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【エッセイ#3】2人の少女が見つめた別の人生―『パトリシア・ハイスミスに恋して』


私たちは常に「今、ここ」の人生だけを生きているのではありません。私たちの頭の中には、ここにはない別の人生、別の世界が広がっていて、私たちは現実と同時にその世界を生きている。

そして重要なのは、その「別の人生」は決して脆いものではなく、現実世界に滲みだして、現実を変えてしまうほどの力を持っているということです。
 
少し前になりますが、映画『パトリシア・ハイスミスに恋して』を映画館で観てきました。『太陽がいっぱい』や『見知らぬ乗客』で有名な犯罪小説家の人生を描くドキュメンタリーです。

1921年生まれのハイスミスがニューヨークに出た少女時代から晩年までを、作家の日記や写真からの引用、原作となった映画の引用、周囲の人間への新規インタビュー、取材嫌いだった作家本人のインタビュー映像を交錯させて描いた、なかなか興味深い作品でした。
 
上記2作は名作映画にもなった犯罪小説の古典と言うべき作品ですが、近年話題になっているのは、1952年に発表された『キャロル』でしょう。平凡なデパートの女性店員が、おもちゃ売り場で美しいブロンドの人妻に一目惚れして恋に落ちる恋愛小説で、こちらも2015年にトッド=ヘインズ監督で映画化されています。

この作品は別名義で密かに出版され、「史上初のハッピーエンドのレズビアン小説」として、当時反響がありました。ハイスミスはレズビアンで、このドキュメンタリーも、彼女のLGBT的な側面をフィーチャーしています。
 
一躍人気作家になって、当時のアンダーグラウンドのレズビアンバーやカルチャーシーンで女王のように扱われ、女の子をひっかけては捨て、一目惚れして付き合っては、衝突を繰り返していた、不器用な性格だった彼女。

おそらくそうしたうまくいかない人間関係と、孤独を好む性格から、世界各地を放浪しており、インタビューに応じた元恋人の女性たちも、アメリカ、フランス、ドイツと国際色豊かだったのも興味深いです。
 
若い頃のハイスミスはブルネットの美少女でした。白黒の写真に納まった物憂げなニューヨーク時代の姿と、老年になって、荒れた生活を反映してか、眼の下の隈もどぎつく、険しい表情でインタビューを受けるカラーフィルムの姿の対比は、生々しいものがありました。

映画公式HPより。若い頃のハイスミス。


この作品の中で、彼女が『太陽がいっぱい』の構想を得た時を語るシーンがあります。港町の海に面したホテルで朝、なんとなしに窓の外を見下ろしていると、埠頭の朝市を歩く若い男が目に留まる。その男は特に変ったところもなかったが、ただその男の歩く姿に何か不思議な感じを覚え、罪の意識を感じずに犯罪を繰り返す男の物語を思いつく。
 
彼女がこう語る声を聴いた時、唐突に私の頭に、ハイスミスとは全く関係ない、もう一人の女性が頭に浮かびました。それは、アンネ=フランクです。
 
片や文学好きだけど、ナチスの迫害で若くして命を落としたユダヤ人の少女、片や映画化された犯罪小説によって華々しくデビューし、多くの傑作、佳作を残して重鎮の小説家として一生を終えたアメリカ人女性。

勿論何の接点もない二人ですが、私がなぜ思い出したかと言えば、2人とも同じブルネットの少女という事実だけではないと思います。おそらく、部屋から外を見るという行為のイメージが重なったからでしょう。
 
アンネが最終的に隠れた部屋には確か窓がなかったとは思いますが、彼女が逃亡していく中で、部屋で息を潜めて、窓の外の追っ手を窺う緊迫した事態に、何度も遭遇したと思います。

部屋から外を見ること、それは外から逃れると同時に、外にある世界や人生から切り離されてしまうことです。アンネが抱えていた感情の中の大きな一つは、外に出たいということでした。
 
そして、ハイスミスは、行動は自由でも、心はいつも閉ざされていました。彼女の母親は愛情の欠けた人で後に絶縁しますし、幼少期を過ごしたテキサスで周囲に溶け込めなかったことは、映画に出てくる親類を見ているとよく分かります。
 
何よりも、当時同性愛者であることは、ひたすら周囲に隠さなければいけないことでした。レズビアンバーに行くために、気付かれないように、一つ前の駅で降りて歩いて向かった時代です。

アンネが外の世界という形の自由を求めたのに対し、ハイスミスが求めた自由は、自分ではない、憧れた他人になる、ということでした。部屋から眺めて見つけた人になりきって、物語を紡ぐこと。ハイスミスは日記にこう書いています。
 
私が小説を書くのは
生きられない人生の代わり
許されない人生の代わり

 
考えてみれば、『見知らぬ乗客』も『太陽がいっぱい』も『キャロル』もまさにそのような話でした。それぞれの主人公たちが、華やかなテニスプレイヤー、金持ちの御曹司、美しく着飾った人妻に近づいていったのは、そこに、自分では決して体験できない人生を見出したからでしょう。

そして、自分のちっぽけな人生を、もっと輝いている別の人生に繋げるために、彼ら、彼女らはもがき続ける。
 
そう考えると、ハイスミス自身が、作家になる夢を叶えられなかったアンネが生まれ変わった存在のようにも思えてきます。2人は無関係だけれども、一つの思いによって、全く別の時代で共鳴している。

そしてその「別の人生をどんな形でも生きたい」という彼女たちの思いは、時を超えて、様々な時代の、様々な場所に散らばっている孤独な人々の心にも、共鳴していくのでしょう。
 
今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。




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