どうやら私には見えていないらしい、というはなし

なんやかんやあって生まれてこの方25年である。しかし、「25歳」という実年齢に比べて、私はどうやら「幼い」らしい。

自分の精神年齢の低さについては、小学生の頃から自覚があって、今ではもう慣れっこである。(「実年齢に中身が追いつかない」という気持ちを多くの人が抱きがちであることは、一応わかったうえでそれでも。)

自分で分析するに、私が「幼い」理由は以下の三つである。

1.一人っ子でのんびり育った                                            2.子役への憧れが強かった           3.思春期にいろいろ拗らせた

大学生の途中までは「どうして自分はみんなより幼いのだろう!」と嘆き、上記の理由を思い出しては自らを哀れんでいた。

が、今ではもうどうでもいい話だ。いくら悩んでも私が急に大人びるわけでもない。25歳の私は「自分の幼さ」をその原因含めて受け入れている。

大切なのは【今の私】そして【これからの私】       2020年の私は会社に勤めていて、一人暮らしをしている。  【それまでの私】の歩みは「役者になりたい」という思いを軸にした物語だった。でもそれはもう終わってしまったと思う。未練でジュクジュクしている部分はあるけれど、それは私の意思で終わらせたものだ。

私は私自身をシアワセにしなくてはならない、そんなことを最近よく思う。

コロナ禍はあいかわらずだが、秋めいてきた気候に思うことがあって、この記事を書いている。季節の変わり目はマインドも次のステップに進みやすい気がする。

「役者になるための物語」を生きてきた私は、【現実の日常】を酷く馬鹿にしてきた。小中高校の各時代において、現実はいつも「抜け出すべき場所」であり、そのために私は努力した。わたしの居場所は「ドラマの中」にある、と信じて疑わなかった。

そんな私が「日常」に戻ってきた。これからの物語の舞台はこの「日常」に切り替わる。物語のテーマはまだ決まってなくて、これから心動かされるものや、心身ともにまきこまれるものによって決まると思う。

そんな私の目に映る世界はなんだか新しい。色や光やにおいや音が、これまで感知してきたものとなんだか違う。「日常を生きる人々にはこれが見えていたのか?」と羨ましくなって、やっぱりその考えは捨てる。人には人の乳酸菌。ではないけれど、その人に見える世界は、やはり、その人独自の世界観だ。その人の身体が、経験が、思考がその世界観を作り上げる。私は私の人生を生きてきたわけだし、今さらなにも羨ましくなんかないよ。

25歳の真ん中で、あかちゃんみたいな気持ちになりながら、これからの物語に想いを巡らせる秋。

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