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【エッセイ#16】呪術と芸術の間 ―アイスキュロスと異界の言語

人が言葉を発する時、ほぼ必ずそこには意味があります。そして、意味を超えたこの世以外のものを、人間の言葉で表現するのは、想像以上に難しいものがあります。
 
まあ、神様でもいいのですが、そもそも、この複雑な世を創った神が、人間などが分かる言葉で、人間にも分かるような表現のメッセージをくれるのだろうか、と疑ったことはありませんか。そういった懐疑も含めて、人間を超えた存在や世界を表現することは、実は、あらゆる芸術の大きな基盤だと思っています。


 
西洋文学の源流に位置するのは、ギリシア悲劇だと言われています。フロイトの「エディプス・コンプレックス」で有名なソポクレス『オイディプス王』に代表される重厚な悲劇群は、ラシーヌやシェイクスピアを始めとして、多くの後代の作家にインスピレーションを与えてきました。
 
ギリシア悲劇には、三大悲劇詩人がいます。アイスキュロス・ソポクレス・エウリピデスです。アイスキュロスはギリシア悲劇初期の礎を築いた一人。彼より30歳程年下のソポクレスは、その最盛期で、最も均整のとれた劇を創れる最高の悲劇詩人。ソポクレスより15年程遅く生まれたエウリピデスは後期で、複雑で熟成された悲劇を遺した詩人です。
 
アイスキュロスの遺した作品の中でも、『アガメムノン』は彼の最高傑作と呼ばれています。しかし、ギリシアの大悲劇詩人の代表作だと思って身構えて読んだ読者は、おそらく、あまりの異様さに、度肝を抜かれると思います。

おっおっおっおっおっ、ぽ、ぽぃ、だぁ

久保正彰訳

 
劇中盤の台詞です。こんな台詞(?)が、古典と呼ばれる作品のなかにあってよいものなのか、目を疑います。これは、トロイアの王女、カッサンドラが、予言の神アポロンの神託を皆に告げる際、彼女が絶叫する言葉です。
 
岩波文庫の訳者、久保正彰氏の注釈には「恐怖、悲嘆、驚愕などの激情をあらわす」とあり、その通りではあるのですが、こんな表現でよいのでしょうか。私は古典ギリシア語が分からないのですが、複数の訳を読む限り、原文を音通りに記すと、大体このような言葉になるようです。
 
そして、その後に出てくる予言の支離滅裂な凄まじいイメージと錯乱。それは、カッサンドラの故郷トロイアを滅ぼし、彼女をここミケーネに連れてきたギリシアの総大将、アガメムノンと自分が、アガメムノンの妻クリュタイムネストラに殺される未来でした。しかし、カッサンドラの錯乱を聞いていたコロス(ギリシア悲劇で民衆を表す合唱隊のこと。英語だと「コーラス」)の人々は、はっきりと意味を理解できません。


 
そして、起こる悲劇。そこからこの劇は更に物凄い熱量でもって、コロスとクリュタイムネストラ、彼女の愛人であるアイギストスとの対立を描きます。民衆と高貴な王族がここまで激烈に罵り合う場面は、他には思い出せません。
 
そして、「えっ、ここで終わるの?」と戸惑う唐突なぶつぎりのラスト。実はこの作品は「オレステイア」三部作と呼ばれるアガメムノン一族の悲劇連作の第1作ではあるのですが、第2作『供養する女たち』は別に第1作のラストから始まるわけでもなく、この唐突感は異物として残ります。
 
私は初めて読んだとき、何かわけのわからない、とんでもないものを読んでしまったと思った記憶があります。「戦争批判文学」のように言われることもありますが、これはもっと恐ろしい何かです。

『カッサンドラ』
イーヴリン・ド・モーガン画

 
一体、カッサンドラのこの異様な台詞は何を表しているのでしょうか。「激情をあらわす」だけであれば、例えば、エンタメ系の小説で「あああああああああ!」だとか、「うおおおお」のような、人物の絶叫を示す、地の文とかけ離れた破調台詞はあるのでしょう。おそらく、それらは、キャラクターのまさに激情や昂揚を表しているのでしょう。
 
しかし、『アガメムノン』のカッサンドラの台詞はそれらとは方向性が違う気がします。
 
彼女は昔、予言の神アポロンに愛され、予言の力を受けました。しかし、その時破滅的な未来を見てしまい、アポロンを拒絶。怒ったアポロンから「未来を予言できても、その言葉を誰も信じられなくなる」という呪いをかけられています。そのせいで、彼女の滅亡の予言を、トロイアの人々は信じることはありませんでした。
 
この劇で、彼女の予言が錯乱に満ちた意味不明瞭な理由は、そのアポロンから受けた呪いでしょう。そして、予言を告げる前の不気味な絶叫は、アポロンへの呼びかけと共に響き渡るのです。
 
つまり、あの台詞に出来ない意味不明の言葉とは、神の予言と同時に呪いを受けた人間の痛み、そして、神々の神託が、人間の言葉として出てくる前の、原初の力を表現しているのではないのでしょうか。それは、まるで、異界の神々の交わす言語が垣間見え、人間の世に顕れたものではないでしょうか。

『アイスキュロス作「アガメムノン」
上演中のアテナイの観客』
ウィリアム・ブレイクリッジモンド卿画

 
ギリシア悲劇というもの自体、神と人間と交錯するドラマであり、また、神の力を得た者が、どのような末路を辿るかという悲劇です。アガメムノン、カッサンドラ、あるいはオイディプスやメディア、アンティゴネーに至るまで、大元を辿れば、神ゼウスの力から生まれた子孫たちの因縁によって、破滅します。
 
ここにあるのは、別に、人間じみた好色な神々の愚行による落とし前ではありません。人知を超えたこの世の力をいかに統御できるのか、という古代の人々の思考の発露です。同時に、異界の存在とその力に触れた人間とのすれ違いの悲劇、という、世界各地の神話にあるモチーフです。
 
そして、アイスキュロスが特異なのは、その力が人間を超えてしまっているところを、ほんの一瞬でも、表現しようとしたことにあります。彼は、オレステイア三部作の最終作『慈しみの女神たち』でも、冒頭、亡霊にうなされて呻きまわるコロス、という強烈な場面で、アテナイ市民を震え上がらせたと言われています。残された作品には、ト書きだけで台詞はないのですが、これもまさに、彼独自の表現でしょう。
 
そして、ソポクレスやエウリピデスになると、こうした直接的な表現は消えて、遥かに洗練された人間同士の言葉のやり取りになります。そこには人間の感情の動きがあり、細やかな悲しみがあります。

これは、ギリシア悲劇というジャンル自体がそれだけ洗練されていった結果とみるべきでしょう。また、彼らの住むアテナイという国家が成熟していく時期にも一致しています。


 
まだ、ジャンルの規則もきまっておらず、ある種アナーキーな状態だった初期のギリシア悲劇においては、劇は私たちが思う文学というものからは程遠く、古代の祭祀やまじないの儀式、あるいは神々の力を自ら操ろうとする呪術の類に近かったのではないでしょうか。
 
その中で、文学や演劇と呼ばれるものが、人間そのものを描くことに移行していく。その途中の瞬間に生まれた、この世の裂け目のようなものが、アイスキュロスにはあるように思えます。私は世界各地の神話を読むのが好きですが、これほど強烈に「触れてはいけないもの」という存在を感じることは、滅多にありません。
 
それは、アイスキュロスが、自分の感覚を研ぎ澄ませて、当時の人々の感じたものを探り、自分の表現に落とし込んだからこそ、できるものなのでしょう。それゆえに、これは、演劇というジャンルに関係ない、人間の「文学」としての傑作なのです。


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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