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見えないけど存在する

目を休めないといけないので、簡潔に描こう。すごく大切なことだ。

今日、風邪が治りかけた娘が「水ぼうそう」の症状が出たので、急遽小児科にて診察。くたくたな帰り道、薬を手に空を見あげたら、月と飛行機が青い空に浮かんでいた。

幻想的な空
飛行機はどこへ向かうのか

そこで、ふと思った。

『緑内障で、世界の25%を認識できないけど、それはただ見えないだけで、必ず「存在」している』

そのことを考えていたら、なんらかの本質に触れた気がして、だんだんと怖くなってきた。

頭の中で、その理由を説明しようとして、いろんな例えや検証や周りの実例が思い浮かぶ。身体感覚のハンディや、意識・無意識レベルで、興味のないことは世界には存在していない、ということなど。

そういった思考が、どんどん本質から逸れさせていく。隣人に説明しようとしたが、全く意図の違うものになる。だから僕は、文章に残している。

よくよく心を鎮めると、愛犬モネのことを思い出した。それが一番近いような気がする。怖さはない。なぜだろう。

三年前の写真

愛犬モネは昨年9月に推定15歳で亡くなった。しかし僕が重度のペットロスにならなかった理由がはっきりとある。
この胸で、最後の呼吸が止まった瞬間、その身体を超えた存在をはっきりと感じたからだ。圧倒的な、命の終わりと始まりを感じた。とめどなく溢れる涙には、悲しさよりも、ただ純粋な感謝が詰まっていた。

例え見えなくなっても、感じなくなっても、そこに存在しているという、紛れもない事実。

そういうことを空を見上げながら、深く実感したのだ。

青い空にぽっかりと浮かぶ月は、飛行機からとても見えないだろう。しかし、月は存在している。はるか下界のちっぽけな僕が、月と飛行機の、見える見えないの関係性を、見ている。

そこに存在する、ということは、なんと心強いことだろう。
また本質を曇らせる思考の一つに、子供の成長を考える。2度と戻らない今この瞬間だからこそ、大切にせよと。確かに、1歳5ヶ月の娘には、もはや新生児の面影はない。そして、10年後には1歳の面影もなく、20年後にはもっとないだろう。だから今を大切にすることもわかる。

しかし、遠い未来に20歳になった娘にも、新生児だったころは確かに「存在」する。見えなくなっただけで、ちゃんとそこにある。見た目の面影とか、親の記憶とか、三つ子の魂百まで、みたいな性格論を超えて。

ティクナットハン禅師がこう言った。「冬のひまわり畑をごらんなさい。あなたには何が見えますか?積もった雪しか見えなければ、瞑想が足りません。ここにはすでに、ひまわりの花が存在するのです。わかりますか?」

時間を超えてそこに存在する、という事実。それは、紛れもなく神様か何かの所業だろう。豊かな叡智、ともいうべきか。
見えても見えなくても自由。僕らに委ねられている。

それは、とてもありがたいことではないだろうか。

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