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『日本人の心と社会の成り立ち 〜「甘えの構造」から見えること〜』【#1】

日本人の心に響く?鬼滅の刃の人気の理由から振り返る日本的·日本らしさの根底に流れるもの

『 THIS IS US/ディス·イズ·アス 』の物語考察では、ある一つの家族の姿を心理学の視点を交えながら振り返ってみました。

その中で描かれるのは、人間なら誰もが何かしらの形で経験する自己成長までの葛藤や、他者との関わりの中で見えてくる様々な愛の形や人の想い。ドラマが語るストーリーには、人類の普遍的な営みがテーマとして流れているものの、ゆうきさんも指摘されているように、この作品にはどこか「やっぱりアメリカだな~」、とアメリカの社会·文化的文脈があってこその物語感を感じる部分もあったように思います。

この「っぽさ」ってなんだろう…?を追求していくと、やはり文化的に培ってきたコミュニケーションスタイルの違いや、固有な心の取り扱い方など、いわゆるお国柄的な特徴が見えてきます。

日本で著名な精神分析家·土居健郎氏は、戦後間もない頃、日本からアメリカに渡り、自身のアメリカ生活での異文化体験や、米国人と日本人の臨床心理経験を通じて、日本人の精神的傾向を分析する研究を残しています。彼の代表作である『「甘え」の構造』からは、「甘え」という言葉をキーワードに、他国·他文化出身者とは違う日本独特の精神性についてを学ぶことができます。

そこで、この回からは、土居健郎氏の代表作である『「甘え」の構造』を主軸に置きながら、日本の文化や社会に漂う「日本っぽさ」をゆうきさんと一緒に掘り下げていきたい!!そしてそれを日本で話題の物語作品と一緒に、振り返ってみたいと思います。

『「甘え」の構造』の紹介

1971年に刊行された土居健郎氏の『「甘え」の構造』は、その名の通り、「甘え」という言葉から理解することが出来る日本人の精神性を深く追求·分析した本であり、50年以上たった今でも、日本人論の代表的な作品の一つとして多くの人に読まれています。

自身のアメリカで経験したカルチャーショック体験を起点に、土居氏はアメリカ人と日本人である自分の間に存在する「相手への期待の仕方」など、対人関係において今まで当たり前だと感じていた前提に大きな違いがあることに気づいていきます。自分が咄嗟に口にした言葉や、それに対して相手から返ってくる態度など、言葉の使われ方やそのルーツにある考え方など、アメリカ人とのやりとりで経験する精神的衝撃や差異を分析していくうちに、自分の中に相手への「甘え」が動機として根底に流れていることに気が付きます。そしてその在り方が、日本特有の独自の精神性を担っていることにも。

土居氏は、「甘え」という言葉が、英語やその他の言語には簡単には直訳出来ない語であることに気づくとともに、日本には「甘え」から派生して、心情を語る多くの語があることにも気づきます。そして、このように意見を述べています。

甘えという語が日本語に特有なものでありながら、本来人間一般に共通な心理的現象を現しているという事実は、日本人にとってこのような心理が非常に身近なものであったことを示すとともに、日本の社会構造もまたこのような心理を許容するようにできあがっていることを示している。言い換えれば甘えは日本人の精神構造を理解するための鍵概念となるばかりでなく、日本の社会構造を理解するための鍵概念ともなるということが出来る。

土居健郎『「甘え」の構造』から抜粋

「甘え」が、どのような国民性、はたまた社会構造を作り出しているのか。土居氏の個から始まる「甘え」論の分析は、家族の在り方や師弟関係など日本人の他者との関わり方の傾向、そして文化·社会的構造全体の特徴へと展開されて説明されており、日本的心理現象を読み解くのに欠かせない概念になっています。

『「甘え」の構造』は中身がとても濃くて、簡単には咀嚼ができない本のため、ゆうきさんと数章ずつ読み進めながら、そこから見えてくる心理的現象を、そのテーマに合いそうなメディアと共に話してみたいと考えています。

ということで、この記事では、早速、第一章 「甘え」の着想 ~ 第二章 「甘え」の世界までの内容と共に、ある一つのブームの裏に隠されているかもしれない日本の精神性を掘り出してみたいと思います。

鬼滅の刃が日本で大ヒットしたのはなぜ?ブームの背景から振り返る日本的·日本らしさの根底に流れるもの

日本で大ヒットしたアニメ作品『鬼滅の刃』。漫画が原作のこの作品は、コロナ禍の日本において、アニメ化されたものが大ヒット、社会的にも大ブームを引き起こしました。

ストーリーの大筋は、人喰い鬼に家族を殺された少年炭治郎が、鬼の襲撃から唯一生き残ったが負傷し鬼化してしまった妹を人間に治す方法を探るために、鬼との戦いに身を投じながら成長していく話。

アメリカにいても、その人気が伝わってきたほどでした。そしてわたしも妹に激推しされてアニメ版を見てみたのですが、案の定、面白くてハマってしまい、現在アニメ化されている部分までは全て見てしまいました。

この作品がブームになった背景には、作品の面白さはもちろん、普段アニメを見ない層の人たちを惹きつけた点があったそうです。

アニメ化が放送されたのはコロナの時期。そのため、アニメを見る時間があった人もいつもよりも多かったという物理的理由もあるようですが、日本人の心に響く何かがこの作品にはある気がします。

その魅力の理由とは?「甘え」の視点から見えてくるものは何なのでしょうか。

(ちなみに、ストーリーの内容は本記事の目的上、かなり割愛していることをご了承ください。)

『鬼滅の刃』にみるストーリーの特徴

この作品の一番の魅力は、なんと言っても、ストーリーがとにかく面白いこと!

一人の孤独な少年が、仲間を得、葛藤を乗り越えながら成長していく王道ストーリー…でありながら、そこに肉付けされるように、その節々に語られる様々な登場人物たちの訳ありストーリーも感情移入が出来てとても面白い。そして、作品レビューを読むとコメントしている人も多いのですが、敵の鬼たちの扱いがとても独特。最初はただの戦闘モノの話かと思いきや、敵である鬼たちが、鬼になるまでの経緯や彼らの生き様や挫折体験、気持ちがちらほら垣間見える場面の多いこと。これが、すごく尾を引くのです(作中に出てくる敵の鬼達は皆、元·人間の設定なのです。)

しかしながら物語の構図自体は、実は、アメリカで大ヒットになったマーベル映画·アヴェンジャーズシリーズにとても似ています。

アヴェンジャーズは、アメリカンコミックを原作としたスーパーヒーロー達を集めた総称で、現在、アイアンマンをはじめ、マイティ·ソー、キャプテン·アメリカ、ハルク、アントマン、ブラックパンサー、スパイダーマン等、誰もが知っている有名キャラクターたちがその代表格となっています。彼らに共通するのは、皆、何かしらのきっかけがあってスーパーヒーローの力を手にしたキャラクターたちであり、それが、それまた何かしらの理由を機に悪に手を染めてしまうヴィランたちと対峙する構図で物語が描かれます。

でも、アメリカで大人気だったマーベルが、なぜ日本ではそこまで劇的な人気にはならず、一方で鬼滅の刃は大ヒットだったのか。その理由に、わたしは鬼滅の刃には日本美的な描写が魅力的だっただけではなく、日本独特の精神性が隠されているように感じました。そこで両者を比較し、双方の違いを特に強く感じる点を取り出してみました。

マーベル作品と鬼滅の比較から見えてくるもの

マーベル作品も鬼滅の刃も目指している方向は同じ、最初は弱かったヒーローが、ちょっとづつ強さを得て、最終的には悪役・ヴィランを倒していきます。

しかし、その動機や変革、そしてヴィランの描かれ方は2者間で大きく異なっていきます。

マーベル作品のヒーローたちは、多くは、何かしらのアクシデントがきっかけで突然スーパーパワーを手に入れることになります。そして、ヒーローとして社会を守る役割をこなしながら、普通の人間として生きていきたい自分と、ヒーローとしての責任の重さに葛藤を抱えながら自身を成長させていくことに焦点が当てられます。

一方、鬼滅の刃の主人公炭治郎は、家族を殺し妹を鬼に変えてしまった鬼たちを憎んでいます。そして、妹を人間に治すために、半ば無鉄砲的に過酷な旅に出る中で、彼の向こう見ずなところを正しながらも支持してくれる師匠や仲間を見つけ、彼は強さを身につけていきます。

物語の構成はとても似ているものの、主人公の心情には『鬼滅の刃』と『マーベル作品』で、全く違う動機や葛藤が潜んでいることが分かります。

これは、自我が強調される個人主義を背景に持つアメリカで生まれたアメコミヒーローが、社会から期待される自分像と自我にどう折り合いをつけていけるか、そしてその中で感じる強い『孤独感』をどう扱っていくのかが焦点になっているのに比べ、鬼滅の刃では、個というよりも家族との一体感や師匠や仲間との持ちつ持たれずの関係性の中で成長していく様子が強調されている点で、集団主義的であり、協調的で、文化的に大きく異なります。

また、ヴィランに関して、マーベル作品の場合、ヴィランにならざるを得なかった理由には共感できるキャラクターがたくさんいるものの、彼らが悪事を正当化する際に、絶対的正義が強調される場面がとても多いことに気づきます。悪に心を売った彼らは、自身の正当性をガンガン出していくあまり、歯止めが効かなくなっていくのです。なので、絶対的正義を振り翳しながら強大なパワーを得ようとするヴィランはさっさとやっつけて欲しい、と物語が進むにつれて視聴者はついつい思ってしまうし、戦いの終わりには、清々しさを感じるくらいです。

その面、鬼滅の鬼たちは、そういう輩だけではありません。主人公の炭治郎が戦った相手の多くは、人間社会に何かしらの恨みや未練がある中で、強大なパワーを与えられたことがきっかけとなって人を襲っていくようになります。しかし、その襲い方も襲う相手も場所も、人間時代に鬼たちが経験したトラウマや未練が再現された形に近い状態で行われています。そして、彼らが鬼になった背景が明かされるのは、鬼が退治されるまさに寸前。そのため、早くやっつけられろ、と思いながら決闘を見ていた視聴者は、鬼がやっつけられるまさにその瞬間に実は深い傷つきを持つ鬼の過去を知って、ついついそう思ってしまった自分に罪悪感を感じてしまいます。そして、情状酌量は出来ないのか…と後ろ髪を引かれるような切なさを覚えるのです。

『鬼滅の刃』に見られる日本の甘え:義理と人情

比較してみると、マーベル作品と鬼滅の刃に対する視聴者が感じる情感はかなり異なってきます。そして、この感覚は、土居氏が『「甘え」の構造』の中で語っている「甘え」の解釈を交えて考えてみると、すごくしっくりくるのです。

まず最初に、炭治郎の成長の仕方。ここには、土居氏が「甘え」の大きなキーワードとして挙げる義理人情があります。

土居氏の義理人情の説明によると、人情とは、人と人との間に有機的に発生する人間的な交流を指しており、義理とは、その人情が人為的に持ち込まれた関係性を指すと話しています。人間関係を表す感情に「甘え」が多く含まれているのを踏まえると、無自覚であったとしても、人情は甘えの心理を含んだものであると言えると説明しています。そして、義理は器のような存在として、人情を受け止める枠組みであると。つまり、元は他人同士である両者が義理という関係性を持つことで、その中で人情的な精神関係(甘え甘えられる関係)を作っていくことが可能になると話します。

鬼になってしまった炭治郎の妹は、ことあるごとに鬼退治を目指す鬼滅隊に殺されそうになりますが、炭治郎の「妹を助けたい」という強い思いを受け、彼ら鬼滅隊は妹禰󠄀豆子を殺さずに炭治郎に情けをかけることになります。それは、最初に出会った鬼滅隊の一人·富岡から始まり、富岡は、彼の師匠である鱗滝左近次に炭治郎を紹介します。炭治郎に訪ねられた鱗滝左近次は最初躊躇いますが、愛弟子の富岡の意向を汲んで、炭治郎の最初の師匠となり、彼を強くなるよう鍛えます(その間、妹の禰󠄀豆子を大切に育ててあげることも怠りません。)そして、炭治郎が一人前になれたあとは、鬼滅隊に推薦状を書いて彼と彼の妹禰󠄀豆子が無事に成長できるように全力サポートするのです。そのおかげで、炭治郎は鬼滅隊の一員となって、メンターに見守られながら強さを身につけるための過酷なトレーニングに精進しさらに強さを身につけていきます。

これは全て、義理人情(甘えてもいいし、頼ってもいいよ、といった優しい加護)の関係性のとてもポジティブな側面を表しています。

この、頼り頼られる温かい義理人情の交流が主人公を中心に至る所で描かれる鬼滅の刃は、日本人にとってとても馴染みがあり心地よく感じられるのではないかと思います。

一方で、鬼滅の刃で登場する鬼たちの世界にも、この義理が成立していることが見受けられます。鬼たちが生まれた背景には、一人の凶悪な鬼(鬼舞辻)の存在があります。この鬼が、自分の血を人間に分け与えることにより、血を与えられた人間は皆、鬼になって、不死の能力と強大なパワーを得ていくのです。

甘えを取り巻く心理の一環として、土居氏の義理への見解では、彼は、義理が発生する契機になるものとして恩を挙げています。恩は、相手にしてもらった何かしらの好意·厚意であり、それを受けて、自分も相手に何かしらの厚意を返すという相互扶助のシステム(つまり義理という関係性)が成立します。しかしながら、それはある意味、恩とは心理的負債であることも指しています。実際に、この恩が心理的負債であることを象徴するような義理に縛られた苦しさが語られる鬼のエピソードもありました。

『鬼滅の刃』に見られる日本の甘え:同一化と摂取

鬼滅の刃に登場する多くの敵鬼たちは、人間時代に自分がまさに死ぬといった危機的タイミングで、この鬼舞辻と出会い、血を分けてもらうことで、鬼としての人生をスタートさせます。それはある意味、契約のような縛りを持ち、彼の意向に反対すれば、彼の血が体を巡る鬼達は容赦無く切り捨てられる、という上下関係、それは人情の無い義理を利用した支配・服従、上下関係で成り立つタテ社会を形成していると言えます。

一方で、そのような社会では、組織の頂点に立つ鬼舞辻に対して、彼にとても依存的な鬼たちもたくさんいて、鬼舞辻に好かれるためなら喜んで悪事を起こす者も。それは一方方向の愛であり偏愛であり、人情とは呼べません。

この、相手に、「とりこまれたい」「好かれたい」という感情も、甘えの心理に通じていると土居氏は指摘します。甘えたい相手に好かれたい、そうするれば、甘えられる。そのために相手を取り込みたい。そこに他人と自分という感覚は無く、自分は相手、相手は自分という依存に基づいた安心感を与えることになります。

そのような心理を踏まえると、強力な力を持つ鬼舞辻の血を分け与えられ、彼と同じような特徴を持つ鬼になる(同一化する・摂取する)という、鬼滅の刃で描かれる鬼たちの描写も、タテ社会に慣れた日本人には、これまたとても見覚えがある感覚と言えるのかもしれません。

ちなみに余談ですが、文化的な現象として同一化と摂取の感覚は、日本文化の豊かさにも貢献しているようです。例えば、日本人は昔からもともと海外からの文化にとても興味津々でした。珍しい・新しいものを見ると相手と同じことをしたい、どうしたら自分のものに出来るか、といった同一化と摂取を繰り返しながら、外来の文化を日本文化に取り込んでいった歴史があること(戦後日本の急速的な欧米化や、日本風にカスタマイズされた食文化の多さなどまさに)が、その特徴を示しています。鬼滅の刃も、西洋文化が流れ込む大正時代頃を舞台にしているのもあって、そこで描かれる文化的特徴もとてもバリエーションに富んでいることが物語をより一層魅力的に引き立てているように思います。

『鬼滅の刃』に見られる日本の甘え:被害者意識

次に、マーベル作品との比較から浮き彫りになってきたものがあります。それはヴィラン·鬼たちの描き方。

鬼たちのバックグラウンドを知って感じるなんとも言えない切ない感覚。この理由も、土居氏の『「甘え」の構造』から、説明することができそうです。

土居氏は、「甘え」の心理を中心に様々な感情を表す日本語があることから、以下のことを述べています。

甘えたくても甘えられない、「すねる」「ひねくれる」「うらむ」は甘えられない心理。すねるのは素直に甘えられないからそうなるのであるが、しかし拗ねながら甘えているとも言える。「ふてくされる」「やけくそになる」というのはすねる結果起きる現象である。ひがむのは自分が不当な扱いを受けていると曲解することであるが、それは自分の甘えの当てがはずれたことに起因している。ひねくれるのは甘えることをしないで却って相手に背を向けることであるが、それは密かに相手に対し含むところがあるからである。したがって甘えないように見えて、根本的な態度はやはり甘えであると言える。うらむのは甘えが拒絶されたということで相手に敵意を向けることであるが、この敵意は憎むという場合よりも、もっと纏綿*としたところがあり、それだけ密接に甘えの心理に密着しているということができる。甘えの挫折の結果として怒る特殊な敵意を現す「うらむ」という語が日本語にはある。

土居健郎『「甘え」の構造』から抜粋
纏綿*とは、まといついて離れにくいさま、情が深くて離れないでいるようす

土居氏は、「甘え」が拗れた先にあるのは、「すねる」「うらむ」などの感情。そしてそれは、被害者意識の心理であると指摘しています。そして、被害者意識が強い人の中には、周囲から理解されずに孤立していった人も多く、それはすなわち、「甘え」の体験がポジティブに行えなかったケースと説明ができます。つまり、これらのネガティブな感情は、共感を得られない結果、甘えが上手くできずに拗れて、起こってしまっている病理でもあるのではないかと話します。

これを読んで、ピンときた人も多いのではないでしょうか?

そう、まさに、『鬼滅の刃』で描かれる敵の鬼たちは、まさにこの心理を持ち合わせ、挫折を経験したり、周囲から非難にさらされた結果、人をうらみ、自ら鬼となっていった者たちです。「本当はこうして欲しかった…」という寂しさと悲しさを抱えて、最後去っていく彼らは、悪役を全うして盛大に潔く散っていくマーベル作品のヴィランたちとはまるで異なり、最後はとてもかわいそうに思えてしまう存在なのです。正直、見た目も、マーベルの悪役たちはかっこいい感じなのに比べ、鬼たちは少し惨めっぽい苦しさを感じさせる何かが表現されているような風貌です。この「かわいそう」という感覚も、本当は何かしてあげれたのでは…?という後ろめたい気持ちを引き出します。この現象自体が、土居氏が説明する日本的な甘えによる心理現象と説明がつく可能性が高いのです。

『鬼滅の刃』に見られる日本の甘え:罪と恥、そして内と外

ちなみに、マーベル作品のブラックパンサーの最初の強敵キルモンガーは、背景的に鬼滅の鬼達と近い動機を持っているキャラクターのように思います。しかし、このキルモンガーの描写との比較で見えてくるのは、日本的な罪の意識の感覚。

キルモンガーは、親を殺され、仲間が虐げられる社会を生きる中で、力や資源を別の方向に使う特権的地位にいるブラックパンサーたちが許せません。そんな苦しみ憎しみが、彼を悪へと導いていきます。彼は、戦いに敗れた後に、自分の主張は決して否定せずに、犯した罪への罪悪感のみ認めて孤高に静かに亡くなります。これは、欧米文化が「恥」よりも個人が社会に対して行なった「罪」自体に意識を向けたがる傾向を指摘する土居氏の意見にも共通します。

そして土居氏は、日本的な罪の意識には、いつも相手への「すまない」感覚、他者から見た自分を恥じる感覚が存在すると説明します。そして、それは、自分と同じ集団に属す仲間や内にいる人に向けられて発することが特徴で、人情の発生する義理の関係に特に顕著に現れると話します。

鬼滅の鬼達は、「相手のせいで自分はこうなってしまった」という相手ありきのうらみやひがみの感覚を持ち、鬼化した後は人間を外部者(義理の関係よりも遠い他者)とみなすことで、容赦ない悪事を人間に対して働きます。しかしながら、退治される寸前に、一瞬人間だった時の思い出が蘇る際、人間に対して「すまない」恥の気持ちを強く感じるのです。

こう考えると、鬼たちが退治される間際に話す身の上話に炭治郎が共感を示す様子と、そして共感された感覚を受けて静かに穏やかに消えていく鬼たち…。ここに、好戦的だった外部者が、一瞬にして弱々しい(人情を掛けるべき存在の)身内になる感覚のシフトが起きる構図があるように思います。そこについつい、深い人情的な情感を感じて気持ちが揺れ動く人も多いのもあり得るかも!と感じました。

おわりに

なぜ、アメリカで超大ヒットを引き起こしたマーベル作品を差し置いて、同時期に日本では鬼滅の刃が大ブーム、マーベルには塩対応だったのかを考えると(マーベル好きのわたしにはとてもびっくりでしたが)そこには、日本的な精神性に重なる文脈が作品のヒットの影にあった可能性が見えてきます(ここでは述べきれていませんが、師匠達の過去の話も含め、鬼滅の刃には、つい気持ちが動揺してしまうような、強いて言えば「おしん」や「子連れ狼」のような切ない人情話、哀愁漂う情に訴えるような語りが多く盛り込まれています)。

もちろん、鬼滅の刃は、アメリカやその他海外の国でも人気があり、「甘え」という日本人に馴染みやすいテーマ以外にも魅力は満載の作品です。ただ、日本の、普段はアニメを見ない層まで惹きつけた何かがあるという事実。そこには、もしかしたら日本の精神性に根付く「甘え」の心理の貢献もあったのかな、と思いをはぜてみるところで、この記事は終わりにしようと思います。

バトンタッチ

今回は、土居健郎の著書『甘えの構造』の第一章 「甘え」の着想 ~ 第二章 「甘え」の世界までの内容に沿って、物語作品のブームの背景を探ってみました。そこから見えてきたのは、日本社会に様々な形で存在する「甘え」の姿と、「甘え」がいかに日本の環境で育った人にとってとても身近な感情であるかということ。欧米で大ヒットしたマーベル作品との比較により、日本らしさの背景に隠れている「甘えの構造」が垣間見れたように思います。

そこで、次はゆうきさんに、「甘え」が、日本社会の構造にどういう影響を与えてきたのか。「甘え」から見えてくる個の成り立ちの様子や、そこから生まれる関係性、そしてそれを包括する社会の様子へと範囲を広げて、「甘え」についてゆうきさんが今、気になっていることをゆうきさんの「推し」作品と共に教えてもらいたい!!とバトンを渡します。

参照:
土居健郎(2007)「甘え」の構造(増補普及版)弘文堂
アニメ『鬼滅の刃』
アヴェンジャーズシリーズ マーベル

その他参考記事:


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