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文系と理系論争の違和感。文系の立場から、また有用性について

 ネットを覗いていると、文系と理系はどちらが優れているかとか、有用かとか、お互いが衝突し合うような不毛な争いをよく見かける。

 正直な話、どちらも必要であり、横断する必要があることは間違いない。本来学問というのは等しく存在しており、そのような壁は無いものであるという前提で話をしていきたい。

 文系理系の大変さでいうと、僕は文系であるが、理系の方が上回ると感じる。それは、単純に量の問題でそうであり、理系の道に進むほうが受験は厳しく進学してからの忙しさがある。

 それは教育制度がそうさせた訳であって、本来学問的な優劣はない。だが、しばし上記の理由を混合して、学問の優劣について議論が飛び火することがある。それについては全く別の話だと感じるから、違和感を覚える。

 そもそも学問に優劣はなく、双方は互いに関わり合っており、元は隔たりなく存在したものだ。そもそも分野が違う。

文系と理系は分野の違い

 文系は目に見えないものについて考え、理系は目に見えるものを考える、あるいは目に見える形にするだと感じる。

 ここでは文系の立場から物を言うが、それは僕が文系であるという理由と、このような議論では大抵文系の劣位について語られる。また文系が理系に突っかかることにより起こることもしばしばだ。

 正直、言い方の問題な気がするが、劣位の側に立たされている以外にも突っかかる理由がある気がする。そもそも劣位に見られてしまう理由だ。

 科学により生活は便利により発展していった歴史がある。実際理系的な科学知識がなくとも、理系分野は何かに役立っているから素晴らしいと、理由や内訳を聞かずとも、その有用性を否定する者などいないだろう。

 それは目に見えて僕達の生活にきざすものであるし、いつかは目に見える形で成果が見える予感と、自分自身が見なくともどこかで役に立っていると感じるからだ。

 対し、文系分野は目に見えない真理を求めるため形として世に見えにくい。実体のあるものでないと役立たないと思われるが、それ自体がかなりの科学信仰であり、目に見えないものが役立たないと断言できるのもの疑問を感じてならない。

 僕たちは現に目に見えない感情に動かさているし、世の中に簡単に説明できない人とのトラブルや、出来事があるではないか。

文系の有用性とは

 目に見えなく、何に役立つのかも分かりにくいため、有用性を訴えるのも哲学の仕事の一貫であると言いたい。そこには多少理系的なスタンスを一時批判するようなものも仕事手段の1つな気もする。

 本来は否定すべきではないし、フラットであるべきだと感じるが、今の状況だと人が興味を示してくれないという課題もあるのだろう。

 科学技術が発展する前、より善い人間になることを求めていた時代があった。そのような試みを、無駄かと思っていた人がいるのかは分からないが、人間について深い理解を得ましたと知恵を得た喜びを分かち合っていたと僕は想像する。

 より善い人になることや、人間とは何なのかという問いはこの地に生を授かれば自然な問いであって、そのようなことをふと考えてしまう人間だからこそ、求める必要があるのだと感じる。

 ある本で「神とは何か」という問いは「自己とは何か」という問いに似ていると述べられているのを見た。

「神とは何か」という問いはこのようにわれわれが普通「...とは何か」と言う場合とはまったく次元が違う。「ここに・いま在る」と明確につきとめられるような仕方で出会っているのではないが、自分の奥深くでその現存を感じているとしか言いようのない存在に向けられた問いである。これは自身の自己へと向けられた問いに似ている。

神とは何か 哲学としてのキリスト教(一部改変) p22


 「神とは何か」と急に言い出せば、非科学的でスピリチュアルの人など散々言われるだろう。多くの場合、それは神の存在証明の話をしており、神について話す時、疑問を抱くのはそのことだけではないのだ。

考えることはどう役立つか

 考えることはどう役立つか。役立つかどうかで物を見ることがすごく現代的な価値観だと感じるが、有用性を表現することを語り口としたため一応考えてみる。

 結論的には、形にない事を考えることは役立つかを考えないところにあると感じるが、無理やり役立つかどうかに落とし込む意見として見てもらいたい。

 僕は哲学の専門の人ではないが、哲学がどう役立つかと聞かれたら、道徳や視野が身につくことと言うだろう。目に見えない概念を考える時、自己の内省を行うことになる。

 自己認識というのは物体的な探究を精神分野に反転させるというより、自らの行いを振り返る、省みることだ。

 書籍では、自己認識はきわめて形而上学的探究であり、アウグスティヌスの言う「あなた自身の中に帰れ」の実践だと述べている

 内省を行うことでより善き人間を目指せると僕自身は考えている。

 別に内省しない人が道徳が無いとは言わない。

 ただ多くの人が認めるであろう道徳が無いと思われる人は内省をしていないだろう。例に挙げるとしたら店員に理不尽なクレームや横暴な態度を取る人など、自分の利益重視の人だ。

 自分を省み、人間について考えれば、行動や考え方に変化が生まれるのは当然だ。それは知識の活用ではなく、知恵を得てアップデートされる意味での変化。自分にとっての利益ではない。

 自分の利益を考えているから、ストレスを店員にぶつけたいとか、自分より下の存在を見つけたい(職業をバカにする)などをすると僕は思う。

 知恵は利益を生み出す目的ではない。良い人が損をするのも、良い人は自分の直接的利益で動いていないからだ。

 どうしようもない問い思い浮かべた時、このようなことを考えるのは無駄であって、何か別のことをした方が有意義と考えるのは、ごく普通の意見だろう。

 しかし、そのどうしもなさから逃れることが問題を放棄していることも理解しなければならない。そのような問い自体を認識しているからだ。既に入り口に片足入ったことと同じだ。

 不合理さが人間の本質というのなら、納得の答えの1つでもある。でもそれは探究の諦めなことは否定できない。

 そのように目に見えない、一見どのような役に立つのか分かりくいことを認識しようとする行為は、立派な研究姿勢であって十分学問として成り立つ事柄な気がしてならないのだ。

まとめ

・文系理系で有用性について問われるのは、教育制度の問題

・文系は形に見えにくいため、有用性が感じられにくい。そのため有用性を主張することも仕事の一環である

・考えることの利益は形に見えないところにある。我々は目に見えない感情に動かされているし、現実は不合理なことも多い。それらを人間の課題として探究することは、人間に生まれた我々に大切なことではないか









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