あけぼの村物語-東京国立近代美術館蔵

山下菊二- 反骨の画家と自由な表現

山下菊二(1919-1986)
徳島県三好市(現)井川町に生まれる。香川県立工芸学校-5年制(高松)1937卒。
その後、福岡の借家店の宣伝部(ディスプレイデザイン・広告)に勤務する。1938年に東京美術学校師範科(東京芸大美術学部の前身)をめざし上京する。そのために、福沢一郎の絵画研究所に入る。
ここで、もっとも、特筆すべきは、哲学・文学等の芸術の周辺の学問も重要性を感じたことだ。
それは、作者自身の重心が大切だ、と感じたのだろう。(デュシャン以降の芸術のあり方と同様の視点)
この研究所では、絵画に政治・社会的思想の取り込む流れ「絵の中の思想」、そして、シュールレアリスム等に感化される。
戦後になってからの山下菊二は、戦争体験と、戦争の社会的問題をテーマとした作品を多く制作している。
1944-1949年、東宝映画教育映画部に勤務する、その後、日本共産党山村工作隊にも参加したともいわれる。
1952年以降は、小河内村ダム反対闘争、松川裁判、安保闘争、狭山裁判などに視点を向けた。
新潮文庫の大江健三郎作品の表紙を描いたこともその流れからといわれる。
1975年に、筋萎縮症と判断され1986年に死去した。

戦争と狭山差別裁判-1976

転換期

*池袋モンパルナスの自宅(アトリエ)で、フクロウを飼っていたことや、その映画出演(彼女と彼-羽仁進監督)も異端的だが著名だ。
戦争体験や共産党部分が、誇張されて書かれている事が多いが、いつも庶民の側に立っての視点を持つ人柄だろう、それは、絵画・晩年のコラージュの中に表象されている。
もし、今も山下菊二がいたら、あいちトリエンナーレ 表現の不自由展に出展しただろうか?

著名な作品は、あけぼの村物語(1953年)、見られぬ祭(1965年)、葬列(1967年)、転化期(1968年)、*飼われたミミズク(1971)他多数。それらの作品は、問題視される必要もなく、公共のミュージアムに数多く展示されている。

(註)
*池袋モンパルナス:1930年頃、西池袋(豊島区要町、長崎、千早、周辺)に芸術家向けにアトリエ付貸家群が生まれ、アトリエ村と呼ばれた。池袋という街の自由な雰囲気のもとに、多様な交流がなされた。

飼われたミミズク 1971

*飼われたミミズク(1971):一般的に言われるコメントに反して、菊二自身は、大正天皇を敬愛していたともいわれる、それは、戦争のない穏やかな大正時代だったからかも知れない。
今日、2019年11月10日は、天皇陛下ご即位の祝賀パレードがあるという、穏やかな令和時代を望みたい。


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