私の人生物語

1993年2月10日00時05分
埼玉県川越市の病院で私は生を授かった

3960gの大きな赤ちゃんだった

生まれたばかりの頃の記憶は、ほとんど残っていない

小さい頃の思い出といえば、
たくさんかわいがられたことくらい。

当時のことは父から聞いたことがなく
大人になって再会した母から昔話は聞かされた

2014年10月28日夜
2001年3月ころに離れ離れになって以来
初めて母親の声を聴いた。

そう。私は8歳の頃、突如として、母と別れ離れになった。

あれから14年の歳月を経て
再会を果たした。

この再会までの道のりが
私が歩んでいる今の道へと繋がっている

母がいなくなったあの日から
一日たりとも、母のことを想わなかったことはない
いつ帰ってくるのか、今どこで何をしているのか
そもそも、生きているのか。

とにかく、いつか必ず会えると信じて
母と会える日が楽しみで毎日生きてこれた

1年、2年、、、5年、、気づけば高校生になった
母はいまだに帰ってこない。

なんで、母はいなくなってしまったのか
今どこで何をしているのか。

高校生になり、
母がいなくなってから
ずっと心の支えだった友人たちとも離れ離れになり
というか、自分一人の力でどれだけ頑張れるのかを試したくて
誰も行かない高校を選んだ

高校に進学してから
母親がいない寂しさがグーっとやってきた
母無き日々をずっと支えてくれた仲間たちの存在の大きさに気づいた
もし、野球をやっていなかったら、
仲間たちに恵まれていなかったら、
私は、どうなっていたのだろうかと思いやられる。

高校生になってから
早速、壁にぶつかった
入学したての頃、私は、家で涙を流した。
辛い。学校生活がつらい。知ってる人が誰もいない。
友人関係がうまくつくれない。孤独が怖い。

自分のことを知る人が一人もいない高校を選んだといったけれど、正確には一人だけいた。内田くんだけがいたけれど、当時は彼のことを恨んでいた。なんで俺の邪魔するんだよ。俺が一人でどれだけできるのか試したい。母に再会するために自分を試したいのに、なんで知ってる人がいるんだよ。当時はそう思っていたけれど、あとあとになって、内田君の存在に感謝することになった。彼がいてくれたから、私は踏ん張ってこれた。そして、ごめんね。実はこういう背景があったんだ。

とにかく私は、母親と再会することが人生の中心軸になっていた
母親と再会するために、母親がいなくなってしまった罪を償うために
人生を歩んできた。

8歳で母親がいなくなってから
母親がいなくなった理由を聞かされることは一度もなかった
母親というワードが出てくることも一度もなかった
兄弟妹の間ですら同じことだった。

話題にできない
聴いたらいけないような雰囲気だったから
自分なりに考えるしかなかった

なぜ、母はいないの?
なぜ、帰ってこないの?
お父さんにも聞けない。祖父母にも聞けない。
弟や妹にも話せない。

だから、8歳だった私は過去を振り返った
「泣き虫だったから?」
「わがままばかりで迷惑かけてきたから?」
「原因不明の不治の病になってしまったから?」

そんな子供に育ててしまって責任を感じて出ていってしまったんじゃないか

だから、父は、私に対して素っ気なくなったんだ
それで父は、私に対して怒ってるんだ。
お前のせいで、母は出ていってしまった。と。

そこで私は決断をした。
「もう二度と泣かない」
「弱音吐かない」
「だれにも迷惑かけなくて一人で生きてけるようになる」

そうして、立派なテルになればお母さんは戻ってきてくれる
そうなった時に再会しよう。

全てを破壊してしまった、家族を壊してしまった罪を償うんだ。

そう決断した日から
今の私が創られた。

結論を言えば、私の思い込んだ世界は、
母親がいなくなった理由と全く関係がなかった
私は一切、悪くなった。

私の全く知らないところで、いろんなことが起こっていて
それが原因で、母親がいなくなっていたことを知った
それは、高校3年生の受験を目前に控えた1月ころだった

どうして知ることになったのかは
ここでは書かない。

母と離れ離れになってから10年
私は初めて、母親の存在を猛烈に欲した。
受験という並々ならぬプレッシャーに押しつぶされそうになり
1人では抱えきれないほどのプレッシャーに押しつぶされそうになり
誰にも話せない苦しみに悶えていた時に
母親が近くにいてくれないことを悔やんだ。

どうしてこんなに苦しいんだ
母が入れば、、話聞いてもらえたのに。
母がいれば、こんなに苦しい思いしなくて済んだかもしれないのに
どうして母はいないの?
お母さんに。。会いたい。

その想いが止められなくて
居ても立っても居られなくなって
苦しさに耐え切れず
台所にいた祖父母を前にして、初めて口にした。
言葉にするのが苦しくて、涙を流しながら。
やっとの思いで「母さん」という言葉を口にした。
母がいなくなってから、初めて「母」という言葉を口にした。
「母さんに会わせて。どこにいるの?なんでいなくなっちゃったの?」

なんで、母さんという言葉を気軽に言えないのか。
あの日々の自分を想うと言葉にならない。

そして、初めて、母がいなくなった理由を知った
私が思い込んだ世界は全く関係がなかった。

全く想像もしていなかった理由に
言葉を失った。

嘘だ。

そんなの嘘だ。

おれが悪いのだと思ってた。

今まで、自分が悪いと思って
その自分に罪を感じて、一人で強くなるんだって頑張ってきたのに
全く関係なかった。

18歳の私は、その日からしばらく
お母さんのことは忘れようと思った。

逆に、これまでお父さんが
どんな思いで過ごしてきたのか想うと
いてもたってもいられなくなった。

高校生になってから、父親のことを恨んでいた
こんなの父親じゃねーよ!って思ったこともあった
けど、これまで、父が口を閉ざしていた理由がわかった気がしたとき
自分の苦しさなんかちっぽけなものだと思った
父は、どれだけしんどかったんだろう?
寡黙な父、言葉をほとんど口にしない父
何を考えているのかわからない父
その口を固く閉ざす父は、私たち子供たちを守るためだったのかもしれない
そう思ったら、父に対して感謝の気持ちが湧いた。

「父親じゃね~なんて思ってごめんね。」

1年間の浪人生活を経て、無事に念願の大学へ入学した

浪人時代のことを少し話しておきたい
2011年4月から某大手S台の予備校に通い始めた
成績が想うように伸びなくて、
7月いっぱいまで頑張っても成績は変わらなかった
むしろ悪化していた。
その頃から、先生に質問するようになって、
素直に先生のアドバイスを取り入れた
そしたら、1か月足らずで、偏差値が爆上がりしていった
8月までは40台だった偏差値が8月、9月、10月とうなぎ上りだった。
結果62まで上がって余裕ができてきた。

その頃、束の間でパソコンを開き
調べごとをしていた時に、ふと、母のことを想った。
あの人のことなら、SNSをしているかもしれない
私たちのことを何か書いてるかもしれない

そう直感して、私たち兄弟妹の名前を打ち込んで調べてみたら
ドンピシャ。本当に記事が投稿されていた。

母さんは生きていた。

しかも、、弟と最近、再会したらしい
どうやら近くに住んでいることが分かった。
しかも、再婚していて、新しい命も誕生しているみたい
どんな子なんだろう?早く会ってみたい。
複雑な気持ちがありながらも、
再婚相手はとてもいい人みたいだったから安心した

そして、そのことを弟は一言も口にしない
どうやら、妹には話をしていたみたいだが私にはなかった。
私も、知らないふりしてそれから2年間過ごした

受験もうひと踏ん張り頑張ろうって思った

無事に、大学へ進学して新生活が始まった。

この大学生活は私の人生のターニングポイントとなる
自分に自信がなかったから、慣れ親しんだ環境に身を置くことにした
大学でも、弓道部に入部することにした

高校時代に日本一になっていた経験があり、
入部当初からちやほやされた
けれど、すぐに落ちていった
リーグ戦で大事な一射を外したことがきっかけでスランプに陥った
1年以上、的にめがけて矢を飛ばせなくなってしまった。
浪人して、掴んだ大学生活をこのまま過ごすわけにはいかない
途中で何かを投げ出すことは一度もなかったけれど
今回は初めて、退部をすることに決めた。
最後の日に引いた弓のことを忘れはしない。
2014年2月4日のことだった。

実は、辞めたのにはもう一つ理由があった
それは、同僚との関係性だった。
関係性がうまくいかなかった。
それが大きな原因だったのかもしれない

たとえスランプだったとしても
仲間との関係性が良好で、大事な仲間であれば
自分の状態なんか関係なく、仲間と共に過ごす時間を優先するだろう

でもその選択ができなかったのは
仲間との関係性をどうにもすることができなかったからだ。

高校生の頃、うまくいっていたように思えたのは
顧問がセッティングする場が良かったからだった
1年生で入りたての頃、最初に言われたのが来年はインターハイ出場しよう
その目標があったから、団結して切磋琢磨してどんな苦しいことも乗り越えられた

でも大学はそうはいかなかった

今までは海があったから上手くいっていたように思えた
でも、海が無ければ、自分は無力なんだ。

部活をやめるまで、2か月間
悩みに悩んだ。

辞めたらどうなっちゃうんだろう?
就職は大丈夫なのか?
王道から外れることになることの不安と恐怖

でも、そんなことより、
このまま、辞めずに、就職のために残り続ける道の方が怖かった
就職が不安だから部活を続けていたことに気づいた。

結局、自信が無くて、弓道人という服を着て自分を保って
未来不安で、安全牌な道を選んでいただけだったことに気づいた
今までの人生すべてがそうだったかもしれない。
野球をやっていたのも、観たくない自分から目を背けるために頑張ってきた

野球をやりたかったからじゃない
寂しさを埋めるため。お母さんに会うために強くなるため。
弓道がやりたかったんじゃない。
寂しさを埋めるため。自信がない自分を観ないようにするため。

大学を一般受験にしたのも、自分の実力を試したかったから
じゃなくて、何かに没頭していないと出てくる自分と向き合うのが怖かったから。

結局、みたくない自分という何かから
目を背けて生きてきた人生だったことに気づいたから

どこにも所属しない自分で、何の肩書もない自分で
どこまでやれるか試したい。

条件付けされた自分じゃなくて、
条件状況によって変わらない本当の自分と出会いたい。
その自分で生きていきたい。

その日から私の本当の自分探しが始まった。
最初のノートは2014年2月5日
毎日ノートに自分の考えや感情を書き綴った。
1人でとにかく綴り続けた。
大学の講義がある時以外は、その時間に没頭した。
暇さえあれば、一人で机に向かって内観をする。
気付けば1年間で54冊のノートと
大きめのファイルびっちり10冊ほどの内観の記録になった。

そこまでして、自分なりにたどり着いた答えがあった
あるとき、いつものように内観していた時
あるパターンがあることに気づいた。
それは、幸せの感覚はずーっと有るものじゃなくて必ず消える
消えて、絶望の感情を通過する。
絶望のさなかに居るときは早くここから抜け出したいと思う
けど、その絶望も同じでずっと有るものじゃなくて、その中にかすかに見える希望がある。その希望を掴んで、もうこれを手放したくないと思っても
それはまた消えていき、絶望の海に放り出される。

心の動きがあることに気づいた。

別の表現で言えば、
ぎゅ~~~~っと点の中に圧縮していく感覚と
逆にそこからぐわ~~~っと外へ広がっていく感覚。

そんな心のパターンがあることに気づいたら
心が軽くなって、考えが静かになった。

そんなころに、母との再会があった

徹底的に自分と向き合った
たくさんの困難を乗り越えてきた
もう会ってもいい。

そして、母に電話をかけた
そしたら、出てくれた。

「もしもし」
「あ、もしもし、、わかる?」
「え?」
「てるだよ」
「・・・え?てるちゃん?」
「そうだよ。ひさしぶり」
「いまクライアントさんと会う所でたまたま時間があったの。
メッセージみてくれたんだね?ありがとう」
「メッセージ?」

なんのこと?と思ったけど口にしなかった。

おっとと、具体的な話に入ってしまった。

とにかく母と再会することになった

2014年11月2日
14年ぶりの再会だった。

14年間この日のために頑張ってきた
母と会うために、あれからの日々を過ごしてきた
こんだけ強くなったんだよ。こんなに頑張ってきたよ。
14年間の歩みを母に伝えた。

毎日、一日たりとも忘れたことがなかったから
14年ぶりという感じがなかった。

母と再会すればすべてが解決すると思った。
けれど、母と再会しても何も変わらなかった。
心の寂しさ、自信のなさ、すべてが埋まると思っていたけど
埋まらなかった

母と再会してしまって、
これから何を目標にしていけばいいのかわからなくなった。

自分が本当に探していたのは、
母親との再会じゃないことに気づいた。

条件状況によって変わらない本当の自分探し。

不動心の自分。

そいつと出会わないと、現実は何も変わらない。

それから、また、私は歩み始めた。

今度は、自分の夢とミッションを人たちに語り始めた
出会いに生き始めた。
暇さえあればイベントを探しては人と出会いに行った。

・大学卒業までに1000人近くの方とであい繋がった
・キリスト教、仏教に入り込んでみた
・本も読み漁って300冊以上投資した
・自己啓発セミナーには100万円ちかく投資した
・内観ノートは300冊は余裕に超える
・ネットワークビジネスも3つほどやってみた
・ビジネスを学ぶのに起業家スクールに100万円投資した

けれど、自分が探していた答えはどこにもなかった。
母と再会するために頑張ってきた人生が何だったのかと
取り返しがつかない人生に絶望し、でも本当の自分と出会うという最後の望みのために奔走してきた中で、心も疲弊して、諦めかけていた時に
出会ったのがnTechでありNoh Jesuさんだった。

彼の話を初めて聞いた時、正直何を言ってるのかわからなかった
けれど、日本人じゃない韓国人が、何か確信をもってメッセージを発信していることはわかった。命がけで人類にメッセージを発信している。
そう感じた時、ここにすべてをかけてみようと思った。

そうしてまずはセッションを受けた。
そこで自分の感じていた限界は自分個人の問題じゃなくて
人類共通の限界課題だということを知った。
それは父と母も同じだったことを知った時に
ここまで私のことを育ててくれた父に対して感謝の気持ちがとめどなくわいてきた。
そして、父に対して、手紙を書いた。2
23年間いきてきて初めて、お父さんに手紙を書いた
そして人生で初めて、お父さんと呼べた。

その手紙の中で、人生掛けてやりたいことが見つかった
就職はいったんせずに、その道を選択したいことを伝えて
父からお金を投資してもらえることになった。

就職の道を捨てて、大学の卒業式も欠席して
当時は90日間の宿泊型のスマート研修というものに参加した。

そこで出会ったのが、認識技術で、人間と人間の宇宙は実在しない
今まで自分が疑いもせずにあると思っていた世界が全部
幻であり、錯覚であることが分かった。

と同時に、ずっと探していた
条件状況によって変わらない本当の自分と出会い
ものすごい感動の波にのまれて、今までの人生すべてが癒された。

今、私は、人間誰もが自分の尊厳を自分で守り
一人一人がそれぞれの物語をもち、
その独立した個人たちが結集していく宙船つくりをしながら
鬱、自殺、殺人、戦争などの人間同士の争いが不可能な本物の教育を世界へ広げていこうとあの日から9年間一貫して歩み続けています。

本気で、人間の可能性を華拓かせる教育を探している人
自分が何者なのかわからなくて探している人がいたら
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