体的な根拠も示させないから常識というあいまいな表現で終わらせてるんじゃないかな?とも思ってしまいます。
(僕がひねくれているのは百も承知です。。。ただ、僕は他者を敬うのに年齢は関係ないと思っています。敢えて引き合いに出す必要がないんです。)
いかがでしょう?あなたの周りにはこんなひとはいますでしょうか??

最近読んだ正欲という小説を読む中でも上述のことを想起させる表現がありました。

マジョリティというのは何かしら信念のある集団ではないのだと感じる。マジョリティ側に生まれ落ちたゆえ自分自身と向き合う機会は少なく、ただ自分がマジョリティであるということが唯一のアイデンティティとなる。そう考えると、特に信念がない人ほど”自分が正しいと思う形に他人を正そうとする行為”に行き着くというのは、むしろ自然の摂理なのかもしれない。

出典元:正欲|朝井リョウ|新潮文庫


ちなみに、常識という言葉でググるとこのように出てきます。

一般社会人が共通にもつ、またもつべき普通の知識意見判断力。「—がない人」「—で考えればわかる」「—に欠けた振る舞い」「—外れ

出典元:Weblio辞書|デジタル大辞泉

一方で、常識と呼ばれるには過去の経験や実績に裏付けられた合理的な理由(常識の常識たる所以)があるはずだ、とも思っています。
だったら(だからこそ)、その合理的な理由を常識という一言で済ませてはいけないと思います。
理由を理解しないままに常識という単語が独り歩きさせるから、「先輩の言うことは絶対だ。」みたいな極端な文化が生まれてしまうのではないでしょうか。

以上、常識という単語ではなく、なぜ常識だと思っているのかをきちんと言葉にしてあげましょう。という提案でした。

話の途中に出てきた小説「正欲」の感想についても書いていますので興味のある方は読んでもらえると嬉しいです。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました!

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