【エッセイ#8】歴史が映画に流れ込む ―『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』

私たちは日々、現実の映像が断片になって継ぎ合わされたものを見ています。テレビは勿論、YouTube等インターネットの動画も。そこでの現実の映像は、編集されて、大量の現実でない映像やアニメーションと組み合わされます。つまり、そこでは「現実」は、現実にない映像と全く同格に置かれます。私たちは「現実」に驚くことはなくなっています。この「現実」は、歴史と言い換えてもよいでしょう。
 
ですが、「現実」の映像に新鮮な驚きを覚えて、改めて現実の状況を再認識することは、確かにあります。それは、映画というフィクションの中においてです。フィクションの中で、不意打ちのように私たちを覚醒させることで、現実、そして歴史が何であったかを認識させるのです。


イタリアのマルコ=ベロッキオが監督した2009年の映画『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』は、邦題の通り、イーダ=ダルセルという女性が、後の第二次大戦時のイタリアの独裁者、ベニート=ムッソリーニの愛人となって苦闘したという、実話に基づく人間ドラマです。

DVDパッケージ
左:ベニート(フィリッポ=ティーミ)
右:イーダ(ジョヴァンナ=メッゾジョルノ)


 社会活動家ベニートの無名時代からの愛人だったイーダですが、彼は本妻と別れるつもりもなく、産まれた子供も認知されません。イーダ役のジョヴァンナ=メッゾジョルノも、ベニート役のフィリッポ=ティーミも大熱演で、二人の長年の激しい情熱と愛憎のドラマが繰り広げられます。しかし、自分たちの正当な居場所を激しく求めるイーダを、ベニートは強く拒絶し、彼に会うことすらできなくなります。
 
そんな中、彼女は映画館に入ります。当時の映画は、本編の前に、ニュース映画がありました。それを観ていると、不意に、ベニートが出てきました。

彼は立派な背広を着て、おそらくは政府高官に取り囲まれて立っています。それまで彼は、庶民的なスーツ姿で、デモの先頭に立って煽動したり、演説をしたり、イーダと部屋で過ごしたりしていました。しかし、会えない間に、彼はファシストの党首として、イタリアのトップクラスの人気政治家に上り詰めていました。

イーダは目を丸めて見つめます。映画館の観客たちは、彼の映像を見ると、無言で立ち上がり、敬礼のポーズをとります。イーダは立ち上がって振り返り、背後のベニートの映像を背負うようにして、彼らをじっと見つめます。「あなたたちは、いったい何を見ているの? こんなの、私の知っていたベニートじゃない」とでも言うかのように。

実際彼女は、「正しい」のです。なぜなら、彼女が観たスクリーンに映っているのは、ティーミが演じたベニートではなく、現実のベニート=ムッソリーニの映像なのですから。

ここで、これまで映画を観ていた観客は、不意打ちを食らうことになります。そこには多重になったレベルの衝撃があります。

まず、物語のレベルとして、ベニートがイーダの手の届かない人物になってしまったことを示します。イーダにとっても、観客にとっても、彼は今までとは文字通り別人です。彼女は、愛する人が政治家のリーダーとなって、彼は別人になってしまった、取り残されてしまったという衝撃を受けたはずです。その衝撃を、映像上で、観客も自分の感覚として受けることになります。

そして、今までと違う役者を使う(よくある手法です)のではなく、現実の映像を持ってくることで、観客に現実の歴史そのものの感触を実感させます。

実のところ、この映画では、冒頭から、当時のニュース映像や新聞の見出しがふんだんにコラージュされ、20世紀初頭の雰囲気を感じることができます。しかし、この場面で、起きたことは、全くそれらと別の感触をもたらします。本当に、歴史が「侵入してきた」という感じを受けるのです。

それは、この歴史映像が、フィクションの中のドラマと結びついているからです。先に挙げた通り、イーダにとって、愛する人が完全に別人になってしまった衝撃が、現実の歴史のムッソリーニの映像と組み合わさっているのです。

映像のレベルで、俳優のティーミとムッソリーニはあまり似ていません。神経質そうで面長な顔立ちのティーミと、鋭い眼光とえらのはった顎の、ふてぶてしいムッソリーニでは、かなり印象が違います。それでも、ティーミの素晴らしい演技により、これはムッソリーニを演じている役者と、観客は受け入れています。

その前提を覆すことで、「これは現実を再現したフィクションだ」という観客の意識を壊します。そして、ドラマ上のイーダの強い感情の動きを受けることで、観客は別の意識を促されるのです。「歴史とはこのようなものではないか」と。

「人は自分自身の物語を生きる」と言いますね。私たちは普段、自分の身の回り(SNS等も含めて)をだけを見て、自分の思っている常識通りに、日々の時間が過ぎていくのを実感しています。仮にうまくいかないことがあっても、自分の物語が壊されることは滅多にありません。

1人の個人が歴史の動きに巻き込まれるということは、今まで当たり前だと思っていた目の前の光景が、揺らぐことです。それは、自分とは異質の得体のしれない何かが、日常に侵入してくることでもあります。それは、自分の物語に全く別の世界の論理がぶつかってくることです。

それは、フィクションの中のイーダという女性が、フィクション以外の別の世界と出会う感覚に近いのではないでしょうか。そして、それは、目の前のフィクションを楽しんでいた私たちに、フィクション以外の現実の歴史を突き付けてくるのです。そして、忘れてはならない、現実のイーダ=ダルセルもこのような衝撃や痛みを味わっていたことをも思い出させます。こうした、多重の仕掛けによって、この場面の衝撃は成り立っているのです。


監督のマルコ=ベロッキオは、精神分析を学んで『肉体の悪魔』や『夜よ、こんにちは』といったどこか夢と現実が混じったような映画を創ることもある(実際『愛の勝利を』でも、どこまでが人物の妄想でどこまでが現実か分からなくなるシーンがあります)映画監督で、1960年代以降、最も知的な映画監督の一人だと思っています。

この場面でも、決して洒落っ気から、現実のムッソリーニの映像を出したわけではないと思われます。その理由は、このシーンの後の、ティーミが出てくる(あるいは出てこない)場面の扱い方でよく分かります。それを見ることで、歴史というものの残酷さが伝わってくるのです。イーダの行く末と併せて、是非、実際に映画をご覧になっていただければと思います。

現実は、映像や文字で再現すれば、そのまま感じ取れるものではないということは、以前ゴダールを論じた時にも述べたことです。それは、人類の歴史についても同じことです。私たちはあまりに多くの現実の映像に囲まれ過ぎています。CGや豪華なセットを使って歴史絵巻を作っても、それは再現だとしか思いません。

ただ、人を一つの世界に取り込む、フィクションの世界で、知性と戦略を持って仕掛けをつくれば、今までとは違う世界を体感する衝撃を与えることができる。それこそが、芸術としての映画の面白さと言えるでしょう。


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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