指揮者がタクトを降ろすと拍手がはじまるコンサートホールは正常なのか
管理社会のコンサートホール
ふだんは自身のブログ(ARTONE MAG)でおすすめコンサートの紹介や公演レビューをつづっています。
今回は、コンサートに通っていて気づいた「アナウンス」の変化をつづります。
気になるアナウンス①
最近、とっても気になるアナウンスがコンサートホールで聞かれるようになりました。
「演奏後の拍手は、最後の音の余韻が消え、指揮者がタクトを降ろしてからお願いいたします」というアナウンスです。
この種のアナウンスが流れるようになったのは、いつからでしょう。
最初から違和感のあるアナウンスでしたが、最近、このアナウンスを耳にする頻度が多くなって、次第に、はっきりと「不快」に感じるようになりました。
たしかに、静かに消え入るように演奏がおわったときに、間髪入れず拍手されたり、オーケストラの壮麗な演奏が終わって、美しい残響がまだ鳴り響いているのに、ブラボーの掛け声でそれをかき消されたりすると、がっかりすることがあります。
だから、あのアナウンスが流れる理屈はわかります。
それなのに、あのアナウンスを「不快」に感じるのはなぜなのか。
なぜ不快なのか
それは、「拍手」というものが、感情の動きと直結する行為、感情の発露だからではないかと思い至ります。
自分の感情表現をあのアナウンスが一方的にコントロールしようとしてくること、もっと言えば、支配されそうになること、そのことが不快感につながっているのでしょう。
仮に「コンサート中に飴の袋を開けると音がひびくから気をつけるように」とアナウンスが流れても、不快感は感じないでしょう。
飴の袋で音を出すことは、感情表現ではないからです。
でも、拍手はちがいます。
強制とリテラシーのちがい
感情の発露のコントロールとなると、これはとても怖いことだということに気づき、ハッとします。
極論すれば、ある国家が防犯を理由に、国中に監視カメラを設置して、国民を監視下に置き、コントロールを試みるということ。
そのことと、このアナウンスがホール内でやろうとしていることとは、実は、そう遠い関係でもない、同じ線上にある行為といって間違ってもいない気がしてきます。
コンサートに通っていると、数回に1回くらい、みんながリテラシーを共有していて、余韻までしっとりと味わえるときがあります。
そういうときは、「今日はお客さんもよかったよね」と、一緒に来た友人と語らいながらコンサートホールの帰り道を歩く、満たされた一夜になったりします。
アナウンスによって強制された静寂と、聴衆のリテラシーによって形成された静寂。
どちらも同じようであって、その実は、まったく異なるものです。
バレエ団が練習に練習をかさねて到達する一糸乱れぬ群舞と、国家により強制されたマスゲームが見せる群舞とでは、その意味がまったく異なるのと同じです。
実際にもう何度も経験してわかりましたが、アナウンスが流れたコンサートでの拍手の始まり方は、どこか「不自然」です。
あまりに人工的で、つくられた「間」が生じ、美しくありません。
あのアナウンスはどこから来たのか
以前はなかった、あのアナウンスは、どういう経緯で生まれてきたのでしょう。
ホール側の行き過ぎた配慮なのか。
あるいは、おそらく、そうしたアナウンスを入れろというクレームがあったのでしょう。
早すぎる拍手にがっかりすることなんて、よくあることです。
がっかりして、あーあと思う。
ところが、それで終わらずに、「許せない!」とまで思ってしまうところに問題の根幹はあるのかもしれません。
他者に「完璧」を求める風潮。
そうした傾向は、年々、強くなっているように感じます。
あのアナウンスは、他者への寛容さが失われていることの、ひとつの表れでもあるのかもしれません。
気になるアナウンス②
同様に不快なアナウンスが「写真撮影」についてのものです。
SNSでの広告効果を期待してでしょう、NHK交響楽団を皮切りに、プログラム終了後、ステージ上を撮影することが許可されることが多くなりました。
それについても「自撮り棒は使わないでください」「目線より高い位置でカメラを構えないでください」「自身の席に座ったままで撮影してください」などなど、たくさんの注文がアナウンスされます。
このアナウンスが流れ始めたころ、私の前の席に座っていたお客さんが「そんなに心配なら許可しなければいいのに…」と話していましたが、その通りでしょう。
このアナウンスが不快なのは、「管理しよう」という思惑が強すぎるせいでしょう。
さすがはスタジオジブリ
スタジオジブリが作品の場面写真を一般に公開していますが、そこには、ただ「常識の範囲でご自由にお使いください」とあります。
アカデミー賞をとるほどの世界的なアニメ制作会社ですから、それこそ、著作権うんぬんを列記して、注意喚起をしても当然のはず。
でも、それをしない。
おそらくスタジオジブリは、意識的に、敢えてそれをしていないはずです。
つまり、この言い回しの簡潔さは、「管理社会への抵抗」を含んでいるように思います。
さすがはスタジオジブリ、簡にして要を得る言い回し。
コンサートホールでのアナウンスも見習うべきでしょう。
「他のお客様の迷惑にならない範囲で撮影をしてください」。
これで十分なはずです。
アナウンスが語ること
今後、この類いのアナウンスがコンサートホールで聞かれなくなることを願っています。
先日、新日本フィルハーモニー交響楽団のコンサートに行ったときには、この種のアナウンスが流れず、とてもホッとしました。
もし、こうしたアナウンスが今後広がっていくようであるならば、私たちは、自分たちが当たり前に享受してきた「自由」というものを、それとは気づかないうちに浸食されているという危機感を、はっきりと持つべきでしょう。
そして、なぜそこまで「管理」したがるかといえば、やはり、聴衆間でのトラブル、それに伴うクレームの回避が理由だろうと思います。
つまり、拍手にせよ、写真撮影にせよ、その根幹にあるのは、やっぱり私たち自身の「他者への寛容さ」の問題なのでしょう。
その意味で、最近のアナウンスの変化は、とっても多くのことを語りかけているとも言えるかもしれません。
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