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魔法の風景 2

この時ちょうど、あの少年と眼鏡の男もその場を立ち去ろうとしていた。ところが、自分たちをじっと見つめている視線に気づいてギョッとする。
視線の主は、絵描きがかぶるフェルト帽に、同じく絵描きが羽織るスモックといういでたちの…、そう、我らがイェルンその人である。ただ、彼はスリたちが自分の方を見ていることに気づいてさえいないようだ。
実に奇妙な注視のし方である。
スリたちは薄気味悪げに顔を見合わせながら、こそこそとその場から逃げていく。一方、マジシャン本人はといえば、さっさと商売道具を片付け、金属製のトレイを片手に見物料の徴収を始めている。
そこで、イェルンはようやく我に返ったように目をぱちくりする。あたかも、それまでの彼の両の眼は、ちょうど現代のムービーカメラのごとく眼前に展開する光景を収録していたにすぎなかったかのように。
さて、おもむろに立ち去ってゆくイェロンの背後で、ちょっとした悲鳴が上がる。
「おお、わたしの財布がない!」

【半地下のアトリエ】
イェルンがイーゼルに立てた木製パネルに向かって絵筆を走らせている。
そこには鮮やかな手つきで、先ほどのマジシャンのシーンが描き出されてゆく。全体としては現実の風景を圧縮したような構図だが、一人ひとりの人物や、背景は実にリアルだ。
そこへ、伯父のホーセン Goessenが顔をのぞかせる。
「おお、またそんな絵を描いているのか。わははは」
「はあ…」
「売れんぞ、そんなふざけた絵なんざ」
「いいんです、べつに売れなくったって」
「いいか、我が一家はプロの絵描き一族なんだ。この街だけじゃなく、フランドル中から注文がくる超一流のアトリエだぞ。おまえだって、わかってるだろ?」
「ですよね…」イェルンは相変わらずせっせと筆を運びながら、どうでもよさそうに生返事するだけだ。
「はっきり言って、おまえは我が一族でいちばん絵が巧い。それも、図抜けて巧い。それは認めよう。おまえほどの腕をもつ絵描きは、世界広しといえどもそうそうおるまい。なんでも、イタリアにはヴィンチ村出身のレオナルドという、お前とほぼ同い年の名人がいるとのうわさだが、そのレオナルドの絵を実際に見てきた者たちも、お前の絵はやつの絵にも勝るとも劣らない出来栄えだとほめちぎっておったわ。わっはっは」
「カエルだな…」イェルンはボソッとつぶやく。
「カエル? そのレオナルドとやらのことか?」
「あ? いや、ここにカエルを描こうかと…」
「どこに?」ホーセン、近寄ってきてのぞきこむ。
それに気づいたイェルン、まじまじとその横顔を見て「あ、じっとして!」
「ん?」伯父は怪訝そうに振り向く。
「五秒でいいから、横向いたままでいてくれません? そのまましゃべってていいですから」
「おいおい、伯父様相手にモデル役をつとめろと、ご命令かい?」ホーセンは苦笑いしながらも言われたとおりにする。「わかったわかった、五秒だけだぞ」
イェルンは実際五秒だけ伯父の横顔を見つめ、それで納得したらしくパネルに向き直ってサッと筆を入れる。
「さ、もういいだろう」きっかり五秒後、ホーセンは甥っ子の絵筆の方に視線を向ける。「おいおい、何のモデルかと思えば、この間抜けな見物人の横顔の口元ときたか? わっはっは。なんだ、この口元から垂れてる涎とカエルみたいな生き物は? おや、テーブルの上にも小っちゃいカエルがいるじゃないか。なんのつもりだ、いったい?」
「おしゃべりが過ぎると出てくる生き物です」イェルンはさらっと言ってのける。
「こいつ!」ホーセン伯父は大笑いしながら、甥っ子を叩くふりをする。「ま、いいさ。好きなように描きな。お前がただの絵描き職人じゃないってことは、わしにだってわかってるさ。悪かったな邪魔して」
アトリエから出てゆく伯父の方は振り向きもせず、イェロンは独り言のように言う。「口元じゃなくて、無駄口ってやつがどんなふうに見えるのか間近で観察させてもらっただけです」
だが、その声はホーセンには聞こえないようだった。


映像プロモーションの原作として連載中。映画・アニメの他、漫画化ご希望の方はご連絡ください。参考画像ファイル集あり。なお、本小説は、大航海時代の歴史資料(日・英・西・伊・蘭・葡・仏など各国語)に基づきつつ、独自の資料解釈や新仮説も採用しています。