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抽象画家フランツ・クラインの苦難の人生

抽象表現主義の画家フランツ・クライン(Franz Kline)の苦難の人生
フランツ・クライン(Franz Kline,1910-1962/アメリカの抽象表現主義の画家-アクションペインター)

一夜にして、核となる抽象表現主義の画家としての地位を確立した、それは、1950年、フランツ・クラインが40歳の時だった。

1940年代から1950年代の抽象表現主義運動に関する画家であり、New York School(ニューヨーク派)の中心核となる人物だ。

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by Franz Kline

・略歴- Franz Kline
1910年、ペンシルベニア州で生まれる。7歳の時、父は自ら亡くなり、その後、母は再婚する。それらの事情もあり、ジラールカレッジ(優秀な学力のある学生の進学のための寄宿学校/全額奨学金であり、1年から12年生まである)に入る。
1931-1935年、ボストン大学で芸術を学ぶ。その後、ロンドンにて、ヘザーリー美術学校(Heatherley School of Fine Art)で学ぶ。
この時に、彼は将来の妻であるエリザベス V.パーソンズ(英国のバレエダンサー)に出会う。
1938年、クラインとエリザベス V.パーソンズは共に、アメリカに戻る。その時のスタイルは、アシュカン・スクール(アシュカン派)の表象だった。

1939年、ニューヨークでデザイナーとして働く。
その頃から、アートのための技術(材料や技法)をリサーチ・開発している。

そして、上記の抽象表現主義の核となる1950年を迎える、常々の準備をしていると一夜漬けで、奏を成すと言う事だろう。

1950年、フランツ・クラインは40歳になり、マンハッタンのCharles Egan Galleryで、彼のアート・キャリアの最初の個展を開催した。そこで、抽象表現主義の栄誉のある地位を獲得し、そのスタイルの最も象徴的なモチーフの1つにランク付けされた。

その後、抽象表現主義の核となったフランツ・クラインは、ノースカロライナ州のブラックマウンテンカレッジ(Black Mountain Collage/リベラルアーツの実験的な教育機関)やブルックリンのプラットインスティテュート(Pratt Institute)など、多くの教育機関で教鞭をとる。
1956-1962年は、夏を観光地-プロビンスタウン(Provincetown, Massachusetts)で絵を描いている。
1962年、ニューヨークにて、心臓病で亡くなる。52歳の誕生日の10日前だった。

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Franz Kline

夭折な作家だったが、苦境から、地道な努力が奏を成した作家だ。
その絵画は、ダイナミックだが、当人は、地道な人物と言うことだろう。

(追記)いくら画家と言えども、その人生は、絵に描いたようには行かないものだ。ただ、普段からの視点の置き場は大切だろう・・

関連項目:ベティ・パーソンズ-ニューヨークスクール(ニューヨーク派)の「助産婦」。そのベティパーソンズ・ギャラリーは、抽象表現主義の初期の広報を成した画廊であり、その抽象表現主義の核メンバーを育成したアートディーラーだ。


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