見出し画像

美なる静けさ:画家ジョセフ・ピアソン

ジョセフ・サーマンピアソン・ジュニア(Joseph Thurman Pearson Jr. /1876- 1951/アメリカの画家・教育者)
その作品は、美なる静けさだろう、それは、ジョセフ・ピアソンの感性の極めと言える想像力で描かれている。
その作品は、オリエンタル、そして、日本の文化に影響されている
が、当時のアメリカでは、その部分の評価は良いとは言えない。(The Twins: Virginia and Jane -1917/第一次世界大戦-1914-1918年)

経歴-Joseph Thurman Pearson Jr.
1896-1901年、ペンシルベニア美術アカデミー(Pennsylvania Academy of Fine Arts/PAFA)にて、ウィリアム・メリット・チェイス(William Merritt Chase,1849-1916/アメリカの画家-印象派)と、そして、ジュリアン・ウィアー(Julian Alden Weir,1852-1919/アメリカの画家-印象派)に師事している。
1901年、PAFAからクレソン旅行奨学金を授与され、フランス、ドイツ、スペインを訪問している。
帰国後、ジュリアン・ウィアーには、私的にも学び、その後、ペンシルベニア美術アカデミー(PAFA)のインストラクターとして採用された。
1902年、エミリー・フェッターと婚姻して、長女ルース、バージニアとジェーンの双子のほか、7人の子供が授けられた。
1905年、「Study in Grey」(1905)は、妻のエミリーのフルレングスの肖像画だ。

画像1

(cc)Study in Grey-1905 

そして、長女ルースのフルレングスの肖像画も描いている、家族を大切にする紳士だ。
1907-1918年、国立デザインアカデミー(National Academy of Design)に定期的に出展している。

画像2

(cc)A Group of Geese-1910

1910年、「A Group of Geese」は、PAFAのフェローシップ賞、そして、1911年、「A Group of Geese」は、第2回ホールガーテン賞(Hallgarten Prize-National Academy of Design)を受賞する。

画像7

その後もこの流れの作品は評価を得ている。

そして・・

画像3

(cc)The Twins: Virginia and Jane -1917

1917年、「The Twins: Virginia and Jane 」(双子-1917):そのバージニアとジェーンの絵画(双子のご息女)は、多くの賞を受賞し、ピアソンの最も有名な作品だ。それは、ピンクのドレスを着た少女たちを描いており、縫製テーブルと深いブルー(群青)の壁画の前に立っている。
そこには、オリエンタル、そして、日本文化の影響は大きい。

第一次世界大戦中(1914-1918年)は、フィラデルフィア海軍造船所で、その勤め果たして、彼のスキルから、Dazzle Ships(ダズル迷彩/Dazzle camouflage)を纏めている。

画像4

(cc)Dazzle Ships

ただ、彼は、その戦争の影響を強く受け、その後の後半のキャリアは、宗教画を描くようになる。

悲しみ(ピエタ)(1935)

(cc) Sorrow (悲しみ/Pieta)-1935 

1913年、国立デザインアカデミーの準会員(Associate member)に選出され、1919年に学識者(Academician )に選出された。
1926年、フィラデルフィアで開催された建国100周年記念博覧会には、PAFA経由で招聘され、壁画を描いている。
その後も、実に多くの展示の実績がある。

1947年、最愛の妻エミリー・フェッター・ピアソンは、その年に急死している。
その時以降、教え子で友人のアリス・ケント・ストッダード(Alice Kent Stoddard,1883-1976/アメリカの肖像画家)は、ジョセフ・ピアソンの複数の肖像画を描いている。
1951年、亡くなる。それは、最愛の妻エミリーの後を追うように、3年後だった。そして、妻エミリーの眠る、アイビーヒル墓地(フィラデルフィア)に埋葬された。
また、ペンシルベニア美術アカデミーは、1952年初頭にピアソンの作品の記念展を主催している。
また、2001年、ウッドメア美術館(Woodmere Art Museum)での回顧展で紹介されている。
20thのアメリカの美術史に与えた影響は大きだろう。

画像6

(cc) Joseph Thurman Pearson Jr.

最後に付け加えるが、そのジョセフ・ピアソンは、ペンシルベニア美術アカデミー(PAFA)で1909-1922年、1924-1937年までのトータルで、25年間教鞭を取っており、アメリカに於ける著名な学識経験者だろう。
そして、その周囲には、学生で友人だった、アリス・ケント・ストッダード(Alice Kent Stoddard,1883-1976/アメリカの画家)などがいる。そして、そのアリス・ケント・ストッダードは、妻エミリーの亡くなった後、1948年に後の妻(彼女の概ね65歳の時)となるのだ。その結婚期間は、ジョセフ・ピアソンが亡くなるまでの僅か3年間だった。幸せのあり方も、その時間域も、その人、その人で、それぞれだ。そして、誰しも、先は見えないし・・いや、今もわからない・・・


この記事が参加している募集

コンテンツ会議

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?