温故知新-昭和と平成の開発コンサルタント列伝-聞き書きプロジェクト
もう10年以上前に書いた構想(企画)にもとづく連続講座を転載いたします。
【es001】ESSCES (エセス)略して【es】プロジェクト始動! 国際開発学会の宿題です^^?
初出:facebook版 歩く仲間 2011年11月29日
http://www.facebook.com/#!/note.php?note_id=316774845016528
というより実は、以前からなんとなく考えていたことなので、人のコメントや後押し(応援)とは、一旦、切り離して、そのプロジェクトの意義を考えてみようと思います。
1. ESSCES Project、略して【es】プロジェクトとは?
es とは言うまでもなく、ドイツ語の指示代名詞、英語でいえば、it (イット) つまり、「それ」プロジェクトです。なんていうんだろう、別に秘密めくつもりは全くないのですが、コードネームで、例えば、ミスター・チルドレンの楽曲や、マイケル・ジャクソンの楽曲、「This is it」をたぶんに意識していますが、「そうそう、まさにそれなんだよ」というものであると同時に、「最後のカーテンコール=これっきり、これが最後だよ」ということまでなんとなく私にはみえてしまっています。
ESSCES = Ethnographical Study on Samurai Consulting Engineers もしくは、Ethnographies on Secret Samurai Consulting Engineers といったほうがいいかもしれない。少なくとも最初に私の頭に浮かんだのは後者でした。
これは、日本の60年になろうとする開発援助の黒子に徹してきた無数の決して表に名前のでてこなかった(でも業界人なら誰もが知っている)開発コンサルタントであるサムライエンジニアたちの聞き語りを歴史の証言としてアーカイブすると言う、とてつもないプロジェクトです。
そもそも個人では決してできないことですが、アウトプットとして頭に浮かんだことは、ソロワークとしては、宮本常一先生の『年寄りたち=忘れられた日本人』、共同研究としては、平凡社の『日本残酷物語』のようなものになる、いやなるべきだと思っています。
実は、宮本先生は、「年寄りたち」つまり、のちに「忘れられた日本人」という聞き語りをまとめる過程で、独自の民俗学の考え方を整理したといわれています。彼にとっても、大きなターニングポイントになった経験(体験)が、明治生まれの文字のある伝承者と文字を持たない伝承者とのジャム・セッションだったのでした。世間師(しょけんし)を訪ねての旅、自身がすぐれたフィールドワーカーであったと同時に、世間師そのものであって彼の真骨頂がエスノグラフフィーであったことは、決して偶然ではありません。
なんとなく、ゴールは見えている。でも、これの影響というか、社会に与えるであろうインパクトの大きさにたじろぎもしています。
つまり、パンドラの箱を開けることになるのではないかと。
なぜ、なのかは、次回で説明します。
ではでは^^?
【es002】プロジェクトXから10年・・・なぜ、今、プロジェクト【es】なのか?
初出: facebookページ 2011年12月4日
今からちょうど10年ほど前、2000年~2005年頃までNHK総合テレビで「プロジェクトX挑戦者たち」というドキュメンタリー番組が、静かな反響を呼び、最後には国民的な番組として、特に団塊の世代以上の多くの企業戦士たちの熱い涙を誘ったことを覚えているだろうか。あのテーマ曲と、田口ツモヲの語りを忘れられない人もいよう。
確かに過剰な演出もあったかもしれないが、大体が事実に基づいたそれぞれの「物語」は、全く背景や当時を知らない若い世代にも多くの共感と感銘を与えた。私もその口ではあるのだが、少しひねくれた見方をすれば、失われた10年に対する日本人の鬱憤を晴らすかのような、プロパガンダのような(国営の)番組であったといえるかもしれない。
テーマ曲である中島みゆきの「地上の星」やエンディング曲の「ヘッドライト・テールライト」も、はやりに流行ったし、中島みゆきが黒部第4ダムの坑道の中よりライブで、紅白歌合戦に参加したことを思い出す人も多かろう。
しかしである。「地上の星」を熱くカラオケで歌うシニアを見て、なにか違和感を感じた若者はいなかったのであろうか。というのは、まさに私がそんな若者であったからである。つまり30歳頃で、ちょっと社会人も板についてきた頃、何をここまでのめりこんでいるんだというのも本音であった。
私の感覚では、団塊の世代より10歳くらいシニアの人たち、そう戦後の復興期に青年期を過ごし、実際に昭和30年代から40年代への高度成長期を、日本社会の主人公として生き抜いた方々の思い入れは、正直、団塊ジュニアである私みたいな1970年生まれの若造には、まったく理解できなかった。
いや、たぶん理解できるフリをする意味のないことを知っていたというほうが正しい。本能的に、若者は知ったフリをしてはいけないのだとわたしは感じていた。正直、シニアがカラオケにこめた想いの重さはわからなかった。ただ軽いものではないのだろうなとは感じた。
きっとリアルタイムに生きてきた世代にとっては、若造が訳知り顔をすることは感情的にもしっくりとこないものがあったのではないか。そんなシニアの横顔を、なぜか今、ふと思い出してしまった。
それらの楽曲の入った中島みゆきの「短篇集」というアルバムを、今、もう10年ぶりくらいかに聞いているのだが、なんというのであろう、平成も10年も経った頃の番組であったはずなのに、もろに‘昭和’テイストなものであったことを改めて感じる。
さて、ということで本題に入る。
プロジェクトXは、各回の読みきり?の番組として確か数年にわたる長寿番組となり、とりあげられたプロジェクトも書籍やDVDになるなど、今での貴重な日本の戦後復興や高度成長の時代、いや最近のプロジェクトも取り上げていたからもっと、広い意味での「日本人」が関わった(特記すべき)「プロジェクト」大全とでもいえるだけのボリュームと内容になっている。
「事実は小説より奇なり」とは言い古された言葉ではあるが、まさに、この番組を見て眼からうろこの新発見が多かったのではないか。特に業界やインサイダーにとっては常識でも、それ以外の人にとっては新奇でかつ重要な教訓や学びを与えてくれた。
実際に、このことは非常に重要なことである。つまり、内部の‘者’にとってはあたりまえのことでも、外部者から見るとまったく常識でもないとんでもないことってありませんか。
この番組名のプロジェクト「X」とは未知数の「X」という意味であると、どこかで聞いた?覚えがあるのであるが、これはこれでよい。不特定多数の視聴者に、さまざまなプロジェクトのバラエティ(多様性)を伝えるのであるから。
しかし、私がいう【es】とは、英語でいえば、「it」であり、「その」プロジェクトのことである。
「それ」とは何か。これを「日本の開発コンサルタントが携わった開発援助プロジェクト」のことだと、私は考えている。
開発学は、欧米ではそれなりの歴史があるのかもしれないが、日本では大学院レベルの教育が行われるようになったのは1992年頃のこと、実は私が大学を卒業した年であるのだが、まだ20年の歴史も持たない。
しかし、開発の時代を狭くトルーマン大統領の「開発のための闘い」をスタートとしてわずか60年、第2次世界大戦より戦後復興プロジェクトの開始としても65年、少ないとはいえ先進国、以前は第一世界といわれた資本主義陣営と第二世界といわれた社会主義陣営は、覇を競うがごとく、第三世界と呼ばれたアジアやアフリカの新興国を。、それぞれの陣営に引き込むべく、膨大な開発の実践を世界中で展開してきた。
ここで忘れてはならないことは、学校教育という場では20年の経験しかないとはいえ、日本の開発援助の歴史は、1955年のコロンボプラン加盟にさかのぼってすでに55年の長きにわたろうとしているのである。
私は、1992年より縁があって、日本のトップの開発コンサルタント企業の一つに席を置かせていただいたのであるが、その中には、驚くような、サムライ・コンサルディング・エンジニアたちが生息していた。
実は、世間には全く知られてはいないがそれこそ‘無数’にあるプロジェクトXの現場に、私も居合わせることになったのである。
2008年に事情があって16年間にわたった開発コンサルタント会社社員という立場にピリオドを打ったのであるが、一旦埋め込まれた(開発)コンサルタント的な生き方自体を変えるつもりは全くない。
最近は、地域活き生きアドバイザーなどと称して、まちづくりに顔を出したりしているのも、その延長線上のことで、現在の仕事とは全く関係がないが、生き方としては筋を通していると思う(たぶん^^?)。
ある研究者は、「(開発)コンサルタントのDNA」とでもいうものがあるということを言った。半分冗談であろうが、私もその言わんとするところは、なんとなくわかる気もする。
なにか、前口上ばかりで全然、本題に入れませんが^^?
正直、このプロジェクトを進めるのには気が重いところもある。なぜなら、プロジェクトは‘生きている’から、現在、進行形の‘物語’であるからである。
当然、生きているこということは、切れば血もでるというか、名誉や利権やさまざまな利害関係がある。
特に、開発援助業界は、1980年代の終わりの強烈なODAバッシングや2000年中頃の不祥事など、マスコミに対する不信感や社会に対して‘開く’ことを潔しとしないというか、本能的な恐怖感がある。
加えて「コンサルタントとしての倫理」、つまり業務上知りえた情報を外部に漏らしてはならないとする「守秘義務」という大きな「壁」もある。
開発コンサルタントが表にでない理由と(言い訳)は、それこそ、きりがないくらい、いくらでもある。
そもそもであるが、内部の人間は、自分の目の前の仕事をこなすだけで手一杯で、人のことにかまっていられないという現実もある。
しかし、‘誰’のために人が働いているのかということを冷静に胸に手を当てて考えてみれば、自分のためや自己実現のためというを一旦、横に置いてみると、我々の答えは案外シンプルである。
少なくとも、わたしにとっては明白で、「あなたの笑顔のために(For Your Smile)」でしかない。
いや、それがまた難しいのであるが^^?
11月26日と27日に名古屋大学で国際開発学会の第22回大会が行われたのですが、私は、2つのセッションでフロアから発言した。
一つは、26日の「Influencing:開発の民族誌研究の影響力」というセッションで、Influencingをめぐるパネラー達の発言に対して、「研究者がとか実務家(開発コンサルタントを含む)などと議論している場合ではない。影響を与えるべき対象は「普通の国民」である。私は、2003年ごろから開発民俗学を提唱して勝手に情報発信をしている」とついつい勢いで言い切ってしまった。
まあ、半分以上本気でやっていることなので、それはそれでいいのだが、開発コンサルタントも学界(学者)も机上の開発論を戦わすことより実際に’平の人’の理解と協働がなければ、開発(学)自体がなりたたない、と私は思う。
私がいたずらに開発を礼賛しているわけではないことは、「開発民俗学-地域共生の技法-」なのでの葛藤をみていただければわかるのだが、これからは、開発する/されるの(二元論的な)対立ではなく、共に何が一番‘われわれ’にとってよいことなのか考えあう時代なのではないかと思う。
次の発言は、11月27日の「開発と社会学」という企画のセッションで、またも同じような展開で、社会学と実務者との距離を嘆く?ような内容だったので、いや待て、「社会学の学者達が懸念するようなことは、すでに開発援助の現場では現実的な課題として日夜コンサルタント達は格闘している。開発業界で生きている(食べている)人が日本に20,000人いるといわれているが、この学会には2000人しかいないではないか。残りを占める開発援助業界のプロ達(特に開発コンサルタント)たちは、50年間、開発援助の実務に携わってきたが、日本の政府開発援助の黎明期のコンサルタント達は、もう80歳や70歳を迎えて、何も語ることなく墓場に知識と経験をもっていってしまう。今の時点でアーカイブしないと日本の開発学会そのものの大きな損失となる。」というようなことを思わず言い切ってしまった。
若気の至りとはいえ、とんでもない啖呵をきってしまったものである。私も言ってしまってからびっくりというか、話の流れとはいえ、実はこれはもう10年来、持ち続けてきた私の実感でもあるので口に出した以上は実は腹をくくっている。
この場で言わなくてもずっと考えていたことであるし、たぶんそのうちに取り組むべき私の課題が、少し前倒しになっただけだと思う。
結局、‘誰か’がやらなければならないことだし、今、やらなければ現実に「間に合わない」のも事実であるからである。
これはもう、しっちゃかめっちゃかというかパンドラの箱を開くようなとんでもないことになったとも思うが、もうこの際、勢いでやってしまえという気にもなる。
さてさて、どう具体化するかは現在、検討中。
ただ、うまくやらないといかんなということだけはわかっています。
近いうちに地下にもぐらないとまずいかなとも思いつつ、一旦、筆を置きます。
ではでは^^?
【es003】自らを語ることの難しさ
(書き下し 2011年12月15日)初出: 日本における開発コンサルタント論・・・プロジェクト【es】 @ mixi開発コンサルタントコミュ
地下にもぐらないとまずいなどといっていた私がなぜ、「開発コンサルタント」のコミュにあえてこのような書き込みをしたのか。
自爆テロ並みのむちゃくちゃな暴挙ではないかという気もしているが、それは、私がそれなりに腹をくくったからに他ならない。
開発コンサルタントの実態というのは、実はかなりのベールに包まれているといのが実状で、昨今では‘中に入ること’自体が難しい上に、内部の人となったらなったで、身内では仲良くするが、概して外部に対してはかなり閉鎖的になってしまうということがあげられる。
そもそも、これは開発コンサルタントに限ったことではなくて、全ての社会人がお金をもらった働く‘業界’そのものの特質でもあるのだが、みな自分の身の回りの仕事に忙しくて、社内の調整、業界内でのしのぎ(同業他社との闘い?)や他の関連業界への営業や調整と、身の回りのことだけで十二分に忙しくて、なにを赤の他人や一般市民(いやな言い方ですが^^?)に自分の仕事や業界の話をしなければならないのだというのが本音だと思う。
そういう意味で言うと、私は、全く会社貢献をしなかったサラリーマン(会社員)であったと思う。
ただ開発コンサルタントの間での連帯感や、広く開発援助業界や日本や世界の世論や具体的な動きには、それなりに敏くて、もう10年以上も前から、日本の開発コンサルタントも、いい加減に自己開示して、説明責任を果たさなければならないと考えてきた。
ただ、現役の開発コンサルタント(の会社員)として、社会に向けて発言するのはさすがに憚られたので、「歩く仲間」の名刺を勝手に作って一人NGOみたいなことを始めた。それが30歳前後のことであるから、すでに10年以上、2枚の名刺を使い分けてきたことになる。
ともあれ、いろいろな考え方もあろう。「開発コンサルタント論」は、それこそ、一人ずつ違ったものであってよいと思うのであるが、一つだけ、今のシニアコンサルタントがいる間にやらなければならない仕事がある。
それが、日本のODAの黎明期から世界で活躍した伝説の開発コンサルタント達の物語を残すことである。
なぜ、それが今なのか。
徐々に私の体験からそれを説き起こしたい。
to be continued!
ではでは^^?
【es004】開発コンサルタントの聞き語りによる日本の開発援助研究(仮題)について - 前口上 -
初出: facebookページ 歩く仲間 2012年1月7日
いよいよ中身に入ろうと思うのだが、いささか私的な話から始める事をお許しいただきたい。
私は、1992年に大阪外国語大学のアラビア語専攻を卒業しているのであるが、もともと人文地理学に興味があって、しかも現代の歴史や政治にも関心があった私は、大学という何をやってもよいという身に余る自由に道を見失いかけていた。今思えば単なるバカ?であるが中学生時代(1985年)にたまたま市の青少年施設(太陽の塔)のイベントで見かけた原爆の映画(人間を帰せ)に魂を被爆した私は本気で外交官にでもなってアメリカとソ連を握手させることを夢想していた。しかし時代の進むのははるかに早く、それからわずか数年後にはドイツのベルリンの壁の崩壊や中国の天安門事件、南アフリカのマンデラ大統領とアパルトヘイトの廃止、ソ連の崩壊など、あれよあれよという間に世界は激変し、私の夢はあっけなく現実に叶ってしまった。のであるが、その後の第2世界なきあとの世界の混乱については、だれもが知るところであり改めて言うまでもないであろう。
大学時代に学内の外交官の勉強会に入ってやろうと思ったが、あえなく挫折、結局、欧米の国際法などのなりたちというか枠組みのいい加減さというと誤解を与えるが、ギリシアとローマの伝統は中世でイスラーム世界を通じなければ現在まで継承されていないのであるが、それをすっ飛ばして西欧の歴史に接木する無節操さにあきれて、こんなバカなルールは認められないというのが、当時から今までの西欧ルールに対する基本的な私のスタンスである。今、世界中のいろいろな局面で、開発の世界も例に漏れず、‘民主主義’とか‘民主化’とかいわれているが、これほどうさんくさい言葉はないというか、それぞれの地域事情を考慮せずに言葉だけが独り歩きしていてしかも迷惑を与えている言葉はないであろう。
ともあれ、世界の激変の中でアラブも例に漏れず、イライラ戦争(イラン・イラク戦争)が終わったかと思えば湾岸戦争が勃発し、行く場のない私の唯一の希望であったエジプト留学も流れてしまった。そんなときに出会ったのが、飯塚浩二の「東洋史と西洋史のあいだ」岩波書店 1963という本で、中世のシチリア島の特異な位置付けについて、非常に明確にわかりやすくしかも楽しく解説していた。今でも、この知的な興奮はわすれられないであろう。留学もできないし現代的な問題をやってもダメだから中世史をやろう、これならアラビア語の知識も、そもそも好きなアラブの旅行記や地理書の研究もできるし、ということで中世シチリアにおける寛容の精神や共生のあり方について研究しようと思ったのであるが、わずか半年の浪人期間のみであえなく挫折。浪人中にとりあえず就職活動はしておけという親の指示で、やむなく始めた就職活動もことごとく落とされ(説明会にいってもそれ以上先に進めなかった)泣きついたアラビア語の主任教授である池田修先生の推薦を受けた某一部上場企業の役員面接で落とされるという前代未聞の不祥事を起こしつつも、結局、やはり自分の関心のあることでないとダメだと国際協力関係の役所などに絞って就職活動を再開、たまたま行った国際協力センターの説明会後に送っていただいた国際協力ジャーナルの1992年のリクルート特集号、これに載っていた開発コンサルタントの見開き2ページのダイレクトリーにあった三祐コンサルタンツにたまたま拾っていただき開発コンサルタントの門をたたいたのであるが、そもそも国際協力業界のことなんて、全く回りに先輩もいなくわからずに、本社が名古屋で農業関係というだけで選んで電話して3回の面接だけで通ってしまったという超裏道というか裏門から入ったようなもので、ちゃんと正規に試験や面接をやっていたら当時でも今でも絶対に雇ってもらえなかったであろう。
結局、私は、開発コンサルタントがなにであるか何も知らずには業界人となったわけで、もともと開発論者でも反開発論者でもない。あえて言えば、もし開発が避けられないものであれば、少なくとも現地の人に対する悪影響を少なくしたい、といった程度の事なかれの日和見のスタンスである。そもそも‘開発途上国’に関心があったわけではなく、自分の知らない広い‘世界’が知りたかっただけである。
確かに、1985年のバングラデッシュの飢餓に対する英国のバンドエイドやエチオピア難民に対するUSA for AfricaのWe are the world、日本でのネグロスキャンペーンなどのさまざまな開発途上国援助のためのプロモーションに関心がなかったわけではない。
だか単純に‘貧しい’とか‘かわいそう’とか、「恵まれない子供たちに愛の手を」などという陳腐なキャッチフレーズに流されるほどおセンチでも初心でもお人よしでもなかった。中学1年生の時に出合った原爆のドキュメンタリー映画をきっかけに、中高校生のときにはまったのは本多勝一の「戦場の村」といか「中国の旅」、極めつけは「殺す側の論理」とか「殺される側の論理」など一連の朝日文庫のドキュメンタリーシリーズとか、岡倉古志郎の「死の商人」(岩波新書)とか、フィクションよりむしろノンフィクションのルポルタージュとか新書とかであった。結局、小中高から今まで小説はほとんど読まない。小説より事実は奇なりという事実は、いくらでもあります。本当に世界をいろいろみてみると^^?
まず基本的に私は開発援助業界に身をおいたものの、業界を弁護する立場でもないし、中身を知らずに批判するという無責任な立場でもないというのが今のスタンスである。
ただ、中に入ったら入ったで大変でした^^?右も左もわからないとはよく言ったもので、特に困ったのが日常業務と開発援助の‘崇高な’目的なりが全く結びつかなかったことである。民間企業である開発コンサルタントは、当然のことながら営利企業であり、ちょっと知的ではあるが組織であり、やること自体は調査も設計も施工管理も、はたまた日常の細かな日常業務も、いわば全て金儲けのための‘仕事’であり、どこの企業でも、大規模であろうが中小企業であろうが、ひたすら繰り返すルーティン・ワークでしかないのである。
開発援助の最前線で、‘貧しい’?人たちのために、僕は私はがんばっているだという充実感は、少なくとも東京でのオフィスワークを見る限りは‘ない’。
結局、要領も悪く社会性のない私は普通の人が1年や遅くとも3年でわかることや簡単な作業でさえ、なんとなく自信をもってこなせると自分で思えるようになったのは、入社して7年とか8年かけてやっとこさ、人の半人前、同期は遥かに先の業務をやっているという状況であった。
いや、正確にいうと文系で語学系の私みたいなポジションの先輩は10年上の東京外国語大学のドイツ語卒の先輩ととふた周り(24年)の大阪外国語大学のタイ語の先輩がいるきりで、会社の本業である農業や水資源関係の技術者や経済畑のいわゆる技術系のエンジニアとはちがった立ち位置に退社するまで、最後まで悩まされた。
結局、技術のないものが、いかに開発コンサルタントの仲間や開発援助業界を見たかというのが、この研究の出発点であり描き出したいことである。
そもそも人間世界の全ては技術論でもなく論理や理論や理屈の世界ではない。喜怒哀楽や好き嫌いとか表も裏もあるどろどろした‘天’と‘地’と‘人’の世界である。
私が16年間努めた会社は、株式会社三祐コンサルタンツというのであるが、非常にわかりやすい会社名であった。創業メンバーの愛知用水の図面を引いた安城農学校の浜島辰雄先生の新入社員に対する説明は、下記のとおりであった。
「三祐の‘祐’の字は、正確には示す偏に右と書き、その意味は、‘たすけ(である。3つのたすけ、すなわち‘天’のたすけ、地のたすけ、人のたすけのことである。すなわち農業開発など大きな事業を起こすには、神仏など天の助け(政治的な‘天の声’というものもあるが)と自然環境のたすけと、多くの人々のたすけ(協力)がないと事は成就しない。そして、コンサルタンツと複数形であるのは、一人のコンサルタントではなく仲間で事にあたるから(最初から)コンサルタンツなのである。」
これほど理路整然とした会社名の解き明かしは、正直、私は今まで聞いたことがありません^^?
名古屋が本社で東京が支社というこんなオーナー会社は、実は、プロジェクトXでも取り上げられた戦後の世界銀行の借款プロジェクトの一つである愛知用水を作ったいわば日本の農業分野の開発コンサルタントの草分けであり、農業土木の分野では日本トップの会社でもあったのでした^^?
正直そんな事情なので、学問的とか中立性とか無記名性とかは一旦おいておいて、‘客観的’に描くことより、当事者としての自覚と‘主観’をもって開発コンサルタンツたちの物語を始めたいと思います。
(この項 了)
【es005】そもそも‘開発コンサルタント’とは? 開発援助‘業界’と開発コンサルタント論
初出: facebookページ 歩く仲間 2012年1月8日
開発コンサルタント論、これは非常に簡単であると共に非常に難しいことであるといえる。
まず、なぜ簡単なのか。それは開発援助の実務の世界では自明のことであり、特に開発援助‘業界’の内部者にとってはいわずもがなの最重要なステークホルダーのひとつであるということ、ただし、その全貌についてどこまで開発コンサルタントといわれる人自体が理解しているかについてはかなり個人差があることは否定しないが、ともあれ‘あたりまえ’のものであるのだが、やっかいなのは後者。具体的には、国際開発学研究者と国民、両者における‘開発コンサルタント’に対する理解は、ほぼ絶望的に薄く、そもそも‘社会的’に認識されるにいたっていないのではと思うような局面すらある。
日本の社会と開発コンサルタントとのかかわりについて、私見の及ぶ範囲で説明させていただくと(筆者は1970年生まれ)、見えない存在から、露出したかと思えば、1980年代後半のODAバッシングの渦中で、発展途上国の貧しい人たちの役には‘ほとんど’たたないばかりか、貧しい人たちや少数先住民を抑圧し追い立てるような巨大開発で、一部高官の私財の蓄積に貢献?し、独裁政権や軍事政権を‘公に’支えたダーティーな日本の資本主義の尖兵である商社、建設業者、メーカーの、さらに奥に影に隠れたフィクサー(暗幕)もしくはブローカーみたいなものとしてで、確かに直接にマスコミや政治論争の場に引っ張り出されることは少なかったと思うが、非常に怪しげで訳のわからないものというイメージが定着してしまった。いや、その後に及んでも‘存在’すら表立って認められなかったというほうが正しいであろう。
私は自分自身のこととして鮮明に覚えているのであるが、1992年に開発コンサルタントに就職が決まったとき、大学の恩師から、怪しげなブローカーみたいな職種について気の毒がられたという記憶がある。正確な言葉は覚えていないのであるが、へんなところに入ったねえというようなニュアンスのことを言われた。
この日本の一部の識者によるODAバッシングの経緯とその後についても、もう30年前の歴史的な‘事実’としてきちんと検証しなくてはならないと思うが、ともあれ1990年代の当初は、開発途上国の開発を仕事にするなんてとんでもないという風潮が大学人にはあったことは明記しておくべきであろう。
それは、そのまま当時から現在にいたる‘学界’そのものの立ち位置と決して無関係ではない。
国際開発学会が創立20周年を数えるが、果たしてここに所属する研究者(学生会員を含め約2000名)の何人が、開発援助業界と開発コンサルタントについて‘正しく’知っているのであろうか。
何が‘正しい’のかも恣意的なものかも知れないが、事実として最低限押さえておくべきことは、開発コンサルタントとは、欧米流に言えば‘コンサルティング・エンジニア’、日本で言えば‘技術士’という国家に認証された‘エンジニア’の開発専門家であるということである。
いやこの20年間の参加型開発に見られる草の根アプローチの開発現場では適正技術や人類学や社会科学系のバックグランドをもった開発フィールドワーカーに注目が集まっていて、それこそ、開発のプロフェッショナルと思われている風潮があるが、いえいえ過去もこれからも開発コンサルタントの主流は‘エンジニア’に代表される‘技術’をもった専門家である。
この研究では、‘開発コンサルタント’そのものについても、開発援助研究のなかの非常に大きなポーションを占めるステークホルダーの一つとして分析を進めていく予定である。
ともあれ、開発援助‘業界’そのものが、一般の人には見えづらくわかりにくい。特に、この研究は、国際開発学会に所属するような(専門的な)研究者に、業界と、開発コンサルタントというものについて理解してもらうことを目的の一つとしている。
そもそも私の「歩く仲間」プロジェクト自体が、一開発コンサルタントが直面した‘世界’と‘開発’をめぐる情報発信であることを思えば、どの講座やエッセイを読んでいただいても、一つの開発コンサルタントのフィルターを通った世界認識論であることに気づかれるであろう。
とりあえず、まとまった言及として下記の2つの記事に目を通していただくことをお願いいたします。
■対談・開発コンサルタントとは? 2004年6月1日
http://homepage1.nifty.com/arukunakama/ondc000.htm
■‘開発民俗学’への途(第1部)<連続講座> 2000年7月15日~2008年1月27日
http://homepage1.nifty.com/arukunakama/r0000.htm
この項、了
【es006】開発コンサルタント=コンサルティング・エンジニアとは?
初出: facebookページ 歩く仲間 2012年1月22日
まず、開発コンサルタント論から始めたい。
今でこそ、開発援助業界自体が人気業種?となっていることからか、国際開発ジャーナルなどの業界紙による年刊の『国際協力ガイド』などが大手書店では平積みされているような状況であるが、それでもやはり「民間」というところが怪しげでかつわかりにくさを助長している。「開発学」を学んでいる学生(院生)ですら、開発コンサルタントってなんやねんという状況である。
2004年当時の現役院生とのやりとりはこちらを参照。
■対談・開発コンサルタントとは? 2004年6月1日http://homepage1.nifty.com/arukunakama/ondc000.htm
また、コンサルタントという言葉自体もこの10年くらいで非常に人気がでてきて一定の意味を持ちつつある。つまり経営学系のMBA資格の人気と共に、欧米の戦略系の経営コンサルタントや、インターネット時代を受けてのITコンサルタントなどが先に知名度を上げてしまったために、逆に、シビルエンジニアリングの開発コンサルタントと、どう違うのという問題がでてきている。
おおまかに言えば、「コンサルタント」であるからには、やることや本質はたいした違いがないはずである。しかし、そのような経済や経営やIT系のコンサルティングファームと日本の開発コンサルタント会社との決定的な違いは、どのような‘技術’を持っているのかという点に集約される。
つまり、日本の古くからの(といっても第二次世界大戦後であるから50から60年)老舗で大手の開発コンサルタントは、ほぼ例外なくコンサルティング・エンジニア、つまり技術士の所属する科学技術系の設計・調査の会社である。
先の対談でもふれたことであるが、その一部を下記に引用する。
「回答(1-1) しばやん 2003/08/09
http://homepage1.nifty.com/arukunakama/ondc005.htm
「まず、そもそも日本における開発コンサルタントについて説明しますと、例えば、端的にもうしますと、国際協力事業団*1(JICA)という組織がありますが、JICAに、コンサルタント登録している日本の民間法人(会社:数千名~数人まで規模をとわず)、約1,500~2,000近くあります。(これらの会社の一覧は、JICA本部のJICAプラザで閲覧できます)そのうち、実際に、JICAから業務を受注している会社は150~200くらいです。たぶん契約額売上の上位50社で、JICA業務の60~70%を占めているのではないでしょうか。
そもそも、日本の開発コンサルタントの歴史は、第2次世界大戦前に母体を遡れる会社がいくらかあるとしても、ほとんど全ての会社が、戦後に土木建設部門の戦後復興のための公共事業、例えば、黒四ダムや、新幹線、愛知用水、名神高速道路などは、世界銀行の借款として、技術者の大きな発給もととして、農水省や建設省等のエンジニアも交えた技術者集団が、アメリカ等、先進国のエンジニアリングを学んで、卒業というか、いわば独立して民間会社としての礎を固めました。
つまり、社会公共財(インフラ)といわれている公共事業の調査・計画・設計・調達・工事監督を行ってきたのが、日本の開発コンサルタントなのです。
このコンサルタントの仕事をするためには、技術士という国家資格(現在20部門)をもった技術士が一定の基準で所属していることが必要で、つまり旧来の日本のコンサルを建設コンサルタントというゆえんです。
そして、建設コンサルタントは、ほとんど例学なく日本国内で官公庁の仕事(公共事業)の設計等を行っており、その売上の、5%~30%等、会社の余力をもって、海外事業、ほとんどが、JICAや国際協力銀行(JBIC)の仕事を行っているのが現状です。(日本のODAより競争の厳しい世界銀行などの国際金融機関や国際機関の仕事を受注できる実力のある日本のコンサルは、ほんの数十社しかないのも事実なのです。)
注:*1 2003年10月1日より「独立行政法人 国際協力機構」となる。ただし、英語名の’Japan International Cooperation Agency’は変わらない。
回答(1-2) しばやん 2003/08/09
http://homepage1.nifty.com/arukunakama/ondc006.htm
果たして、どのような経歴の人がコンサルタントなのかは、上記をみればわかるように、そもそも論として、理系の技術者が圧倒的におおく、多分昔から修士以上の学歴の方が他の職業に比べて多かったのではないのでしょうか。多分、私の直感的なつかみですが、経理や営業や会社の管理部門のスタッフを除いたいわゆる専門家の70~80%が、技術的なバックグランドをもっており、国内の公共事業で実務経験を俗に8年~10年ぐらい積んでから海外要員として、海外の開発の仕事に携わるようになってきたのが、10年ほど前までの(ある意味では今でもですが)内実であったと思います。
しかし、1992年ぐらいを境に、日本国内でも、社会開発分野の開発学関係の学部や大学院が相次いで設立され、それらの社会科学系の人たちのコンサルタントへの入社が増えてきたと思います。(それまでは、経済学や政治学系の一部の人たちが、経済効果をはじくとか、今思えば限定された部門での需要を満たすために、やはり昔から一定数の専門家は必要とされており、経済学や財政学専門のコンサルタントもあるにはありました。)
今、多分、文系の開発学系の方が想像する社会開発専門の日本のコンサルタントというのは、社会の需要の変化により、約10年から15年ほど前から、どんどん設立されてきていますが、ほとんどが小規模(数名から数十人程度)で、実力のある会社は限られているのが実情です。
最近はやりの経営コンサルタントやITコンサルタントの、日本のODA参入は、たかだかこの10年くらい前からのことではないかと思います。
詳細に入れないこともないのですが、まずは実情として、以上を報告します。」
引用終わり
したがって、社会科学系の開発学を学んだ学生にとっては、一体、日本の開発コンサルタントって何って思うのは当然であろう。はっきりいって、職業分類で言えば「その他サービス業」であり、「建設業」の一部門という言い方もできるのが日本の開発コンサルタント会社なのである。
だから国際開発学とか公共経営・政策分析とかいう分野は、‘いままで’の開発コンサルタント‘会社’では必要とされてこなかったし、今でも大きな重みはおかれていない。
なぜなら、そのような‘文系の知識や学問’は、クライアントである‘国’や‘国際機関’のオフィサーが‘考えれば’よいことであり、技術屋である開発コンサルタントは、言われた‘全体構想’にそってその‘一部’の主に構造物を作るための専門家集団であるからなのである。つまり餅は餅屋といったもので、開発コンサルタント会社に政策通や理論家や学者は要らないということになる。
というのは、極論でもあるし、現実にそのようなバックグランドをもった社会開発の専門家、しかも若手が開発コンサルタント業界に参入している以上、開発コンサルタント業界自体も変わっていかなくてはならないし、内部から変わっていることも事実である。今(2012年)の時点で、ぎりぎり50歳半ばくらいの開発コンサルタントならある程度は開発‘学’というものに理解があるかもしれないが、それ以上の世代にとっては開発学ではなく開発行為の‘実践’つまり具体的なプロジェクト(しかも構造物)の実施(建設)こそが開発であるという考え方をすると思う。
つまり参加型開発やプロセス重視の住民参加とかが問題や課題なのではなくて、何がアウトプットとして‘できるか’ということが全てなのである。何が、モノとしてできたか、ここに開発コンサルタント会社の利益関心があると言い切ってしまってもよい。
技術的な開発コンサルタントの存在意義というか仕事の目的は、一言でいえば、「モノを作ってなんぼ」のものであり、それが開発NGOや学会の関心と真っ向からぶつかることは最初からわかりきっていることである。そもそも向いている方向が違うのだから。
確かに日本のODAが60年を迎えようとしている今では、「モノを作ってなんぼ」という考え方自体が許されないことは当然のことかもしれないが、その「モノを作って」というところの、いわば開発実践における苦労について、もっと注目をされてよいはずだし、アイデア(考え)を具体的な‘モノ’として仕上げるという‘プロセス’そのものについて、もっと敬意がはらわれてしかるべきなのではないか、というのが、私がこのプロジェクトを立ち上げた大きな一つの動機となっている。
ビジネスの世界では、‘成功して当たり前’であるとされるが、その‘当たり前’とされることを実現するためにどれほど多くの人の知恵と努力が隠されているのか、そこにはとてつもない‘なにか’がある、あったと考えるのは当然のことではないか。
‘当たり前’の裏側にあること、これは、別に開発援助の世界に限らず、あらゆる生活の局面においても忘れてはならない視点であろう。当たり前を当たり前とさせている技術や努力、創意工夫など、それこそ‘知る人ぞ、知る世界’が、どんな単純で簡単そうなことの‘裏側’にもある。その裏側に、徐々にスポットライトを当てていきたいと考えている。
とりあえず、ここで、開発コンサルタントや開発援助の実態にせまる参考となる本を挙げさせていただく。
○ グレアム・ハンコック著 武藤一羊監訳 『援助貴族は貧困に巣喰う』 (Loads of Poverty) 朝日新聞社 1992(原著 1990)
今での一定の真理はあるだろうと思われる国際援助‘ビジネス’を扱ったジャーナリスト・グラハム・ハンコックの告発の書。基本的に欧米の世銀システムと二国間援助を扱っており、その大筋は今でも変わっていないと思う。ただ非常に残念なのが、座談会で日本の援助に触れているところ。これは半分は当時の認識としては、間違いではないにせよ、やはりNGO(PARC)とかマスコミ(朝日新聞社)という一方的な見方であるということ。きちんと政府関係者(ODA推進側)と対話があったのかというのが、1980~1990年代のNGOやマスコミに対する私の評価である。つまり、どちらもが自分が見たいとするコインの一面しかみていない。両者間の建設的で具体的な対話は、正直なかったのはないかと察する。結局、1980年代終わりのODA批判は、NGOやマスコミが散々騒ぎ立てて、政府関係者や開発コンサルタント自体は口を堅くつむぐという結果に終わったのではないかと思う。つまり、本質的な議論はなかったことと同じではないかと思う。なぜ、議論が成立たなかったについてもこの講座で明らかにしていきたいと考えている。
そこらへんの日本の開発援助を巡る言説を分析したのがこちら。
○北野収 『国際協力の誕生-開発の脱政治化を越えて-』 創成社 創成社新書46 2011年2月20日
最近、たまたま本屋で見かけてよくまとめられているなと感心した。まだ読了していないが、、日本人の国際協力や開発援助を巡る思想について、具体的に今までのテクストを読み解き説明している。また、視点に客観性がある点に好感が持てた。まず、ここら辺から始めるのがいいのかもしれない。
○コーエイ総合研究所編 『国際開発コンサルタントのプロジェクト・マネジメント』 国際開発ジャーナル社 2003
日本の開発コンサルタントのトップ企業が、いわばその手の内を明かしたプロジェクトマネージャー養成のための教本(マニュアル)。当然オフレコの部分には触れていないがそれでも日本の開発コンサルタントのレベルがわかる唯一の本だと思う。
○橋本強司 『開発調査というしかけ-途上国と開発コンサルタント-』 創成社 創成社新書27 2008年10月10日
現役の開発コンサルタント、日本でも有数の地域開発のプロジェクトマネージャーの一人の橋本さんの開発コンサルタント論。開発調査については、別途、この講座でも取り扱いますが、そのODAの援助行政の中における位置づけと、いわゆる開発コンサルタント的な発想方法について、豊富な経験と持論を展開している。開発コンサルタントの論客の一人。
○森田裕之+21人の野武士たち 『技術士 独立・自営のススメ』 早月堂書房 2005
たぶん、手に入れることがとても難しいと思うので、もし図書館かどこかで手に取る機会があれば見てほしいのだが、技術コンサルタントの技術士協同組合の理事長の森田氏の「技術士」という職業に関するエッセイ集。日本の技術士が企業でサラリーマンとして働いている現状に対して、そもそもの‘コンサルティング・エンジニア’のあり方についての持論を展開している。学問的な本ではないですが気楽なエッセイとしては楽しめます。直接、開発コンサルタントとは関係ないですが、コンサルティング・エンジニアの考え方というかあり方については、私も目からうろこでした。
こんな感じで、開発コンサルタントについての知識を仕入れつつ、徐々にその実態に迫っていきます。
今日はここまで^^?
この項、了